数の歴史


数の歴史 (「知の再発見」双書)

数の歴史 (「知の再発見」双書)


 最近、職場の昼休みに読んでいる「知の再発見双書」。
 で、文系のくせに、数学の理論とか証明とかもけっこう好きな私は時々こういう文系でも読める数学関連の本を読んだりするわけで。


 基本的には、数、数字が生まれた歴史、世界各地のソロバン(に類した計算機)などを軽く概観したり。
 とりあえず、「0」という数字を発明した国がインドだっていうのは有名な話ですが。去年にはインド数学の本がちょっとしたブームになったりもしたんですけど、「インド」って言われた時のとっさのイメージとなかなか結びつかなくて、面白いようなもどかしいような。日本に篭もりきりのオタクとしては、インドといわれて連想するのは象、仏教、ヒンズー教ヨガファイヤーコブラガンダムくらいだもんなぁ(黙れ


 そして、この本の一番の山場(?)は、カントールの無限の話でしょうかね。
 まぁ無限論って、数学の中でも厄介な話題なわけですが、読んでて非常に、眉根に皺が寄りました。
 かいつまんで言えば、「1、2、3、4、5……」と無限に続く自然数の集合と、「2、4、6、8……」と無限に続く偶数の集合とが、大きさとして等しくなる、という話。
 二つの集合AとBがあるとします。この集合の要素一つ一つにつき、Aの一つとBの一つを組み合わせていって、すべての要素が一対一で対応して過不足が生じないならば、この二つの集合は同じ濃度であるとします。
 と、上記の「自然数の集合」と「偶数の集合」はまったく同じ濃度になる、という話で。
 常識的に考えるとおかしいわけですよ。自然数1、2、3、4、5……の中には、偶数がすべて含まれています。いわば、偶数は自然数の部分のはず。
 で、カントールが言うのはこうです。自然数の集合から「1」を取り出し、その二倍の数「2」を偶数の集合から取ってきて組み合わせる。同様に自然数の集合から「2」、偶数の集合から「4」……と続けていくと。
 無限にある数列なので、自然数の集合からどんなに大きな数を抜き出して来ても、それを2倍した数を必ず見つけ出すことができます(上限がないわけですから)。したがってどこまで行っても必ず一対一の対応を作ることができるので、この二つの集合は濃度が等しいことになる。
 さて。皆さんどう思います?


 私は納得できませんでした。これについての記述読んでいる間、めっちゃ難しい顔してたと思います(笑)。
 理論としては通るのかも知れませんが、詭弁っぽいとどうしても思ってしまいます。
 たとえばこの理論、自然数の集合と、「100、200、300……」と100ずつ増えていく数列の集合とでも、結果は同じになるわけです。1億でも1兆でも同じ。そりゃそうです、どんな大きな自然数を考え出したって、それの末尾に0をつけるだけで「対応する数」が簡単に出来上がります。数直線を書いてみれば、数の分布のばらつきは億倍、兆倍の開きが出るのに、理論でいくと濃さは同じだという。


 なんだろう、なんか帳簿ごまかされてるような気分になるんですよね(笑)。無限の先の先のことなんて感知できないから、「わかりゃしないだろ、じゃあ良いや」みていな(ぇ
 自然数と、その倍の値の偶数がどこまでいっても一対一対応が作れるっていうのも、「検証作業が永遠に続いて終われないため判断できない」って言うのが謙虚な答えなんじゃないかな、とかは思うわけなんですが。だって、「無限が尽きた時」、その最後でこの一対一対応に過不足が生じているかいないかなんて、わからないじゃん?


 アキレスと亀パラドックス、という話があります。
http://www6.plala.or.jp/swansong/007400taikakusen.html
 詳細はこちら。アキレスと亀が競争するんですが、亀は自分の足が遅いのでハンディをくれという。そこで亀はアキレスより前から出発するんですが。
 アキレスが亀の出発点まで到達したとき、亀はその時間で少し前に前進しています。その亀の地点にアキレスが到達した時には、また亀はその時間で少し前に前進している。これが繰り返されるため、アキレスは亀に永遠に追いつくことができない、という話です。


 しかし、これも変な話で。
 この展開は無限に続くわけですが、実は「アキレスは亀に追いつけない」のではなく、「アキレスが亀に追いつくまでの時間を無限に切り刻んで小さくしていっているだけ」なんですよね。これ、途中で作業をすっ飛ばして「じゃあ一分後はどうなってるの?」って言えば、「追い抜いてます」で終わりなんです。


 ただ、問題はそれだけでは終わりませんで。
 この作業をずっと無限に続けていくとします。亀のスタート地点までアキレスが到達した時点で「1」、その時に亀が前進して到達していた地点にアキレスが追いついた時点で「2」というように、一回の区切りごとに数を数えていくとします。この操作は無限に続くので、実質これで自然数を無限に数えることになります。
 しかし、アキレスはいつか亀に追いつくことは確実です。ではこの操作の果てに亀に追いついたアキレスは、「無限個ある自然数をすべて数え終えた」ことになる。
 本当の問題はこれで。つまり「無限を数えきることは出来るのか」?


 上に挙げたカントールの「無限の濃度」の話は、無限回の操作を最後まで遂行しきれることが大前提です。無限を「無限という完結した数として扱う」わけで、こうした概念を数学で「実無限」というそうです。つまり、無限+無限、なんて計算もしてしまおうというわけです。
 けど、なんだかねぇ。
 自然数はどこまでも無限に続きます。偶数の列もどこまでも無限に続きます。どっちも「無限個」だけあるんだから、この二つの集合の要素の個数は同じですね。……って言われても、やっぱ微妙だよね。
 さっきの一対一対応にしても、無限個その操作をこなした先がどうなっているか、検証なんて出来ない。なら、聞きかじりの哲学者の言葉を使うなら、「語り得ないことについては、沈黙しなければならない」んじゃないのか? とか。
 なんか、「どうせ無限の先の事なんてわかりゃしませんよ」って帳簿誤魔化されてるみたいな気分になるんです(えぇ〜
 これは私が数学的思考を出来ていないからなのかなぁ。


 そんな感じで、途中から本の感想そっちのけになってしまいましたが。
 あ、ちなみに、こうした無限関係の話で、以前読んで面白かった本も挙げておきます。


無限論の教室 (講談社現代新書)

無限論の教室 (講談社現代新書)


 軽い小説形式になってて、とぼけた味も出てて面白いですよ。