ラヂオの時間


 以下、ネタバレ注意。












 なんとなく、三谷幸喜のドタバタが見たくなって借りてきた。


 生放送のラジオドラマ。当初、熱海の地味(?)な恋愛物語だったはずの脚本が、出演者のわがままからアドリブの思いつきからスポンサーの事情から、色んなファクターで改変していくうちに宇宙がらみの無茶な話に……。
 という話で。三谷氏は、こういう嘘の積み重ねでどんどんニッチもサッチも行かなくなっていくっていう脚本は本当にうまいなぁと。大笑いしながら見ました。


 けど、それ以上に創作する者として、なんかね……しみじみしてしまった。
 原作の主婦作家(今回が初の仕事)が、しまいには放送室を占拠して叫ぶんですね。「脚本の通りにやってください! そうでないなら、エンドクレジットから自分の名前を外してください!」
 けど、それに対して言い返されてしまう。「自分たちだって、いつも満足して自分たちの名前が読み上げられるのを聞くわけじゃない。妥協に妥協を重ねてやるんだ。外してもらいたいと思う事もあるけれど、それでも名前を外さないのは、自分たちには責任があるからだ。この作品は自分が作った、そこからは逃げられない」。
で、続いてこう言われてしまいます。


「あなたの名前は読み上げますよ。なぜならこの作品はあなたの作品だからだ。紛れも無い」


 ……この覚悟がね。かなりフィクションのものとしてデフォルメはされてるだろうけど、それでも商業で作品を発表する者の覚悟なんだろうなぁとか。
 作家が作品に向き合う時に、漠然と感じる作品の芸術性みたいなもの。けど、そんなものはどこ吹く風といった具合に、商業の都合で話はどんどん変わって行ってそれでも自分の名前のクレジットの下で発表されてしまう……そういう事って、やっぱりあるんだと思うんですね。編集者判断とかねw


 そういう部分への覚悟ってのをね、まあ未だに単なる作家志望であったとしても、覚悟くらいはしておくべきなんだろうなぁとか思うし。それを、こういう風にある意味残酷な形で出してくるっていうのも凄いなぁとか思う。


 そしてラスト、そういう現実に対して、ちょっとだけ逆襲してみせるんですが……そこは逆に希望なんでしょうね。それだけ商業の都合に引きずりまわされてもなお、できる事はあるっていう。
 そういう、裏表両側へのしたたかさみたいなのを感じてみたりした。


 まあ、そんなに身構えて見るような映画じゃないんでしょうけどね、普通は(笑)。
 とりあえず、普通にエンタメとして面白い映画でしたよ、っと。
 特殊音声のおじさんカッコイイ(笑)。