断章のグリム7



 今回は連作短編の構成でした。グリムではなく、イソップ童話が絡むお話を3話。


 相変わらず描写がヤバすぎる。痛いシーンは本当に痛い。文字を読んでるだけなのに痛覚が(笑)。
 文章の圧力、文圧とでも言いましょうか、とにかく描写の重みと勢いが凄い。これ、ライトノベル内はもちろん、私が今まで読んだあらゆる小説の中でも、五指に入ると思います。描写力。というか、体感を思い出させる言葉選びがね、もうね、上手すぎるとしか。


 作中、視点人物の女の子が、怪異にカミソリで頬を切りつけられるシーンがあります。これ自体は、そこまで特異なシーンってわけでもないわけなんですが。
 まあ、なんだ、とりあえず読んでみたまい。

 ぶづ、と剃刀はさらに押し込まれ、痛みと共にさらに肉が切り割られた。
「――――――――――っ!!」
 薄い頬の肉を貫通し、剃刀の刃が頬の裏の歯茎に触れた。熱い頬の痛みとは別種類の、歯肉と骨に切っ先が突き刺さる冷たい痛みに、身体が震えて、ひどく熱い涙が目から溢れて冷たく血の気の引いた頬を流れた。
 硬い切っ先が、頬を貫いて歯茎に押し込まれる。
 そのまま頬の肉を切り開こうと剃刀に力がいれられるが、切っ先が歯茎に突き立って動かず、代わりに頭が痺れるような痛みが脳を貫いた。
「ぁ……が……」

 痛い痛い痛い痛い痛い!!
 何がえらいって、ここで「歯茎」って単語を持ってくるところが偉いですよね(笑)。この一単語が入るだけで、読者の思い浮かべる痛さが数倍に膨れ上がります。歯医者さんで、歯茎に麻酔の注射打たれた事のある人とか、もう鮮明に思い出すと思います。痛さ。
 これこそ、ある意味で「小説における描写のお手本」です。作家志望の方がもしいたら、これは見習わなければなりません。ただ「痛い」っていくら書いても、読者にはその痛みなんか全然伝わらないんですよ。「歯茎」。その痛みを読者に伝えるために選んでくる、言葉選びの妙。これはもう、レーベルに恥じたりせずに、「文芸」って言っちゃって良いんじゃないかと思います。この作者の痛み描写は、まさしく至芸かと。
 あ、ちなみに、上の引用部分から、さらに1ページくらい、痛そうな描写がひたすら続きますので(笑)。


 そして、小話二つの後に、本作のヒロイン時槻雪乃と、その姉風乃の過去エピソードが挟まります。
 珍しく怪異現象が一切起こらない話なんですが、でも凄惨さは変わらないから、うっかりしてるとその事に気付きません(ぇ
 で、風乃の心情を通じて〈ゴス〉の心象世界が延々語られるんですが……ああなるほど、と。今、ウィキでゴスロリの項目を見てきたんですが、


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF


 そうしてみるとこのシリーズのコンセプト自体が、根本的な部分から「ゴシックアンドロリータ」だったんですね。童話のグロテスクな部分を強調したり、悪意が前面に出たり、リストカットがキーワードだったりするのも。
 そういう意味では、このシリーズの設定の部分からもう、かなり同一のカラーで構成されてたんだなぁと改めて感心してみたり。そりゃあグロくもなるわけだ。私は基本的に、どの方面の知識も広く浅い男なんで「ゴスロリ」も世間的な、ただの「ロリータ」と十把一絡げで認識してましたが……何事も調べてみるもんです。


 でも、なんか読みながら、「気持ちは分かるんだよなぁ」っていう気になったりもする。作中で、テレビのバラエティ番組を見て下品な笑い声をあげたり、家庭内においても社会的な体面を優先したり、回復不可能なほどの家族間の亀裂を見ないふりをして「温かい家族」という幻想を維持しようとしたり……そういう行為はすべて、「信用ならないこと」として一貫して描かれています。
 そして、そうした信用ならない大人たちの言動に追いやられて、ゴスロリファッション、リストカット、童話、オカルト、衒学趣味などに浸っていく、というのがこのシリーズの少女たちの内面に大なり小なり存在する方向性なんですが。

精神面でのバックボーンはロリィタ的な少女趣味の他に、18世紀ロココのゴシック趣味、19世紀ヴィクトリア朝期のロマン主義思想(ロマン主義的廃墟趣味)、神秘主義、オカルト、怪奇猟奇趣味、フランスの世紀末思想、耽美主義、退廃、古典主義、衒学趣味やディレッタンティズムなどがある。


 上記ウィキより。いわば、大なり小なりこういった方向性に流れていくんだけれども。
 気持ちは分かるよねー、と私の中の一部は賛同の声を挙げたりしてます。少なくとも神秘主義、オカルト、古典主義、衒学趣味に惹かれる要素は私の中にもバッチリあるわけですよ。
 それって何かなーっていうと……結局、テレビとか世間一般での通念とかを見たり聞いたりした時に、「世の中がそんなにキレイ一辺倒なわけがない」っていう疑念が拭いがたくあるからなんだろうな、とか思います。そして同時に、「世の中がそんなに醜いわけがない」とも思ってる。
 子供の頃に、親から聞かされて信じた純真無垢な世界があって、それがある程度成長したらグダグダなところばかり見せられて……ホンネとタテマエに分かれた世界を見た時に、ホンネを見るたびに「そんな醜いことばかりじゃないハズだ」と思って、一方タテマエを耳にするたびに「そんなキレイ事ばっかりあるわけがない」と思ったりして。
 その両者の間で、子供の頃に持ってた「純真な心」の行き先、置き場があるはずだと思って溺れかけながら探してるような、そんな部分があるんじゃないかなぁと。

 どうすれば 醜いものが蔓延ったこの世界
 穢れずに羽ばたいていけるのか


 ALI PROJECT聖少女領域』の一節。結局、ゴシックロリータの気持ちってこういう所にあるんじゃないかっていう気がします。門外漢のたわ言ですけど。
 なんか、そういうものを追いかけてるうちに、俗世を毛嫌いして浮世離れしちゃうんですね。その辺の気持ちはよく分かるかなーって思ったりするんですが。
 今誰でも、幼い子供の頃は、ディズニーランドみたいな「夢とロマンの世界」に触れるじゃないですか。世界は優しくて夢一杯で。
 そしてそういうのをストレートに、素直に、純粋に受け入れて信じてしまった子供ほど、成長して世の中が見えるようになってから困惑すると思う。子供の頃に信じてた「キレイなもの」をどこに求めていいか分からなくなる。
「イッツァスモールワールド」を本気で、素直に信じてしまった子供にとって、毎日のニュースを見続けるのがどれだけ辛いか――その遣る瀬無さをどこへ持っていって良いのか。
 なんか、そういう戸惑いの声を含んでいるのかな、と思うことがある。


 そういう意味では。
 このシリーズで、怒涛の如き悪意に浸って、その恐怖に震撼するっていうのは面白い事だと思ったりします。現代の「穢れた」世の中に馴染めない人には一種のリハビリとして。一方、現代に特に何の戸惑いも覚えない人は、「怖いもの見たさ」で(ぉ