先日の記事の続き


「言うに言われぬ・・・」もの/人間はスペックではないということ
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1218.html


「言うに言われぬ・・・」もの 補遺
http://zmock022.blog19.fc2.com/blog-entry-1219.html


 囚人022さんは、うちのような辺境のブログをたびたび取り上げていただいていて大変ありがたく。今回も私の記事にリアクションをいただきました。感謝。


 同じ痛みを共有することは出来ないかもしれないけれど、誰もが何かの心の痛みを感じることは出来る。そこで「感じるべきだ」と言うべきではないのかもしれないし、自分の中ですら答なんかはそもそもないのかもしれないんですけど、他の人の感じ方に触れることは、それだけで充分に意義深いことだと私は思うのです。

 インターネットが、本来他言することのできない(しにくい)内面的問題を、低リスクでオープンにして互いに共感できる場であるというのは、なるほどなーっていう感じでした。そしてそれが、決してプラスの面ばかりでないという事も。


 私がインターネットを巡っていて気になるのは……それこそフィクション内の登場人物や、遠く離れて特に面識もないし今まで別に気にした事もないチベットの人たちの身の上に敏感に反応する「善意ある」人たちが、他人の内面にだけはけっこう無遠慮にずかずか踏み込んでしまう事なんです。
 私は、これこれこのように「感じるべきだ」という言説には基本的に反対の立場をとってます。なぜなら、そういう風な言説が通ってしまえば、「そう感じることが出来なかった人」は「異常だ」ということになってしまうからです。国を愛せない奴は「非国民だ」とか、クラスメートの葬式で悲しさを感じない奴は「人情の分からないクズだ」とか、そういう形で仲間はずれで弾かれてしまった人を、本当に全否定するような言説になりかねない。
 けど、このブログで何度か書いたように、人の気持ちなんてそうそう、いつでも決まった動き方をしてくれるとは限らない。肉親の死の悲しみが、一ヵ月後、半年後に遅れて急にやってくる事だってあるでしょうし、昨日まで愛せていたものが、急に色あせて見えるなんて事も日常茶飯事です。


 そして、その上で「マナー」は成立すると思うんですよ。誰もが同じ感じ方をしなくても。
 というか、個々人がどう感じるか何てことをイチイチ斟酌してたら「マナー」なんて立ち上がらないんで、そこは本来離して考える方が良いんだと思うんですけどね。
 先日も紹介したじょうのさんが、

 それにしても国家や共同体の自己保存行動や利益追求を、個人のエゴイズムを否定する人たちが、全面的に肯定するのはじつに奇妙なながめだ。共同体のエゴイズムがアリで個人のエゴイズムがナシな理屈など、どうしたってたてられないと思うのだが。つまりパブリックネスの観念がないのだとぼくは思う。滅私奉公の公私の論理では、公というのは結局、単に、レベルがひとつうえの私でしかない。そこには質的差異などない。しかし公共としての、パブリックとしての公というのはそういうものではなく、共存と関係の空間だ。同化の空間ではない。あるいはそれは横の関係にかかわるのであって、縦の関係に関わるのではない。


 ものすごく昔の記事でこんな風に書いていて、この「つまりパブリックネスの観念がないのだ」という一文が妙に心に残っているんですけれども。
 要するに、たとえ自分の内面はその決まりごとから恩恵を得られなくても、共同体の中で、共存の空間を維持するためにある「マナー」や「法律」には従うという。そして大事な事ですけど、もしそのマナーに異がある場合にも、そのマナーを破ったり個人的事情を持ち出したりせずに、そのマナーなり法律の欠陥を論理的に指摘して改正するべきだと。
 ソクラテスが死刑になった時、弟子たちはその判決の不服を唱えて逃げ出そうと言うんですけれど(そして逃げ出す算段も出来ていたんですけれど)、当のソクラテスは「悪法もまた法なり」と言って毒杯をあおって死んだ、っていう話も引用しておられたと記憶しています。つまり、悪法でも法として機能している限りは従うべきで、それを個人的感情で破るべきではない。それが悪法だというなら、悪法である事をきちんと論証して法律そのものを変えるべきだ、という。
 ここでは、パブリックな「決まりごと」と、個人的な事情・感情とを明確に分けて考えられています。


 私が先日の児ポ法関連にしても、裁判に犯罪被害者や遺族が参加できる制度に疑義を呈したのにしても、上記のような認識を念頭において書いていたりします。


 現状のテレビなどのマスコミにしても、インターネット上の記事にしても、感情論が多すぎるっていう気はしてて。また、他者の内面にいきなり踏み込んで論評するような事も、ネット上では非常に多い気がしています。
 それはやっぱり、ネット上(特にブログ)が内面を吐露しやすい場だというのもあると思うんですが……けど結局、マナーや法律について話題に挙げる場合には、いくら内面的問題や感情や個人的事情を主張したって、結局何も発展的に議論できないんじゃないの? と。


 だからフィクション内のレイプにしても、「作中キャラがかわいそうだと思わないのか?」などと言っても効果があるとは思えなくて。だって、かわいそうだと思わない、そう感じない人だっているだろうし、「かわいそうだと感じるべきだ」って主張したら、これはやはり相手の内面に無遠慮に踏み込んでいるとしか私には思えない。あなたがかわいそうだと感じるのは自由だけど。
 そうじゃなくて、この問題は「同人誌などでの鬼畜表現について、作り手と受け手の間のマナーをもう少し考えてみよう」っていう方向に本来行くべき話題だったと思うんですよ。なんでそうならないで、二次元少女に人格があるとかないとか、そういう話になってるのかな、って。


 フィクションの現実への影響についても同じで。
 しめさば氏がコメントで、「2次世界と現実がごっちゃになってる、区別が付かない奴は死ねばいいのに」と発言してたけれども。
 でもさ、たとえば「人を殺してはいけない」「みだりに暴力を振るってはならない」等々、一般的な倫理のというか、ある程度の共通了解があって、それがストップをかけるから、頭の中でそんな想像や連想が起こっても実行に移らずに踏みとどまれる。けど、そうした共通了解を習得するための環境だって、誰にも平等かつ十分に備わってるとは限らないんですよね、極端なこと言えば。
 そこを「死ねばいいのに」と切り捨てることは、実はオタクコンテンツを目の敵にして感情的に排斥しようとしてる人たちと、それこそ行動としては変わらない、とも言える。


 感情論は何も変えない――と書こうとして、でも今はどっちかっていうと、感情論で制度や社会や法律を変えていくっていう流れの方が強いような気もするから難しいのですけれども。少なくとも日本において、世論なんてのは感情論の集積にしか見えない時もあるし、その世論を拾って政治が変わる事もあるから……。
 でも、本当は、制度や社会や法律、マナーなどを考える時には、感情や個人的内面・事情とは切り離したレベルで議論すべきだと思う。感情論で制度や法律を動かすと、そこからあぶれて、外れてしまった人たちを本当に無残に押し潰してしまうから。


 だから、児童ポルノ法案の漫画・アニメへの適用などについても、もしこれが「それで不愉快を感じる人もいるし、マナーをもっと見直すべきではないか」という提言を含んでいるなら、我々オタクの側も真摯にそれについては検討しなきゃならないと思うんですけどね。