「不殺」問題と、「セーラームーンショック」問題


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 「るろうに剣心」を中心とした和月宏伸論、および90年代少年向けエンタメ作品論。http://d.hatena.ne.jp/megyumi/:こちらの記事で知りましたが、かなり面白く読了。
 この分析は鋭いし、問題提起も多く重要な記事だと思う。
 と同時に、今自分が書いてる作品とダイレクトにつながっちゃってるので、これについてはちゃんと記事に起こしておこうと思った次第。


「不殺」、すなわち敵であろうとも決して殺さない、という縛りは、確かにかなり強固に実作者たちに影響していると思われます。
 実際私も、作中でキャラに人を殺させるのはかなり躊躇を覚える。ていうか一回、それで長編一つダメにしちゃったことすらあるので(殺すべき場面で不自然に殺さなかったために、終盤の盛り上がりが完全にボツ状態に)。
 むしろ、少年向けエンタメでは「人殺しを描くべきではない」というような錯覚すら、起こしそうになりますね。「人殺しシーンなんか書いちゃって大丈夫かな」と心配になる。
 そういう意味では、確かに和月センセは「触れちゃいけないものに触れちゃった」のかも知れません(笑)。物凄い呪縛です。


 ガンダマーとして考えると、この90年代的「不殺」問題に真っ向取り組んだのは『機動武闘伝Gガンダム』および『新機動戦記ガンダムW』でした。
 Gガンダムのこの問題への対応は大変クレバーで、犠牲者を出さない「武道大会」という形式で国家間戦争の代替行為としよう、という設定にすることで、いち早く、無理なく「不殺」を作中に成立させています。
 やっぱ、Gガンダムは一見バカばっかやってる様で、実は凄く考えられてる作品だなぁと改めて思うのですけどね。
 それでいて、「バカ」「パロディ」を装う事で、一昔前のビルドゥングスロマンに話を着地させている構成は、今見ても見事だよなぁという感じ。まあ、その分多少古臭い空気をかもし出してもいるにせよ。


 一方で、『ガンダムW』はこの問題と正面からがっぷり組み付いたあげく、見事に破綻してしまった作品です。特にリリーナの「完全平和主義」の(色んな意味での)ダメっぷりは伝説。この作品の「サンクキングダム編」のつまらなさを思い返せば、エンタメにおいて「不殺」を貫くというのが如何に困難かということを逆に考えさせられてしまいます。
 戦場でガンダムヘビーアームズがミサイル乱射したのに、死者は一人も出してませんというリアリズム崩壊の嘘っぽさ。根本的にガンダムという作品が系譜として「奇麗事は通じない」「殺すしかない」という場であった以上、ガンダムで「不殺」をやる事自体が困難な道だったという次第。
 それでも、Wの作者は『Endress Walts』で一応、この問題に対してけじめをつけました。「不殺」をテーマにしたガンダム作品において、それなりに真摯に幕を下ろしたわけです。


 で、その辺やっつけ仕事だったのが『ガンダムSEED』。これについてはもう、何をか言わんや。
「不殺を謳っていれば、主人公側の「正義」が保証されるんだろ?」という開き直りが、そこには見られるわけで。確かに若い視聴者、中学生くらいの視聴者はそこに素直に同調できていたようですが、少なくとも作品としての重みはなくなってしまっている。


 ちょっとガンダムに寄り道しすぎましたが。どうあれ、「不殺」というのは当代エンタメにおいてかなり大きなキーワードである事は確かなのかも知れません。
 問題になっている『るろうに剣心』でも、殺しが全然ないかといえばそういうわけではなく、たとえば斉藤一や四乃森蒼紫なんかは敵を容赦なく殺しているわけです。
 殺すという行為自体がタブーとされているわけではないけれど、主人公が人を殺してしまった時点で、主人公の「正義」が極端に揺らいでしまうというのが現状なわけです。
 どんなヒドイ、極悪非道なやつを相手にしていても、それと関係なく最後に「で、殺すの?」という厄介な問いが出てきてしまう。
 これが80年代であれば、例えば『北斗の拳』のジャギさまとかね(笑)、あのレベルの悪漢が出てくれば、容赦なく殺していたわけですよ。けど、90年代以降、現代においてはジャギ様を敵にしてすら「でも殺さずに済むならその方が」という選択肢が出てきてしまう。
 この問題と向き合わされる実作者は、かなりかったるい思いをする事になる。
 なんでかって、そりゃあ殺さずにすめば、その方が良いからだ。


 人殺しが忌避される理由は何かといえば、さまざまだ。「相手にも自分と同じ人生や人格が宿っているわけで」という倫理的な答えもあるし、その辺の理屈をすっ飛ばして「とにかく殺しなんてヒドイからすべきじゃない」という主張もある。
 けどまぁ、一番根源的な答えは、「人殺しは不快だから」だ。
 人は死ねば腐敗する。血が出ればこれもものすごく不快な臭いがする。人の形をしたものが動かなくなるのも薄気味が悪い。
 したがって、そういう行為を、物語の主人公がすれば主人公自体への不快感をも読者に喚起してしまう恐れがある。


 従って人死になど出さないに越した事はないのだが、バトルもののエンタメの場合、百回戦って百回とも相手を殺さずに済みました、というと今度はリアリズムの面で苦しくなってくる。「不殺」を曲げずに戦うというのは、全力で向かってくる相手に手加減して望めという意味だからだ。これは「剣心」でも散々出てきたモティーフだった。


 この面倒なアンビバレンツを、どう克服していくのかという発問が『るろうに剣心』以降、逃れられない呪縛として実作者にとりついてしまったなら、確かにそりゃ厄介だよね、とは思う。


 とりあえず私事だが、第一章とそこでのバトルを現在書き終えた時点で、結局敵を私は殺さなかったワケなのだけれど……この記事を読みながら、やはりどうしたものかと迷っているわけだ。



 さて。上記記事でもう一つ気になったのが、いわゆる「セーラームーンショック」への言及。
 四番目の記事で詳しく述べられているが、これはなかなか手厳しいというか。


 まず最初に白状しておくが、私は「ヒロインキャラの陵辱」に心魅かれる感性の持ち主である。
 自分自身、そういう性向に疑問をもって、あちこち関連文献を探ったり考えあぐねたりというのを散々やってきた。
 その過程で色んな回答も目にして来たが、この記事での答えは特にショッキングだったワケである。


 確かに、少女をメインに据えたバトルストーリーが成立する事で、「少年」の存在価値は揺らぐ。そして少年向けエンタメの場において、少年の存在価値を確保するために、戦うヒロインキャラは敗北を運命付けられる。
 嫌な話ではある。
 けど実際、「戦うヒロインのいないバトルもの」を組む事ができなくなった今の時代背景、エンタメ業界というのは否定しがたい。無理に戦うヒロインを出さない話を作ろうとしても、「ガンダムセンチネル」みたいな、これはこれで非常に偏屈な作品になりかねない(しかも結局、ALICEシステムという形で非常に男にとって都合の良い女性性を、盲目的かつ無邪気に作中に出してしまうあたりがあの作品の評価を底なしに低めている)。


 で、今組んでいる話のプロットだと、やっぱり最初にヒロインが戦って、ヒロインが敗北した末に主人公の少年が戦い始めるわけで、非常にわかりやすくこの記事が示した構図にはまってしまっているのが悩ましいわけなのであった。


 けどまぁ、これについてはまだ、私の中で「受けて立とう」という気分もある。「セーラームーン以降」の時代にエンタメを書く者として、少なくともこの問題は引き受けて書いていこうという気概が自分の中にあるので。
 ガンダムで男たちがメインの戦場を書き、また前回の長編作品では戦闘するのが男だけの、特撮作品へのオマージュを書いた。けど、書きながらやっぱり、自分の中で欲求不満の声が不断にあがっていたわけで。
 かつて私がやっていたガンダムページの読者さんのように、「男の戦場」みたいな、男のカッコよさに引かれて私の作品を読んでくれていた方々には若干申し訳ないけれど。
 私の主戦場は、どうもそっち方向なんである。
 小学校高学年の頃、妹が見ている後ろでこっそり『セーラームーン』を見てハマっていた私にとって、「セーラームーンショック問題」を抱えた少年向けエンタメの場が私の主戦場なのかも知れない、とか思っている最近なのであった。


 はいはいキモオタキモオタ。