殺してしまう恐怖


 先日の秋葉原の事件があったせいで、また色々と考えていたりします。
 例によってマスコミは、犯人の素性や過去や趣味趣向を必要以上に調べては連日垂れ流しているらしく。
 ZAKZAKの記事ではご丁寧にも犯人が所持していたらしい同人誌の類まで調べて載せていました。彼、東方もやっていたっぽい。


 そんなのを眺めながら、けれどふと、全然別の方向に思考が向きました。


「誰でもよかった」という無差別殺人。犯人が死刑を望んで人を殺すケースも最近多発しています。
 我々は普段、その「殺してしまえ」という意志、行動に結びつくポジティブなベクトルの意志の話ばかりしていて、考えています。
 けれどそれだけなんだろうか。そこには裏表で、ネガティブな方向――そうした行動を強く抑え、忌むベクトルも存在するんじゃないだろうかと。
 例によって思いつきなんですが……。


 以前このブログで、「90年代を代表するキーワードとしての「不殺」問題」を取り上げたことがありました。
http://d.hatena.ne.jp/zsphere/20060822/1156218511


 話題に発端になったのは、「さて次の企画は」さんのこちらの記事です。


90年代キーワード「不殺」
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20051105/p1


 要するに、1990年代の少年向けエンタメを中心とした大きな特徴に、「たとえ敵であっても殺さない」と主人公が意志する、「不殺」という問題があるという話です。和月宏伸『るろうに剣心』を発端に、これ以降のエンタメ作品を重く縛り付けるテーマとなっていきます。
 ――けれど、なぜ「不殺」がそこまで大きく波及していったのでしょう。これは一過性の問題ではなく、たとえばつい最近も『ガンダムSEED』シリーズなどで大きく取り上げられ、一部の若い視聴者に大きな共感をもたらしたりもしていました。
 凶悪事件が増えたからでしょうか? メディアが命の大切さを繰り返し強調するようになったから?


 否。実はもっと、簡単な理由なんじゃないでしょうか。
 我々が、「相手を殺してしまうこと」を強く意識するようになってきたからではないのでしょうか?




 2000年、『月姫』という同人ゲームが異例の話題作となりました。
 メディアミックスを含め、現在に至るまで多くの派生・シリーズ化を続けている人気作品です。


 私はこの作品を少しだけプレイしたことがあるのですが、そこで非常に印象に残ったことがありました。
 この作品は伝奇ホラーで、プレイヤーを怖がらせる要素が多分に含まれています。
 けれどこの作品で最も大きく取り上げられる恐怖は、「自分が殺される恐怖」ではありません。
 紛れもなく、「人を殺してしまう恐怖」こそがメインテーマだったのでした。


 話の導入部で、主人公は何の理由もなく、衝動的に女性を一人、殺してしまいます。そしてその理由が分からないために、主人公は強く動揺します。結局その女性が吸血鬼だったという事で、よみがえったその女性と再会するところから本格的に話が始まっていくのですが……。
 とあるルートでは、主人公は夢をみて、その夢の中でやはり通りすがりの人をナイフで殺してしまう。そして、気になってその現場に行ってみると、本当に死体がある――といったシーンもあります。
 これは確かに怖い。けれど、普通の一般的なホラーとは怖さの方向性が違います。主人公はまぎれもなく、「襲う側に回ってしまう恐怖」を抱いている。そして、その恐怖を推進力に物語は続いていくのです。




 2004年ごろ、『ひぐらしのなく頃に』という同人ゲームが大きな話題になり始めました。
 私はプレイしておらず、またコミックやアニメも断片的にしか見ていないので話の全貌を掴んではいないのですが……この作品の重要な要素の一つは、「雛見沢症候群」と呼ばれる風土病(もしくはそう見なされる発狂)によって、同じ学校のクラスメイト同士の間で惨劇が起こるという事。
 ストーリーはある程度の期間を何度もループしてパラレルな展開が語られ、毎回ループするたびに、誰かが暴走・発狂してクラスメイトを惨殺するという筋です。
 まあ、この惨劇描写の過激さゆえによく槍玉に挙げられるのですが、重要なのはこの時、各ループで視点人物に据えられるのは、必ずその「暴走・発狂」する人物であるということ。その原因は疑心暗鬼と、先の「症候群」のためであること。
 ここでも、話の主題に「自分が殺人者になってしまうこと」が据えられています。


 そして、この話は最終的には、クラスメイト同士の友情によって、この惨劇を回避しようと行動していくという形で進んでいきます。




 こうして、いくつか思いつきのままに並べてみるに。こうした作品が話題作として流行するというのは、実は受け手側の状況をも語っている、とも考えられないでしょうか。


 現在の私の世代や、その下の世代にとって、もしかしたら、「自分が殺されるかもしれない」恐怖よりも、「自分が殺してしまうかもしれない」恐怖の方が、より実感に近く、切実なのではないでしょうか?
 そういえば、『なぜ人を殺してはいけないのか』という新書がベストセラーになったのも、ちょうど『月姫』が流行り始めた時期と重なるのではないでしょうか?


 もしそうだとすれば、これらの作品が流行した事は、「若い世代のSOS信号」として解釈する事も出来たのではないでしょうか。
 未成年で殺人を犯した少年・少女の部屋から、『ひぐらしのなく頃に』が発見されたとして。マスコミはこぞってそうした作品を槍玉に挙げて批判しますけれども――上のあらすじを念頭において読むなら、むしろそれは「自分の殺意を必死に回避しようとした」意志の表れとも考えられるかも知れない。自分の中にある「殺してしまえ」という声に恐怖して、悲鳴を挙げている、という事かも知れない。


 もしこれら作品の流行が、若い世代のSOSだったとしたら。
 事件後にこぞって、作品内の事象にまで踏み入って批判の声をあげたマスコミなら、実は事件の前にそれら作品から問題意識を汲みだす事が出来ていたのではないか。そして、事件が起こる前に、彼らの心情を理解して救ってあげる事だって出来たのではないか。
 そうした事をろくにしもしなかった連中が、事件後になって群がってきて、作品の上っ面だけ読んで批判の声を挙げる。ならなんで、事件が起こる前に動かなかったのかと。あなたがたのアンテナを、事件を防止する方向に役立てようとしないのかと。そんな思いも浮かんできます。


 ここに至って再び、私は「作品は規制すべきでない」という結論に立ち返ります。
 現在流行している作品というのは、その作品の受け手たちを理解し、場合によってはその危険な兆候を知る手がかりにだってなるはずです。そして事件が起こってしまった後にも、その事件を起こしてしまった少年少女をケアし救ってやるための参考資料としても使えない事はない。
 そのような柔軟な思考のできる大人たちが一人でも多からんことを願います。


 そしてもう一つ。
 今我々を覆っているのが、もしかしたら「被害者になる恐怖」ではなく、「加害者になる恐怖」かも知れないということ。
 そのことを、重ねてここに記しておきます。