風立ちぬ

 見てきた。
 なんというか、非常に感想の書きにくい作品で、現在非常に困っているところ(笑)。
 いや、ね、私はこれ、いい映画だったと思うんですよ。思うんだけど、この作品を「いい映画だった」と素直に褒めるところへ行くまでに、前置きしなきゃならない事が多すぎる。
 ある意味で、非常に面倒くさい映画。



 ところで、まずはこのリンク先を見てくれ。こいつをどう思う?


 映画「風立ちぬ」でのタバコの扱いについて(要望) 日本禁煙学会


 ……まぁ、ツイッター上でもナンセンスという評が多数を占めて話題になっているわけなのですが。
 でもね、主人公が結核の奥さんの隣で喫煙するシーンがあったのは、眉をひそめた人も多かったのは確かだと思うのです。


 この『風立ちぬ』という作品には、そういう「引っかかり」がたくさんある。
 妻菜穂子が、いわゆる「内助の功」的な献身で夫の夢を叶えさせたように見える事は、いわゆるフェミニストの方々からは不評を買うに決まっているし。
 主人公が兵器を作り、戦争の惨禍を拡大させたとして非難する人もいるに決まっているし。
 なんか、そういう事で引っかかってしまう人たちはことごとく、この映画を楽しめなかったろうし、この映画で感動することもできなかったろう、と思うのでした。


 主人公の堀越二郎は、上記に挙げられたどの意味でも、「正しくない」。
 でもさ、作中の人物が「正しくない」ことをして見せるから、それを見た我々が「正しさ」について話し合ったり考えたりできるわけじゃない。現実生活では決してできない、価値観の冒険が出来るわけでしょう。それがフィクション、もっといえば本来の意味での「文学」ってものでしょう。
 品行方正で「政治的に正しい」事しかしない人物ばかりの物語を見て、それで観客は何を考えて何を話すの? とか思うわけですが。
 逆に。夏目漱石の『こころ』を読んで「この先生ってやつはなんてひどい人だ」って糾弾して終わるとかさ。『罪と罰』の主人公は殺人をおかしてるからけしからん、終わり、とかさ。それじゃ何の意味も無いだろうと思うわけです。



 ……っていう前置きをしないと感想が書けないんだ、この映画は(笑)。



 とにかくですね、主人公である堀越二郎の夢の中のシーン、イタリアのカプローニ伯爵が登場する夢の中の描写が、もう最高に素晴らしくて、顔がにやけるのを止められなかったのでした。
「夢の中だから」とかメタなこと言って、飛行中の飛行機の翼の上とかをノシノシ歩いてまわったりする、あの想像力の広がり、伸びやかさはさすが宮崎駿で、本当に夢中になって見てました。あのシーンだけ延々100回でも見たい。
 本当、良い歳したオッサンがさ、目をキラキラ輝かせて無心に夢を追ってるの。そして、お前も夢を見ろと唆す。それはストーリー全体から見れば怖いシーンでもあるのかも知れないけれど、でも本当に心が洗われるようなすごく良いシーンだったんです。


 一番最初の、二郎とカプローニの出会いのシーンで、カプローニは「私の夢と君の夢がつながったというのかね、日本の少年」と問いかけます。それはでも、直観的に分かる。エンジニアもクリエイターも、夢を見るっていうのは等しくああいう、晴れ晴れとした、伸び伸びとした事なんですよ。それはみんな共通しているって、宮崎は考えてるんだと思います。
 たとえ戦時中であっても、ものを作る人が夢を見るっていうのはああいう事なんだって、宮崎駿はきっと思っているのだし、私もそこにはすごく共感する。


 だからこそ。
 映画の最後、全力をあげて生み出した夢の結実――自身が生み出した零戦を、地獄と錯覚するような情景の中で、愁いのこもった暗い瞳で見なければならない、その時の二郎の気持ちがどんなものか。そこに共感できなければ、できなかった人にとってこの映画が何も響かなかったとしてもしょうがない。本当に、そう思うのです。


 日本では毎年のように、毎月のように、「夢は必ずかなう」とうたった歌や本や、様々なメッセージが垂れ流されているけれど。実際には一つの夢を叶えるためには、自分の人生に関わる他の様々なものを振り捨てなきゃならないし、身近な人を遠ざけたり不幸にしたりもするし……そして、仮に死力を尽くして夢を叶えたとしても、それで少年の頃夢見た輝かしい情景がそのまま再現できるとは限らない。
 映画の最後、夢の中で飛ぶ零戦をカプローニは褒めるけれど、そこで飛んでいる、様々な「意味」のまとわりついた零戦の姿は、彼が少年時代に思い描いていた美しい翼とは、やはり別ものなのです。夢を叶えた二郎は、もはや少年の頃のような瞳で、それを見る事ができない。
 そして、彼の夢の結実だった飛行機は、「結局一機も帰って来」なかった。


 しかしそれでも、宮崎は「生きねば」って言っている。私はそう思いました。ただ惰性で生きろと言っているのではなくて、それでも夢の実現のために、新しい結実を作り続けていけよって、言っているのだと思う。


 あえて誤解をおそれずに言いますが。
 この映画を見て、主人公の堀越二郎が兵器を作り、戦争に加担した、というだけの理由で批判をしている人たちというのは、自分でものづくりをした事が無い人たち、なのだと思っています。ものを作りたいという夢に焦がれた事がないのだろうと。
 クリエイターは、時代を選べないんだよ。
 零戦の開発は倫理的に責められるべきことだったかも知れないけど、その事をただ鬼の首とったように言い募る人たちには、私は共感する事が出来なかったのでした。



 夢を叶えることの素晴らしさを謳う作品は数多いけれど、夢を叶えることの苦さを描いた作品は少ない。私はそういう意味で、『風立ちぬ』は良い作品だったと思う。
 もちろん、作中で描かれた、様々な、批判されるべき事についてはちゃんと批判されるべきだとも思うけど。けれど、どうせ見たのなら、その奥にまで鑑賞の目を向けてほしいなと、それが私の正直な感想だったのでした。


政治的に正しいおとぎ話

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