空海の風景 上


空海の風景〈上〉 (中公文庫)

空海の風景〈上〉 (中公文庫)


 久しぶりの司馬遼太郎
 というか、私は『街道をゆく』ばかり読んでいたので、実は司馬氏の小説はあまり読んでなかったり。
 ……とはいっても、あんまり小説を読んでいる気にならないのは、なんとも司馬作品的で面白いというかなんというか。読み味は『街道をゆく』とかとあまり変わらない。
 あまりの小説っぽくなさに、地の文で自ら「ところで、本稿は小説である」とか注釈しはじめるという(笑)。
 そんな感じで、我が道を行ってるあたりが、でもちょっとカッコ良い。自分のスタイルがある作者ってやっぱり良いのです。


 で、司馬遼太郎といえば戦国時代や幕末明治を中心に書いた人というイメージなので、空海をどう料理するのかというのも非常に面白いです。
 そう、空海ですよ空海


 私もこれまで、まあ空海に関する本も数冊読んでいます。主に仏教関係者が書いたものなんですが……なんか、いくら読んでも、空海という人の像が私の中で結ばないんですね。
 弘法大師という、この人があまりにも大人物すぎるという事なんですが、宗教者であるという事も手伝って、書き手がその膨大な事績と、華々しい思想の中をさまよい歩くばかり、偉大さを讃えるばかりという状況になりがちです。全然実像が見えてこない。
 そんな読書経験をいくつか重ねてきたところだったので、司馬氏が描く空海像がまず魅力的でした。
 無論、厳密に言えば小説なわけで、司馬氏の想像力も多分に加わっているためにこのまま鵜呑みにするべきではないのでしょうが、しかしその生まれから、生家の血筋と事情、また空海が生きた時代に対する解説などまで含めて、すごく丁寧な仕事がされていて、非常に説得力があります。
 この辺、やっぱり情報の広さと深さが半端じゃないですね。司馬遼太郎が次回作のための資料集めを始めると、それだけで古書店業界の相場まで動いたという話も聞いた事がありますが、さもありなん。


 無論、ただ情報量で優れているだけでなく、それら資料から空海という人物像を立ち上げていき、その行動を見守る司馬氏のまなざしが、また良いのですよ。『街道をゆく』の感想で何度も書いた事ですが、氏は本当に、その人物の愛すべき側面を浮かび上がらせて文章に綴るのがすごく巧みなのですね。
 上巻の半ばくらいで、空海は大学を途中でやめて、私度僧となる決心をします。で、修行のために山に入るわけですが……周知のようにそこで空海は四国に渡り、室戸岬で明星が口に入るという体験をするわけです。
 しかし当時すでに、修行するための山といえば都より北方の霊山が知られていたわけです。なぜ空海はそちらへ行かずに四国に行ったか……というところで、司馬氏は言うわけです。空海には、一般的な出家者にあるような悲壮な、世をはかなむ冷え冷えとした感覚はあまりなく、むしろ知的好奇心と現世の肯定という気味悪いくらいの陽気さがあり、ゆえに北の寒色に閉ざされた山岳地帯よりも、暖流の影響で温暖な四国の方が似合っていると。

 結局はうまれ故郷の四国へゆく。山の名になじみがあるだけでなく、自分の精神の体温に適っているかのようでもあった。阿波と土佐の海には黒潮が流れていて冬もあたたかく、さらには空海の好きな樟の葉の照り映えるあかるい土地でもある。空海というこの天才の生涯から考えてもかれは決して北海の氷山に立つ人ではなくあくまでも暖流に似つかわしい人であった。この十九歳のとき、生涯の大事を断ずるにあたって、その苦行の地を温暖の四国にもとめたというあたりにえもいえぬ愛嬌がただよっている。


 この部分を読んで、しばらく幸福な笑みが浮かんできて止まりませんでした。
 いかに若かりし頃の事とはいえ、すでに『三教指帰』執筆前後、天才の片鱗を存分に見せつつあった、“あの”空海に「愛嬌」を見つけてしまう辺りに、司馬遼太郎の真骨頂があるわけですよ!(笑)
 いや本当に、これだから司馬作品を読むのがやめられないという。あーもー、良いなぁ。


 上巻は、空海が唐へ渡り、長安へ入る辺りまでです。
 空海の事績全体を思えば、長安入りまでで半分を費やすのはバランスが傾いているようにも思えます。が、それだけ、空海がなぜそれほどの事績を為し得たのか、その出自を丹念に洗い出しているためなのですね。そこに、空海という大人物の絢爛たる事績に翻弄されない、泰然とした視線を感じたりするわけで。
 とにかく、やたら面白いです。
 下巻も引き続き読み中。