リアルのゆくえ



 友人が突然、「これはお前のためにある本だ、読め」と強烈に勧めてきたので、勢いで読んでみました。
 で、読み始めてみるとなるほど確かに、これは私のための本かも、と思ったり。
 ここ5年くらいの私の問題意識と絡むように、対談がヒートアップしてる感じです。


 基本的には、東氏がインターネット世代の価値観や方法論の変化を語り、それに大塚氏が疑問を投げかける……というか半ば突っかかる、という感じの流れ。
 本当になんていうか、大塚氏が苛立ち気味に東氏を詰問する、その勢いが何かすごい。ほとんど読んでいて息苦しいくらいなんですけど、そのぶつかりあいの狭間に、けっこうシャープな、現代の社会とかメディアとか、あと創作作品とかに関わる問題意識が浮き上がって来る部分があるのかなと思う。


 私は基本的には、東氏の言うことに同調しながら読んだわけですが(そして、私にこの本を勧めてきた友人も、「お前が東側の言い分にシンクロしながら読むのは勧める前から分かってた」と笑ってましたが)、だからある意味、大塚氏の絡み方は読んでてちょっとウザかったりもしたんだけど(笑)。
 しかし、大塚氏が一貫して唱えている異論には、やっぱり迫力を感じざるをえなかった。


 何て言うのかな。私は、大塚氏が「俺はこんなことをやっている」として語った事は、ほとんどすべて賛同しないっていうか、「だから何さ」程度の気持ちしか抱けない。そもそも私、以前同氏の『キャラクター小説の作り方』を評した時にも書いたけど、この人の「自分語り」がけっこう嫌いなんですよね。何かを公正に論じようとする時に、そこに平気で私情や私事を混ぜ込んでくる。そういう著者の作品って、あんまり信用できないと思ってしまう性質なので。
「俺は今までこういう事もやってきたんだけど」っていちいち言うのにしてもそうで、「お前なんでそんな自分のやってる事を無条件に大きく評価できるんだ?」みたいな苛立ちが出てきてしまう。
 なんでしょうね、結局私という人格が持ってる私的な嫌悪感なんでしょうが。なんか、鼻につくのね。


 そんな感じなんだけれども、しかしそこを差し引いても、大塚氏が東氏の主張に疑念を表明する、そこにはやっぱり鋭さを感じるし、ところどころではむしろ大塚氏の方を支持したくなる。
 東氏がインターネットでのセキュリティなどの話を展開した時に、それが大きな評論の言葉にならず、個別の法律問題を語るだけの各論になる可能性を危惧して見せたりとか。その辺は、やっぱり一理あるなぁと。


 もちろん、私はやっぱり、基本的には東氏が提示している問題意識や、今後の展望を支持する。前回のエントリーで「ジャンルは最早大して重要ではないという話」も、東氏の論旨を自分なりに派生させてみて書いた記事だったりします。あのエントリーで語った事を、言論の場に適用すれば、この本の第三章での大塚氏に対する私なりのアンサーにならないかな、と思いながら書いていたりしました(ちょっと的をはずしてるかも知れないけど。でも、ニコニコ動画に文壇的なものが発生しないように、はてななどのブログにも論壇は発生しないでしょう。特定の主義・派閥について、それを追いかける事で特定の議論を追っていくんじゃなく、今はカトゆー家断絶さんとかホッテントリとかで「注目のエントリー」だけを読んで、出来の良い各論を拾い読んでいく形になっているんだろうし)。
 まあそんなわけなんですが、しかし東氏に同調するからこそ、大塚氏が続けざまに投げてくる問いかけは重いなぁ、と。


 んー。大塚氏が、「公共性」というものを、ともあれ他者と語らって、その会話の中から立ち上がってくるものなんだというのを割りと一貫して言ってて、それは確かに私もうなずく部分はあるんだけど。
 やっぱり思うのは、大塚英志はネットで発言・議論する事に絶望したことがないんだろうなーという、そんな温度差の部分でした。


 たとえば……現在私のこのブログ、大体一日にのべ100〜200人の人が見ています。
 しかし、そのうちコメント欄などで私にリアクションを返してくれる人は、1%にも満たない。そういう意味で、うちのこの極めて小規模なブログですら、まぎれもなくマスメディアとして機能してるわけですよ。
 もちろん、トラバで互いにやりとりしたり、コメント欄で会話をして関係性を作っていく事もあります、そこには大塚氏の言う意味での「公共性」が立ち上がる事もあるでしょう。けど、そのやり取りすら数百人の人間に対するマスメディアとして機能してしまっているわけです。
 2ちゃんねるをはじめ、あらゆる掲示板だってそうですよね。議論をしている人たちがいる、その当事者たちにはあるいは公共性が立ち上がってくるかも知れないけど、それを見ているだけのROM(リードオンリーメンバー)は、その何百倍も存在する。
 メッセンジャーなど他者が入ってこない場を除き、ネットで行われる言説はすべて、発言しないROMに対する一方的な情報発信――マスメディアとして機能せざるを得ません。
 なので、仮にマンツーマンで誰かと会話をぶつけあい、あるいは妥協点を見出し、そこから公共性を立ち上げるという事をしても、それを見ている不特定多数のマスがすぐさまその「公共性」そのものを批判して相対化してしまったりする。
 東氏がさかんに、大塚氏の言う「公民の再構築」を「実効性がないんだ」と言っているのは、多分ネットで発言する中でこうした相対化に散々晒されたからなんでしょう。
 そんな風に思ってみたり。


 んー。
 ある意味、東氏と大塚氏との間にある断絶は、我々ネット世代と、その上の世代との断絶でもあるんで、難しいところだなぁと思います。
 どうあれひとつ言える事は、時代は後ろ向きには進まないんだよね、って事なんですが。