富野作品を「父殺し」のキーワードで考えてみる


 先日の『スカイ・クロラ』感想で父殺しの事を書いて、それから派生して色々考えていましたが。そのうちの一つ。
 といっても、詳しく論じてると日が暮れて夜が明けるので、ざっと流します。ご興味のある方は以下を叩き台に、なんか詳しく突っ込んだり発展させたりしていただければ〜。


 とりあえず思うこと。
 多分ですけど、平成に入ってから、ガンダムのブーム(って呼んで良いのかな)がもう一度来たとすれば、それが可能だった条件の一つは、ガンダムシリーズが基本的に「父殺しの話じゃなかった」ことだと思う。


 まあ、ぱっと思い返しても、アムロの父親は酸素欠乏症、カミーユの親父は浮気野郎だったわけですし。


 また、アムロにとって一年戦争は「父の世代が起こした戦争」だったわけですが、ロボットアニメであるにも関わらず、アムロはその父の世代の戦争、その代表者であるギレンと直接対決をさせてもらえません。
 基本的に、逆シャアくらいまで、ガンダムの主人公たちは「父の世代」に一矢報いる事もろくに出来ない状態だったと言っても良いかもしれません。カミーユジュドーも、連邦軍人を殴りつけることすらできなかったわけで。むしろカミーユはウォン・リーにボコボコにされるし。そして誰もフォローしてくれない。


 で、逆シャアのシナリオも、父殺しではなく。
 富野監督は、『逆襲のシャア』のアムロとシャアを、「世間的な意味での大人にはなってない」とどっかで評してたと記憶していますが(相変わらずソースが見つけられない役立たずな私の脳みそよ)、そういう意味ではこの二人は、『スカイ・クロラ』のキルドレに近い存在だったのかなぁとも思ったりして。
 強大な父のいないまま、世界がグズグズになってるのを見かねて、「新しい世界の到来のために」悪行になる事も承知で、改革をしようと立ち上がるっていう意味では、『逆襲のシャア』のシャアは『Death Note』の夜神月に近いかも知れない(笑)。どちらも、ラスボスとしての強大な父がいない混沌とした世界で、「なら俺が秩序を作り直してやる」って言い始める。で、それを親の世代ではなく、同世代のライバルが阻止しようとすると。
 まあ、この辺の話は、私がグダグダ語るより「惑星開発委員会」さんに行っていただいた方が早いと思いますけどもw
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32d.html
この辺かな?


 で。
ガンダムF91』あたりになると、多少「父」の影が濃くなってくるという奇現象(?)が起こります。シーブックの父親も真人間ですし、何よりセシリー・フェアチャイルドの父、カロッゾ・ロナが殺される話なわけですから。
 多分、富野監督が「世代交代」を意識し始めたのがこの辺りなんでしょうね。


 で、思うに、『∀ガンダム』も、最後のギンガナム戦は変則的な父殺しなのかなー、という気がします。
 主人公ロランにとって、ギンガナムって突然出てきてラスボスの座に収まっちゃった人なんですけど、ターンXはターンAのお兄さんらしく、いきなり兄弟とか呼びかけてくるし、ロランたちの同世代(?)であるディアナカウンターの、一つ前の世代のムーンレィス軍なわけですし。
 主人公ロランにアンチテーゼをぶつけて、「封じられるか、このギンガナムを!」とか言ってくる。


 まあ、ギンガナムは作中で、必ずしも「強大な」描かれ方をしてなくて、むしろ実戦経験が浅かったりする不備な部分も見せたりしてる。その点、『スカイ・クロラ』のティーチャーの描写とは決定的に違う。
 にも関わらず、なんかギンガナムって勝手に、自ら進んで「ラスボス」の位置に居座っちゃってる人みたいに思えませんか?(笑)
 厳密に言えばロランにとって「父」に当たる存在じゃないんだけれども、自ら進んでその位置に入って行って、「私を倒せばハッピーエンドですよ」っていう、大昔の「父殺し」の座席、ラスボスの座席に率先して座ってる印象が、なんか私にはあるんですが。


 しかも――これは『キングゲイナー』における父の世代である支配者、鉄道王キッズ・ムントさんなんかもそうなんだけれども――そういうヤツほど、子供みたいに楽しそうにはしゃいで見せるw  露悪的に振る舞って暴れて見せる。


 思うに。
 とにかくやたら先見の明がある富野監督、初代ガンダムの時点でもう、「父殺し」の物語が失効しつつある事は承知していた。だからこそ、新しい世代が古い世代を打ち破って終わりという話を彼は基本的に作って来なかった。典型的なハッピーエンドも。
 その彼が、F91、ターンエー、リーンの翼と、急にラスボスの位置に年長の、父の世代の男性が入るようになっていくわけですよ。


 多分、若い世代が「父殺しなんかする気がない」ことを承知の上で、だからこそ、挑発してるんですよね、多分。


「なに、君ら“父殺し”しに来ないの?
 え、良いの? じゃあ俺好き勝手やっちゃうよ?
 ほらほら、こんな事もやっちゃうよ〜? これでもまだ父殺しに来ないの?」


 ……みたいな(笑)。
 ものすごく楽しそうな、悪戯っぽい笑みを浮かべつつ、こんな感じで挑発してるんじゃないかと最近思うようになってきました。
 で、結局主人公のロランとかが、応じてギンガナムを打ち破る事になる。


 ネット上であちこち眺めてる限り、ギンガナムってそんなに悪印象持たれてないっていうか、妙に愛着もって語ってる人も散見されますし、あるいはこういう茶目っ気のある関わり方なら、若い人たちに支持される事もあるのかもなーと、思ったりもしますw
 で、『リーンの翼』でも同じようにやろうとしたんだけど、使ったネタが第二次大戦とかなんで、思ってたより本音が出ちゃって、主人公のエイサップ置いてきぼりになっちゃってちょっと失敗、という。
 もう印象論全開で何の論拠もありませんが、イメージとしてはそんな感じ?


 インタビューとか読んでても、彼、若い世代にすごい挑発してますよね。
 それは逆を言えば、製作現場で年下のスタッフたちと仕事して、世代交代っていう事を考えてるから出てくるんだろうと思いますが。
 方々で「後継者を育てるのに失敗した」と言われてる宮崎監督の方はといえば、もう若手にエールを送ることもやめちゃって、4〜6歳の子供を応援するのにほとんど専念しちゃってる感じですし(笑)。
 まあ、宮崎監督の方は――どうにか状況を変えようと、父殺し的な道を模索しようと戦争阻止に奔走してるハウルに向けて、「あんたは弱いままで良いんだ」ってヒロインの口を通じて言っちゃうわけで。何をか言わんやって感じですが……。



 と、そんなわけで長々と書きましたが。
 要するに、押井監督も若者に「お前ら父殺し頑張れよ」ってメッセージを送りたいんだったら、富野監督くらい茶目っ気出しても良かったんじゃないの? ってことです(ぇ