古代研究1


古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)

古代研究〈1〉祭りの発生 (中公クラシックス)


 いい加減、折口信夫もちゃんと読んでないのはどうなのよ、と自分のダメさに凹んだ結果、無理やり定番読みキャンペーンをまた始めたわけでして、そんなわけで折口信夫
 それにしても、かつては柳田國男全集が文庫で読めたというのに、一時期は柳田の主要な仕事すらほとんど新刊書店では手に入らないといった体たらくでありました(最近、角川文庫に主要な作品だけ収録された)。折口信夫の仕事も、主要なのはこの中公クラシックスくらいでしか今読めないんじゃないかな(『死者の書』とかは除く)。本当、そういう意味では日本の出版業界も頼りなくなりました。寒い時代だと思わんか。


 そんなわけで、今回折口の仕事をまとまった形で初めて読んでみたわけなのですが。
 とりあえず思ったのは、非常に読みやすい。論旨が明快です。文章の冒頭で疑問やテーマを提示し、論拠を示して、結論を述べる。その辺がすごくしっかりしている。この辺、ひたすら「ものづくし」式に事例を列挙しまくって話の本筋を見失わされる南方熊楠や、論文なんだかエッセイなんだかよく分からない柳田翁の文章よりも、ビギナー向けかも知れません(笑)。


 そして、有名なまれびと論や、翁の発生についての議論を堪能しつつ。
 個人的に感銘深かったのは、言葉の語源に関する折口の論でした。神仏が祟る、とかいう場合の「たたる」は、神が特定の地に「立たる」事でその場が神聖な場所になり、不用意な侵入が忌まれた事から出た言葉だ、とか。
「たまふり」の「ふり」は「振る」ではなくて、遊離した魂が「触る」の意味だとか(『先代旧事本紀』の十種祓にある「ふるべ、ゆらゆらとふるべ」も、「振るえ」ではなく「触るえ」だろうと言う)。
 学術的にこれが正しいかどうかの議論は別にあるのでしょうが、すごく腑に落ちてしまうのですよね。これはやはり、詩人・作家でもある折口の言語感覚が優れてるせいなのかもしれません。日本語のプリミティブなところに、すごく深く潜っていける感覚を持ってた人なのかなと。



 一方で、折口の、特にまれびと説の論拠は、その大半を琉球=沖縄の習俗に負っています。東北の「春来る鬼」が彼のまれびと説に合致するという事には、折口自身も後で気づいたように本人は書いています。実際、この1巻の中では、沖縄に言及している部分がかなりのボリュームを占めます。
 柳田の『海上の道』とかもそうなのですが、最初期の民俗学者たちにとって、沖縄って相当重要な意味を持ってたんだなと改めて再確認したり。これ、柳田や折口を本格的に論じようと思ったら、沖縄学が頭に入ってないとお話にならないんじゃないかと思えるくらいでした。
 個人的には、そこまで沖縄を日本古代のルーツを探るのに援用するというのが微妙にピンと来てないのですけれども。うーん。



 あともう一つ。草創期の民俗学って、すごくカバーしている領域が広かったんだよな、とも思いました。なんか田舎の古老の話聞いたり、民家調べたりが民俗学みたいなイメージになってしまっていますが、折口なんかは中世寺社縁起から室町の御伽草子から、歌舞伎の演目にまで考察の幅を広げていますし。柳田なんかも江戸時代の随筆を膨大に利用・引用しているわけで。
 そういう意味で、逆にフィールドワークだけじゃない手広さも持ってたのかなと。京極夏彦あたりもなんかそんなような事を言っていたような気もしますが。
 いずれその辺りも含めて、やはり原典にあたるのは大事だなと。毎度似たような感慨を書きつけて感想が終わるわけでした。
 とりあえず、シリーズ4冊を読破が当面の目標。