ガンダムと家とか、あと色々


《ターンエーの癒し》=近世以前への退行
http://d.hatena.ne.jp/h-nishinomaru/20070507/1178523285


 個人的に、いささか納得しかねたので、反論がてら私の考えを少し書いてみることにしました。


 まず端的に、リンク先の記事における議論のすり替えについて。
 戦争という一つの出来事に対して、末端の一兵士の「家」「家族」が与える影響と、その戦争を指揮している国のトップの「家」「家族」が与える影響とは、同列に並べて比較できるとは思えない。
 その点で、引用されている富野監督のコメントにおける「ロナ家」と、アムロの家族とを対比して考えるのは乱暴に過ぎると考えます。


 そこを分けて考えるなら、戦争状態における為政者の《家》が、戦争そのものに影響を与えうるという富野監督の見解は、現代戦争へのコメントと見てもそこまで的外れではない――と言って問題ないのではないでしょうか?
 無論、近代国家における国家元首は原則的に世襲制ではないので、中世のハプスブルグ家などの事例ほどの影響力があるとは言えません(隣の国に素敵な例外がありますが)。とはいえ、国家戦争の原因に関わった為政者の人格形成に、家、家族をはじめその周囲の人間関係などが影響を与えているというのは、十分考え得ることです。そして富野監督は、そうした部分の影響が、世間で思われているよりも大きいのではないか? と引用された記事においてコメントしているのでしょう。


 切通理作著『ある朝セカイは死んでいた』での富野監督インタビューにおいて、監督は以下のように語っています。


 体制が例えば戦争やるって言った時に、戦争の是非は、それは言えない。そうすると、つまり『個』というのは、実はどこかで体制に係わってる。それが現実です。一番気の毒なのは、死んでいった奴がいるわけね。実はハナから勝つなんて思ってないのに、『お前ら聖戦だから行け』って言われてさ、死んじゃったのよね。で、死んじゃった奴(人達)に対して、行けって言った奴は、いったい何をやったのかという問題。その意志ルートってのをつなげていく作業は、結局、近代人現代人も含めてなんだけれども、実は、ほとんど出来る回路は持ってない。そういう認識があるんです。


 このコメントと、リンク先の記事における洞察を合わせて考えると、富野監督の関心の移り変わりをこういう風に読み解けないだろうか。


 初代『機動戦士ガンダム』において、家族から離れて国家に帰属する主人公は描いた。そして、結果としてそうした「国家に帰属する」個では戦争という大状況をどうにかできる力はないと分かった。
 そこで、富野監督の問題意識は、戦争を指揮している為政者の方に移って行ったのではないでしょうか。実際、初代『ガンダム』では、一兵士に過ぎないアムロと、敵軍の総大将ギレンとは接触がないままでした。それが『Zガンダム』以降、主人公は敵軍を指揮している国家元首クラスの相手と直接戦ったり、対話したりするようになっていきます。
 その結果、一組織の代表がMSで出撃していくような、リアリティのない状況にもなっていくのですが……そこでリアリティが失われたにしても、彼の持っている問題意識までが失われたとは私は考えません。
 実際の戦争ではありえない情景であっても、末端の兵士の見解を持った者と、戦争全体を指揮する立場の者とが互いの事情と言葉をぶつけ合う。『Zガンダム』以降のガンダムはそういう場へと変わっていきました。
 富野監督の関心は、「行けって言った奴が何をやったのか」という問題へと移ったのです。


 ではそこで、富野監督が為政者に向けた批判はどういうものだったか。
 それは端的に言えば、「私情を、大義だと言い張って戦争をしているんじゃないのか?」という点に尽きます。Zガンダム以降の敵軍の総大将は、必ずそうした「実は私情で戦争を起こしました」という告白をする場面を持っています。
 ハマーンによるアクシズ帰還は、自分を裏切ったシャアへの当てつけが多分に交じっていました(映画版Zガンダムについて語ったインタビューにおいて、富野監督自身がそうしたハマーン像について語っています)。
 シロッコは、「天才の足を引っ張る事しかしなかった凡人」への侮蔑をむき出しにします。
 『逆襲のシャア』におけるシャアは、アムロへのライバル心、そしてララァ絡みの鬱積を地球寒冷化作戦にぶつけていました。
 カロッゾ・ロナは、妻に見下されたと考え、その感情を「任務遂行のためにエゴを強化」してラフレシア計画へと振り向けていきます。
 マイナーですがコミック『クロスボーンガンダム』のクラックス・ドゥガチもまた、豊かな資源を持つ地球への嫉妬と、その地球側にプライドを傷つけられた事を理由に地球を核攻撃しようとします。
 Vガンダムのカガチなども同様。あと、クロノクルなどは、野望に燃える男を演じて恋人に良いカッコを見せるために、不自然なくらい突然「熱心なマリア主義者」になろうとしていて涙を誘います(笑)。


 そして、∀ガンダムのギム・ギンガナムもまた、ディアナ・ソレルが自分に労いの言葉もなしに地球へ降りたことを、反乱の理由であると自ら口にしているのです。


 ここで重要なのは、それらの「為政者の私情、その私情を隠すための大義」という構図を暴く役目を担っているのが、Zガンダム以降のガンダムパイロット=主人公であるという部分です。彼らは少年ならではの透徹した視線で、「大人の理屈」、つまり戦争の大義が、実は私情の転嫁に過ぎない事を見抜き、指摘する立場なのです。
 だからこそ、ガンダムパイロットは「家を離れ、国家の構成員となった」身であってはならない。自身がそうした大人の都合の中にあっては、為政者が抱えている矛盾を指摘する事ができないからです。
 これが、後代のガンダムにおいてアムロのように「家を離れ国家に帰属した」ガンダムパイロットが出てこない理由です。


 確かに、h-nishinomaruさんのおっしゃるように、リアリティの面で言えば初代ガンダムが一番戦争を活写していたでしょうし、その後の作品がリアリティの部分で後退していった面は否めません。
 しかし、それは退行ではない。私はそう考えます。突き詰めるべき問題意識が変わったのだと、思うのです。



 続いて、囚人022さんの日記について。


“戦争”は神聖にして“方便”にすべからず?
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-828.html


 この記事を読んでいて、友人に以前言われたことを思い出しました。
 ちょうど私がガンダムにどっぷり浸かっていた頃ですが、彼はこんな忠告を私にくれたのです。


「戦争という極限状況を設定して考えることは構わないけれど、それは一方で”極限状況をロマン的に美化して、それに浸って酔ってるだけ”にもなりかねないから気をつけろ」


 概ね、こういった助言でした。
 まあ、分かりやすく言ってしまえば……アナベル・ガトーがそのままこれです(ぉ
 つまり生と死の極限状態、特攻とか、そういうドラマティックな部分には確かに感銘を受けるけれど、それは実は日常生活ではあり得ないドラマに酔っているだけで、あまり実のある考察にはならないケースもあるぞ、というわけです。
 神風特攻や、銃撃と焼夷弾の嵐ばかりが戦争ではないわけです。そうした前線の兵士の目から見た戦争と、大根洗いながら「米がない」とグチグチ文句を言っているおばちゃんの目から見た戦争は違ったはずですし、そのどちらもが紛れも無く戦争だったわけで。
 ところが、ガンダムのようなロボットアニメで戦争を扱おうとすると、どうしても「前線の兵士から見た戦争」、「生と死の極限における戦争」しか描けない。なんだかんだで、見る方はバトルシーンが見たいわけですし、実際富野監督も、30分に1回必ず戦闘シーンを作品に織り込んで行きます。
 だから――そうした「ガンダム」のような作品の枠だけで戦争を考えていても、一面的にしか見ることができないよと友人は忠告してくれたわけで……その事を思い出していたのです。


 実は、ニュータイプ思想にも、同様の問題があります。
 ニュータイプとか人類の革新とか、そんな問題は地球の端っこで大根洗っているおばちゃんにとっては、どうでもいい話に決まってるじゃないですか(笑)。けど、ガンダムという枠組みの中だけで見ていると、そういう部分が斬り捨てられてしまう。


アナハイム・ジャーナル』というガンダム関連の書籍がありまして、そこに、宇宙世紀0100年にカイ・シデンがアナハイム・エレクトロニクス元会長のメラニー・ヒュー・カーバインへインタビューをした記事というのが掲載されています。
 そこで、メラニー会長が行ったニュータイプ、そしてシャア批判こそ、ガンダムの長い歴史の中でも最も辛辣で的を射たニュータイプ批判だろうと私は思っていて(笑)。
 実は、今アナジャがどっか行っちゃって出てこないので引用できないんですが……。


 メラニー会長は言うわけです。スペースノイドは貧民で、アースノイドは地球連邦高官などの富裕層だなどと決め付けているが、地球にも、宇宙にすら上がる事のできない貧民層は沢山いた。そして、そんな連中にとっては、宇宙に出ることでニュータイプになれるとか、地球にへばりついているノミなんて言われる筋合いはない。そもそも日々の生活で精一杯で、人類の革新がどうのこうのとか言っていられない。
 地球寒冷化作戦を行ったシャアは、そこのところがまるで分かってない馬鹿だと、会長は言ってのけるわけです(笑)。スペースノイドアースノイドの対立なんて、頭の中だけで考えた構図で戦争起こして地球ごと潰すところだったと。


 これは手厳しいです(笑)。そして、ロボットアニメとしての「ガンダム」と、ニュータイプという考え方の痛いところを的確に突いています。
 つまり、所詮「人類の革新」とか、そんなことを言っていられるのはシャアのような「インテリ」なわけで。大根洗うので精一杯なおばちゃんの視線という、考えようによっては最も大事なモノの見方が全部切り落とされてしまっている。


 そして長くなりましたが。
∀ガンダム』こそ、「大根洗うので精一杯なおばちゃん」の視線を取り入れることの出来た、初めてのガンダムなのですよ。
 私は「アニス・パワー」という回が大好きなんですけれどね(笑)。あれこそ正にそうじゃないですか。一般の農業やっているご老人にとって、戦争ってのはあの程度のものでしかない。そしてあれもまた、戦争の一つの見方です。
 そして、そのアニスおばさんの畑を守るために出撃していく∀ガンダムが、最高にカッコよかった。


 富野監督が、「∀は20年後のアニメのスタンダード」だと言ったのも故ないとは思いません。
 退行? とんでもない。∀こそ、最先端のガンダムであり続けているのです。ロボットアニメでは描けなかった事を、戦時中の畑、パン屋、野戦病院、休戦中の兵士……「生と死の極限」ばかりではない、多面的な戦争を描く事の出来た初めてのガンダムなのですから。