悪霊 下巻
- 作者: ドストエフスキー,江川卓
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12
- メディア: 文庫
- 購入: 7人 クリック: 50回
- この商品を含むブログ (71件) を見る
とりあえず、先に率直に言っておくと、びっくりするくらい面白かった。
純文学で、翻訳で、ほとんど改行もないままページが真四角に真っ黒に埋まってるんですが(笑)、全然苦にならず。引っかかることも無く読めてしまいました。
『カラマーゾフの兄弟』を苦行のように読み終えた記憶が嘘のようです。
あ、一応、これも以下、ネタバレ注意ってことで。
正直、扱ってるテーマや話題が広く深くて、何から書いていいやら分からないんですが。
基本的には、上巻の一番冒頭で引かれた聖書の一節のごとく、「無神論」に憑かれた人たちが悪霊に憑かれた豚のように海へ身を投げていく、そしてその後の残された人々(=ロシア)がキリストの下に跪いている、という流れの話だ(作者自身の構想がこうだったんだそうな)、というのは、まあ話を追って行ってもおおよそニュアンスとして分かるんですが。
実際、無神論に憑かれた人たちがバタバタと退場していくわけですけれども……個人的な読後感として、その後に何も残ってないような印象がものすごく強かったです。
ゆえに、なんかものすごい救いの無い話だなという読後感。
裏表紙にあるあらすじや、巻末の解説あたりをちらっと見た限りでは、せいぜいシャートフが殺されるだけだと思っていたんですが、実際にはけっこう大勢死人が出てびっくりしながら読みました。
しかも、まあ当然っちゃ当然なんですが、ドストエフスキーの人物の掘り下げ方が上手くて、どの人物にもそれぞれに変な愛着みたいなのが自然と湧いてくるところで、容赦なく殺されたりとかね。うわー、という感じ。
そのくせ、あんま愛着の湧きにくいピョートルさんみたいな人はしっかり生き残るのであった(笑)。
個人的に上巻で気に入った人だったステパン先生ですが、正直こんなに物語上の重要な位置を占める人だとは思ってませんでした。もうちょっと脇役寄りだと思ってた。
結局、彼が「古くなってしまった思想」、「もうそこに戻ることができない思想」の基調講演をする役目を負っていたんですね。ステパン先生が演壇で語った内容を読みながら、もう彼が敗れる先行きが見えてしまっていて、悲しくなったりしました。
そして結局、逐電したステパン先生はたまたま道行きの一緒になった相手に迷惑千万かけまくりつつ亡くなっていくわけですが……まあ、この人らしいというか(苦笑)。
もうね、本当にイライラするくらい迷惑かけてるのに、でもなんか憎めないんですね。結局周囲に迷惑撒き散らしながら、それでも周りの人の涙に送られて亡くなって。
私も、こんな人が身近にいたら、なんだかんだ愚痴言ったりしつつも、何となく親しみをもってそばにいそうな気がする。
ていうか、やっぱり私はステパン先生には妙な共感をずっと持ちながら読んでいました。それはやっぱり、私も同じように「時代遅れの」「もう戻れない」そういうモノが好きだからなのかな、とか。
別れた彼女の出産に見も世もなく狼狽するシャートフも、そのシャートフに口数少なに親切にしてやるキリーロフも、みんな良いヤツなんだよなぁ。
まあ今風に言えば「死亡フラグ」な描写でもあって、ある程度覚悟しながら読んでもいたんですが、それでもやっぱり読み進めていくうちに何とも言えない気分に。
やっぱり、これは凄い作品だと思いました。書き手の愛情や熱と、登場人物を冷徹に動かす視線と、その両方がしっかり噛み合ってる。
そして、一番の核心であるらしい、ニコライ・スタヴローギンについて。
とりあえず、新潮文庫版の下巻の裏表紙には、「組織を背後で動かす悪魔的超人スタヴローギン」とあるんですが、これって「なんか違くね?」という気しかしません。
とりあえず、とうとうスタヴローギンはピョートルの動かしてた組織に加わることもできなかったし、ましてそれを背後で糸引いたりは全然していなかったよね? なんか、ここの文章書いた奴は本当にこれ読んだのかしら、とか思ってしまいますが。
また、彼を「悪魔的超人」と呼ぶのも、個人的にはなんかしっくり来ませんでした。当初公開された部分だけを読めば、スタヴローギンを「悪人」と呼ぶような事象ってあんまりなかった気がするし(まあ上巻で妻マリヤの死を事実上フェージカに依頼したような形になるんで、その点は悪人の所業といえなくもないですが、全体的にピョートルの小悪党ぶりの前で印象は薄く)、巻末に収録されていた「スタヴローギンの告白」を読んでも、確かに彼のしたことは悪で、悪魔的とも呼べますが……「超人」っていう言い方で突き放す気には、私にはなりませんでした。
何故なら、彼の苦悩には共感を覚えたからです。
熱くなることもできず、冷ややかでいることもできず、ただぬるいだけであるという苦悩。善をなしたいという欲望も、悪をなしたいという欲望もあり、しかしそのどちらも力弱くて自らを導いてくれない、という苦悩。
そうした苦悩には私も共感するし、今という時代を生きる人たちの中にも共感する人は決して少なくないはずだと思います。少なくとも、「超人」という言い方で「自分とは違う存在」のように捉える事は、私にはできませんでした。
それとも、まさかニーチェ的な意味で「超人」って言ってたりするのかしら(文学とかの解釈に生兵法で首を突っ込むと、そういう落とし穴があったりするから困る。結果として、そういうのについて一般の人、ビギナーが語るのの敷居を高くして、衰退を招いてるだけな気もするけど……まあそれは別の話)。でも、苦悩しまくってるスタヴローギンは、なんか超人っぽくもないけどなぁ。
以前、カミュの『異邦人』読んだ時も同じような事思ったんですけどね。あれをただ「不条理な話」として紹介している紹介文とかレビューを見ると、必ず違和感を覚えます。だって、主人公のムルソーにすごく共感したから。
たとえ人を殺した人物の心境であろうと、共感する部分は誰にも多少はあると思うし、そこを「不条理」とか「悪魔的超人」っていう言葉で切り捨てるんじゃ、作品を読んでる意味がないじゃん、って思うんですよねぇ。
もちろん殺人はいけない事なんで、彼らの心境に同調したからって人殺しが正当化されるわけじゃないんです。
殺人者の心境だけど自分の中に共鳴する部分はある、それを認めた上で、今の自分とその小説内の人物とを引き比べて、どう考えるか。それを突き詰めていくのが読書じゃないですか。それを突き詰めるために、ドストエフスキーもカミュも、殺人を主題にした物語を書いてるわけじゃないですか。違うかしら。
まあ、あんまり「悪魔的超人」なんて言葉を並べてると、キン肉マンの顔が脳内にちらつくのでこの辺でやめますが(えぇ〜
ともあれ、非常に面白く読みました。
作中で主題になってることのうちのいくつか、たとえば「ロシア的」とは何かとか、そういう部分で分からない部分も多かったですが、自分に分かる範囲内で読んでいっても深すぎて溺れそうなくらい凄い作品だったなぁと。
そんなわけで。