日本人の神はどこにいるか


日本人の神はどこにいるか (ちくま新書)

日本人の神はどこにいるか (ちくま新書)


 次に書く小説のテーマを深めるために読み始めた本。
 基本的には、「一神教多神教」というあたりを突き詰めて考えたくて手に取ったという感じです。


 で、以前から薄々感じていたことですが、一般に一神教と言われるキリスト教の中にも、多神教的な部分が結構大きくあるのだなという辺りを再認識したのでした。
 特に、エリアーデの思想の中からクローズアップされるテーマ「ひまな神」(世界を創造した一神教の神が、そのあまりの抽象性のため一般人の私生活にある細かな悩みや祈りの対象とならず、やる事がない神になっていくこと)と、その空いた部分を支えるキリスト教の(多神教的な)聖者・聖遺物信仰についての指摘は、なかなか有意義。私も漠然と似たようなことを考えてはいましたが、やはり本職の学者の手になる検証はありがたいです。また、イスラムにも同じ構造があるというのも収穫。


 けど、著者が後半でえらく熱心に書いている「一神教多神教モデル」というのには正直眉唾の感を禁じえないというか。一神教側に多神教の構造が必要というのは分かるけど、逆に多神教の側にも一神教的な要素が必要という論拠が弱いというか薄いというか。
一神教多神教も対立するものじゃなくて、実は同じモデルを別な側面から信じてるだけなんだから、分かり合えるんだよ!」っていう結論が先にあって、そのために検証部分がおろそかにされている感じ。宗像教授に言われるまでもなく(笑)、学問というのは結論先にありきではいけないものなので、ちょっとなぁ、と思いながら読んでいました。
 神の最終段階はユダヤの「ねたむ神」でもキリスト教の「愛の神」でもなくて、イスラム的な「慈悲の神」なんだよ! とかも、こんな薄い新書で論証ごり押しで言われてもねぇ、っていう(笑)。


 まあそんな感じですが、色々と勉強にはなりました。「先進国でキリスト教信者の数がここまで低いのは日本だけである」とか、さらっと書くけどよくよく考えると怖いよなとか。今の資本主義の起源が、ウェーバーの書くようなものだとすれば……どうしても。
 あと、お隣韓国のキリスト教人口が、全体の三割から五割っていうのも初耳。


 そんな感じで。さて、めでたく抱えていた作品の初期プロットがこれで破棄となったわけですが……次は積読しておいた『異端カタリ派』でも読むかな。