金色の虎


 先日も話題にした、宮内勝典氏の小説。
 多分これ、今手に入れるのはほぼ不可能っぽいので、本当にただ私の読後感想の備忘録としてのみこれを記す。
 ……ていうか、思うのだけれど。仮にも天下の講談社から小説を出していながら、たとえそれが四年前の作品だとしても……グーグルでの検索結果が180件ちょい、ってのは、どうなんだろうか。
 はてなダイアリーのデータにも入ってないから、いつもの書影つきの詳細ものらない。
 なんか、そういう苛立ちが、この本への感想と妙にダブってくる。


 基本的には、主人公ジローがインド、ヒマラヤをめぐり、さらに「シヴァ・カルパ」なる新興宗教の教祖と出会って、彼がペテン師かそれとも凄いヤツなのかを見定めながら、行動を共にする話。
 正直な感想……この教祖、そんなに凄い人じゃないよね、っていう。
 精力的なセックス・グルで、魅力的な外見の一方で仏教などの宗教にもそこそこ通じていて、言動に多少のカリスマは感じられる。けど、それだけだよね、とも思えるわけで。
 結局、表題の「金色の虎」に擬せられるのはこの教祖なのだけれども、やっぱり弱いよなぁと思ってしまうわけなのです。世界宗教に対してアニミズムを突きつけた人……という風に総括されるのだけれども、うーん、ホントかよ、っていう感じ。
 実際にその教団でやられていた事って言うのは、体育館みたいな施設に裸の男女を入れて照明を真っ暗にして、乱交をそそのかすみたいな事で、まあ確かに古代の歌垣の儀式とかに似ていなくもないけど、別にアニミズムをどうこう、っていうテーマが突き詰められていたようには思えないんだけどなぁ。
 晴れた日に男女数十人が素っ裸になって輪になって寝転んで云々。それがアニミズム
 性的な欲望を抑圧するのではなく、それを徹底的に走らせて涅槃にたどり着けとかいう教義らしいが、別にそんなに珍しくないよなぁ、そういう思想もさ、みたいな。


 前半のヒマラヤの聖者めぐりのパートを読んでいても思うのだけれど、要するに、究極ってヤツが見たい、という意味のフレーズが繰り返し出てくるのだ。人間ってやつをとことんまで突き詰めたら、正常で清らかなものが出てくるのか、それとも物凄く醜いものが出てくるのか。それが知りたいと。
 ――コミック版ナウシカを高校時代に読んでいる私の感想。「どっちも出てくるに決まってるじゃん」。清浄と汚濁こそ生命。


 なんていうかなぁ、ものすごく出家者的な志向を持った作品なのです。
 俗から離れて、ヒマラヤの奥地でとことん清浄な、清浄の極みみたいなものに会いに行く。かと思えば、セックス教団の中に踏み込んで、ケガレの真っ只中に飛び込んでいく。
 どっちも宗教家的だよね。
 もちろんそういう思索もあって良いのだけれど、そういう出家者的な志向を持った人にしか開かれていない作品だから、在俗の読者が読んでも、心に響かない。
 そもそも、この作品は、在俗の人間に対してまったくスイッチする回路を持っていないので。中盤、教団の存続のために、副代表みたいな人とちょっとだけ東京に寄って、そこで経済的な手配をするシーンが少しだけあるのだけれど。主人公はそれを見て、露骨に機嫌を悪くしてさっさと場から離れてしまうのです。
 俗世と切れている小説。まるで、出家者しか読まない、山寺の経典のような作品。
 否、失礼を承知であえて言えば、小乗仏教的。
 けど、世の中の人間すべてが出家したら、ヒマラヤの奥地に聖者を訪ねに行ったら、世の中成り立たないじゃん、という視点がここには無い気がするのです。出家者が食っていけるのは、在俗の人間の喜捨があるからでしょうに。


 宮内先生の創作方法について、大学の講義で聞いたことがあります。
 第一稿をあげてから、更に第二稿、第三稿と何度も同じ作品を書くことで煮詰めていき、ようやく発表されるのだそうです。
 その熱意はすごいと思うけれど、そうして書きあがったものが、上記のようにグーグル検索の結果で見てもほとんど話題にもならず、読まれもせずに過ぎていくのはどうなのだろうか。
 もちろん、書き手としてそれで良い、というなら私ごときが口を挟むことではないのでしょうが……けれど、作家として、出版社から作品を出してもらえるというのは、それ自体が一つの得がたい立場だと思うのです。
 ある種の、小説家としての天命っていうのがあるんじゃないのか。そういう立場にいる以上、より多くの読者に読まれるような作品を生み出す、そういう視点からの小説作りもすべきじゃないのかなと思う。読まれない作品に意味なんかないので。
 まして、宮内先生は、世界中で多くの経験もされているし、多くの作品を読まれてもいる。それだけのインテリジェンスがあるのに、作品として開かれていないために伝わっていかないのはもったいないと思うのですよ。


 前述のように、主人公ジローが東京を訪れるシーンがあります。
 今までインドやヒマラヤをめぐってきたジローの目に、東京がどう映るのか。東京に住んでいる私にとっては、その部分こそが楽しみで読み進めていた面がある。
 けれど、ジローは東京の情景をざっと眺めた後、「ここには自分の居場所はない」と言って、何の洞察も思考もせずに去ってしまう。
 東京は取るにたるモノが何もない、という認識なのかも知れません。それはそれでよいけれど、どんなに視野を世界に広げていても、結局これは日本語で書かれ、日本で売られている小説だ。読者だって大半が日本人でしょう。
 なら、読者である日本人との接点は、作品の中でももっと大事にするべきなんじゃないのかと思うのです。東京について、もっと筆を費やして欲しかった。主人公がまったく東京に来ないならともかく、来ているのだから。
 むしろ私は、宮内氏が東京を真正面から描いたらどうなるか、そういう小説が読んでみたいような気がするのですよ。


 さて、長々と書きましたが。
 何だかんだいっても、最後の方で、シヴァを背負ったジローが海岸を歩くシーンは、少しだけ胸に来るものがありました。
 うまく言葉にならないのだけれど……ちょっとだけ。
 それだけ言い添えておきます。