あやかし考


あやかし考 不思議の中世へ

あやかし考 不思議の中世へ


 短い論考・エッセイの詰め合わせ。


 取り上げられる題材は面白いのですが、一篇一篇が短いので、読んでいてい食い足りない感じはありました。ちょっと待ってその話もう少しkwsk、みたいな(笑)。


 なので、知的好奇心に応えてくれる本という意味ではちょっと物足りなかったのですが、モノカキの端くれ的に、インスピレーションを与えてくれる本としては割と楽しめました。
 特に面白かったのは、中世説話における神の殺人方法について述べた「けころす考」とか、あと叡山の黒谷派についての話。特に黒谷派についてはもっと知りたかったなぁ。
 比叡山において、律僧の着る黒い衣を身につける事は異端として誹謗の的になったと。だとすると……後年天台宗から家康の側近として天海僧正という人が出ますが、その人が「黒衣の宰相」と呼ばれた意味も色々あるのかなぁとか妄想したりしつつ。


 そんな感じで、いろいろと面白く読んだ一方で、たとえば淀殿に関する記事とかは少し読みながら首をひねってしまいました。
 ここで著者が指摘するのは、要するに「淀殿が生存していた頃やその直後の記事には、特に彼女が悪女・烈女であるという言及はないにも関わらず、後世になるほどそうした淀殿像が定着していく。それを為したのは女性を抑圧する男性の視点である」という事です。
 否定はしない。ていうか正しいんだろうとは思います。
 にも関わらず、この結論部分を読んだ私は、何か釈然としない感想を持ちました。ていうか、ちょっとイラっとした(笑)。


 もちろん、こういう時に、「著者は女としてモテないからそういう事を書くんだ」というような、私が尊敬するブロガー(?)じょうのさんの言い方に習えば「俗流フロイト俗流ニーチェのようなメタな反論を憶測に基づいて為す」といった行為は「品性下劣」だと私も思うわけで。


フェミニズムと見えないもの
http://jouno.s11.xrea.com/archives/log16.html


 ですから私が上記部分を読んで感じた「苛立ち」を表に出すにあたっては慎重でなければならない。
 しかし、苛立った事だけは厳然と事実で、私はその点を曲げる気もない。


 おそらく引っかかっているのは、著者が結論において、ただ漠然と男性性、男性による抑圧を非難するだけで終わっている事なのでしょう。
 たとえば「淀殿について書かれたものを読む際には、そうした抑圧のベクトルに注意しながら読まなければならない」とか、「歴史上の人物を語る際に、自分のジェンダー観について自覚的である事は必要である」とか、何でも良い、そうした実践的な結論に行きつくのであれば、別にこんな変な苛立ちを感じる事はなかった。
 けれどそうではなく、著者は単に淀殿に関するテキストに存在する「男性の視点による抑圧」を指摘するだけで終わります。
 そこで終わっているがゆえに、その文章全体が、「男性性に対する漠然とした告発」になってしまっています。
 それは正しい。正しいが、読まされた私がそれで何ができるわけでもない。私はそれら淀殿のテキストを書いた作者ではないのですよ。
 こんな文章を読まされても、私の男性性にいたずらに棘が刺さるだけです。こんなことばっかりやってるから、草食系男子が増えるんでしょうけど(笑)。
 傷だらけのマイブロークン男性性(ぇ


 ともかく、著者がこうしたテキストで、歴史上の女性像が歪められてしまう事に憤りを感じるのは分かるわけですけどね。
 ただ、反論不能な「正しいこと」を言う際のマナーというのは、もう少し考えられても良いと思うんですよねぇ。ジェンダー論に限らず。公の言論にしてもネット上にしても。
 本当に近年は、「正しい事を言ってさえいればいい」という言い捨てが多すぎて、そのたびに乱暴だなぁという印象を強くします。その正しい事を主張する事で、他ならぬ「あなたは」どうしたいのか。正しい事を私に言う事で、他ならぬ「私に」何をしてほしいのか。
 そこが分からなければ、言われた方はリアクションに困るのですよ。
 ディスコミュニケーション!!!