懲りずにフィクションの現実への影響について考えてみる


 性懲りも無く、前々回の続き。
 ちょうど世間で、いわゆる18禁の男性向け漫画や同人誌などを女性がどう見ているか、という話からスピンアウトした話題がちょっと盛り上がっていたようで。


「二次元だから」レイプ凌辱大好きなのですか、お姉さん?
 http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20080417/1208441715


 大本はここ。


 やっぱり先日のしめさば氏のコメントなどを思い返して、私がゲーム中の核について触れた件についても同様に

二次元だから。以上。


 という風にみんな思ってるのかなぁ、という部分では認識を新たにしました。そういう意味では、私の物言いはウザイというか、PTAのおばちゃん発想そのままと捉えられても仕方ない。


 まあしかし、このリンク先の記事について言うなら、個人的にはあまり賛成できないなぁ、と。
 この方の、作中キャラへの愛情(皮肉じゃないですよ? 作中キャラを親身に感じられる感受性)は素敵なものだと思うし、その愛着は大切にしてくれていい。たとえば自分の好きなキャラが、同人誌などで酷い目にあってるのを見た時に、それに「なんて事しやがる」って怒るところまでは、別に構わない。
 けど、フィクション内の人物の人権にまで配慮しろ、というレベルで一般化して語っているように見えるのは、やはり賛成できない部分で。
 乱暴な言い方をしてしまえば、「作中人物の人権を考慮しないで済むことがフィクションの強み」である事も確かだからだ。


 まああえて極端な言い方をすれば、作中人物の人権にまで配慮しなければいけないなら、「そもそも人が殺される話は一切作れなくなる」。
 少なくとも、「理不尽な殺人を罪悪感なく行うキャラ」は登場させられない。
「別にそういう人物がいても良いんだよ、最後にちゃんと報いを受けるっていう話になってれば」と反論があるかも知れない。けれど、それはつまりそのような人物は必ず敗北しなければならないという事だ。これは一つの予定調和という事になる。
 けれどもちろん、そのような胸糞の悪い悪人が最後までのうのうと生き延びる、そんなストーリーの名作だって各ジャンルにいくらでもある。


 人権っていうのは我々が生きていく上でものすごく大切なものだし、歴史上の多くの人々の努力によってようやく勝ち取られた価値あるもので。だから、人権が守られる事は必要な事。特に現代においては。
 しかし一方、その人権があるために、我々は常に「他人の人権を侵害しないように」細心の注意を払って生活する事になる。現実世界において、自分の社会的な安全や居場所を守りたいなら、そこには踏み込めない。


 フィクションの中では、現在見ることの出来ない「他人の人権を侵害した先」も見ることが出来る。それによって、鋭く問題意識を突き詰める事もできる。それがフィクション作品の強さの一つであるはず。
 たとえばドストエフスキーの『罪と罰』なら、殺人を犯した者の苦悩というのが描写されるわけです。現実世界ではそんな経験はできない(しちゃったら社会的にオワタなわけで)、けれどフィクションによってそこを疑似体験する事で、倫理的・文学的な思索をさらに突き詰める事ができると(私は未読だけどな!)。


 ですから、フィクションの中にまで人権意識を持ち込むような考えは、結果的に創作活動の多くを殺す事になるでしょう。賛成できません。


 もちろん、この方が問題にしている18禁の作品の多くは、そんな高尚な事を突き詰めているわけでは全然無いんですけどね。それでも、「作中人物がかわいそうだろ!」っていう主張の仕方で違和感を表明するのは、あまり筋がよろしくないと思います。



 でだ、一方で私も、「だって二次元だから」「だってフィクションだから」だけで問題を片付けるのには、違和感を覚える事は確かなんですよね。
 その辺を悶々と考えるうちに、こんなエントリーを発見。


物語は心のワクチン
http://app.blog.livedoor.jp/dankogai/tb.cgi/51037795
(リンク先に、鈴木光司の『リング』『らせん』『ループ』のプチネタバレあり)

 
 なるほど。確かに物語はそのような効果も果たして来ました。
 凄惨で目を覆いたくなるような話も、それがかえって免疫を作るような作用をする事によって、現実での生活でのプラスとなる。
 そういう意味では、フィクションはワクチンとして確かに作用してきたと言えます――それが良質な作品であれば。


 なんで留保をつけたかというと、このリンク先の方が言うような形で作用しないケースも多分にあるのではないかと思うからで。


 とりあえず、最近のうちのブログと来たら話題もネタも卑俗なものばっかりなんで、今更カッコつけてもしょうがないし卑俗な事例を出しますが。
 たとえば、成年コミックでよくある痴漢もののプロットというのがあります。
 まあ女の子が痴漢されるんですが、紙面で一通り痴漢されるシーンを描いた後、最後に「翌日以降、同じ痴漢にあうかも知れない事を少しだけ期待する」女の子の心情描写が入るという話が、非常に多いんですね。それはもう、もはや一つの「話形」って言っても良いくらいの定番の筋です。


 これはもちろん、「痴漢なんて反社会的な事に興奮してしまった」読者のやましさを緩和してあげて、それで気持ちよく本を閉じてもらおうという作者側の工夫の結果なのだと思いますが。
 言うまでもなく、これは一方で「痴漢という行為の反社会性」をうやむやにする効果もあると言わざるを得ないでしょう。物語の中で、痴漢という行為は被害者の側から許して(許容して)もらえたように、受け取れるからです。


 実は、フィクションにおいて、このようにやましい事、気まずい事、ネガティブな事を隠蔽したり、緩和したり、場合によっては正当化したりするという事はわりと頻繁に起こりえる事なのです。それも、作者ですら気付かないうちに、プロットにそうした正当化を織り込んでしまうというケースも決して珍しくありません。
 たとえば、主人公側に義があると描くことで、その暴力性や非道を隠蔽したりとかね。コロニー落としで大量殺戮を敢行したアナベル・ガトーがカッコイイ人扱いなのも本当に納得がいかなうわこらなにをするやめうひゃー


 まあそれはともかく。
 こうしたものまで、「ワクチンとして機能している」と主張するのは、さすがにちょっと問題だと思うわけです。
 もちろん、そうした「傷」と向き合って、一つの作品を戦い抜いたというような作品には、ワクチンとしての効果があると思います。また、そのように機能できることがフィクションの強さだと思っているというのは、上で書いた通り。



 うーん。やっぱりこうして考えた時に、本当に「二次元だから」「フィクションだから」完全にまったく、全然問題ない、としてしまって良いのかという事は繰り返し疑問として頭の中に起こってくる。


 たとえば、私はけっこうガンシューティングゲームが好きで。学生時代とか、タイムクライシスみたいなテロリストを銃でバンバン撃つゲームをよくやりました。
 私はそれを楽しんだし、だからといって無論ゲームと現実の区別がつかなくなって周囲の人を襲ったりはしませんでした。


 従ってこうしたゲームにも特に問題なんてない……でもそれ、本当?


 短期的に見れば、特に問題はなかったと言っちゃっても良いかなとも思いますが。
 長期的には?


 たとえば。人に刃物を向けられるのって、本能的に嫌な気がしますよね?
 同様に、人に刃物を向けるのも、何となく嫌な気がするものです。


 富野由悠季監督が以前何かのインタビューで、田舎に出かけて薪割りのために斧を持った時、「うわ、これで人を殺せるんだ」と思ってものすごく嫌な気分になった、その時に感じた嫌な気分っていうのは大事だよね、という話をしてたと記憶しています。
 確かに、そういう嫌な気分っていうのはあって。だからこそ、たとえば「ハサミを人に渡すときは刃の方を相手に向けて渡すな」とか、「食事の時に相手に箸を向けるな」といったマナーも自然にできていったんだと思います。危ないっていうのもあるけど、多分相手の本能的・動物的な警戒感を刺激してしまうからでもあるでしょうし。


 で。
 ガンシューティングゲームのようなゲームが、そうした「相手を傷つけてしまうかもしれないという嫌な気分」を克服する一種の訓練として機能してしまうケースが、全くないと言い切れるのか、とか。


 これは一例ですけれど、そうした色々な可能性を考えた時に、「本当にゲームだから、フィクションだから、まったく受け手に何の悪影響も及ぼさないと言い切っちゃって良いの?」っていう疑問は浮かぶ。
 もちろん再三言うように、悪影響があるから規制しろとか、そういう事を言う気は無いんです、私には。
 けれど同様に、まったく何の悪影響もない、と言い切ってしまうのも、それはそれで違わない? と。
ゲーム脳』みたいな極端な批判、レッテル貼りになっちゃいけないと思うけど。でも問題点が無いか謙虚に考える姿勢だって必要だと思うし、現実と折り合うために対策を考えられるなら色々議論すべきだとも思う。


 一応、自分でも物語を書いたりしている身として、その辺の内省は疎かにすべきじゃないよなぁ、って思うんで。




☆追記
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080422/p1
http://app.blog.livedoor.jp/dankogai/tb.cgi/51038926


 なんかもどかしいなぁ。
 ニジゲンとサンジゲンの見分け方? もう、めちゃくちゃ当たり前の答えになるけれど、「肉体を持ってるかどうか」なんじゃないでしょうかねぇ。肉体がなくちゃ、レイプされても訴訟もできないじゃない?


 ていうか、上の人の言い分はなんというか、うーん? という。
 三次元の女性と、二次元の女性が同じように心を持っているように感じられる、それはこの人がそう感じる事には何も文句はない。けれど、クオリアがどうこうという話になっている時点で、第三者に追認が不可能なんで、「そんなこと主張されてもなぁ」っていう感じ。
 ていうか、他者が「哲学的ゾンビ」に思えてるのに、何で多数派とか少数派とかいう事が気になるんだろう? ゾンビの空言じゃないか、って言う風には思えないのかしら。まあ別に良いんだけど。


 別に二次元美少女に人格を見ても良いんだけども。それは飽くまで「思い入れ」や「愛着」の問題なんで、第三者に認知されない事を嘆いても、詮無いことなんじゃないかと思わないではいられないのでした。


 またしてもあえて乱暴に言ってしまえば、証人としてでも原告としてでも、とにかく裁判の当事者になれない存在の「人権」をどうこう言ったってしょうがないじゃんか。極論すれば、二次元少女に人権はあるかないかの境目ってそういう事じゃなくて?
 そもそも、たとえばレイプされる側に人格というか人権というかを認めるとする。じゃあその人は、「レイプする側」にも同様に人格がある事を認めるよね? 同じステージにいる存在なんだから認めないわけにはいかない。
 なら、じゃあ悪いのは「作品内でレイプしたその男」だ。即刻その作中の男を懲役刑に処したまえ。
 ……できないでしょ? そんなこと。なら、やっぱりこれって話の軸がずれてるんですよ。
 この話題のそもそもの問題点は、そうした作品の作り手と受け手のスタンスの問題なんで、作中の二次元美少女に人格があるかないかとか、そんなのはどうでもいい議論なんです。私はそう思うけど。