高丘親王航海記


高丘親王航海記 (文春文庫)

高丘親王航海記 (文春文庫)


 私は高校時代、主に荒俣宏中野美代子の著作で、博物学の世界に触れていました。
 特に中野美代子の『仙界とポルノグラフィー』を読んだ時の驚きと愉しさは忘れられず、文献と図像の海で遊ぶ世界観の多彩さに夢中になったものです。
 首がなく腹に顔がある民族とか、腹に大穴があいていて、そこに棒を通して担いでもらってる人物の絵とか。翼の生えた空飛ぶ蛇、そして同じく空飛ぶ魚とか(笑)。奇想天外で馬鹿馬鹿しくて楽しい、私の知らないモノが博物学には溢れていました。
 時代は1990年代、もはや世界に未知の秘境などはなく。だから、そうした本の中でこそ「冒険」の楽しさを一番感じられたのかも知れません。多感で好奇心溢れる高坊だった私にとって、これが魅力的でないハズがなく。


 今回、この『高丘親王航海記』を読んで、そんな高校生の頃の感覚を久しぶりに思い出した気がします。
 ともかくも最初の印象は、ああこれは博物学小説なんだなぁ、という事でした。奇想を操る作家は数あれど、この小説は博物学を修めた作者にしか書けないでしょう。
 読者はこの作品を読むことで、作者の頭の中を旅する、のではありません。本草学と博物誌の海の中に放り込まれるのです。


 この作品は、純粋に小説として評価するなら、結構穴だらけです。
 そもそも夢オチのオンパレードですし(笑)。時代考証もへったくれもなく、平安時代の人物である高丘親王やその付き人たちが平気でカタカナ語を話したり、ちゃっかりアメリカ大陸発見の話題が出てきたりします。謎めいた深読みを誘う展開が、謎のまま放り出されたりしますし、しまいには夢オチで終わったはずの、夢の中の人物が話の後半で平気な顔で登場したりもします。
 ですから、あるいは予備知識無しにこの作品を読んでしまった人の中には、「なんじゃこりゃ」と呟いて放り出してしまう人もいるかも知れません。


 でもね。多分違うと思うんです。


 時系列とか時代考証とかリアリティとか、そんな小説上の普通の約束事の中だけじゃ、博物学の世界を遊びつくすには全然足りないんですよ。
 だって、正に文字通りに古今東西、あらゆる面白いものを集めて並べるのが博物学なわけです。
 ですから、歴史上のある人物に主人公を決めてしまったら、その時代に関わるものしか作中に出せません。その人物の耳目に触れる範囲のモノしか登場させられません。
 そんなせせこましい事をやってちゃ、博物学のあの偏執的な「面白いもの、変なものをとにかくかき集める」感じが全然出ないのですよ。
 そういう意味では、さすがは音に聞く澁澤龍彦だと思いました。本草学、博物誌の空気を小説の中でこれだけ出せるっていうのは、さすがとしか。
 もし、この小説を「よく分からない」として放り出してしまった人がいたら、5〜6歳の好奇心旺盛な、何も知らなかった子供の頃に戻ったつもりで(つまりは小説上の常識なんて全部忘れっちまって)、もう一度読んでみてはどうでしょうか。そう、たとえば『となりのトトロ』のメイになったつもりで。
 そうすれば、読者の好奇心はそのまま、作中で高丘親王が持っている好奇心、その目と同調してくるはずです。



 それにしても、この作品、ところどころものすごく官能的というか、ぶっちゃけて言えばエロイんですよね(笑)。
 もちろん作中人物があからさまに裸になったりするわけじゃないんですけども。というかですね、漫画やアニメならある意味、裸にしちまえばエロくなるんですけれども、小説ではそうはいかない。文章でやれ服を脱いだだの、胸がどうだの腰のくびれがどうだのと描写しても、それで官能的な文章になるかといえば必ずしもならなくて、むしろ馬鹿馬鹿しくなったりもする。
 ではどうするかといえば、結局状況設定や、ちょっとした仕草、細々とした描写の中から、その作中人物の「色気」みたいなのを、少しずつ引き出してやるしかない、というか。
 そんな事を改めて痛感させられました。「獏園」で、何とも良い香りのする正体不明のふわふわした物体に出会って、我をわすれてそのふわふわに鼻を押し付けて恍惚としてる秋丸のシーンが、たったそれだけなのにすごいエロティックで。
 親王の回想や夢に登場する藤原薬子もすごく妖艶で魅力的な感じ。もうこの辺は、ひたすら感心するばかりで。お手上げ状態、参りました、って感覚です(笑)。平伏。


 ともあれ。久しぶりに味わい深い小説を読んだなって感じでした。幸せでした(笑)。