第7回 銀座・日本橋界隈


 そろそろ3か月くらい間が空いてしまった感じの東京彷徨。久しぶりに行ってきました。
 ……まぁ、相変わらず天気は曇ってたんですが。
 今回は第二回の続きをやるような気分で、あの時最後に訪れた築地市場のすぐ近くからのスタートです。
 詳細は「続きを読む」にて




 本当は、第二回を終えた築地市場駅から始めようと思って大江戸線に乗ったのですけれど、いきなり居眠って寝過ごしまして(ぇ
 あわてて降りたのは一つ先の駅、勝どき駅



駅周辺の景色。工事中です。


 まぁせっかくこんな駅名の地まで来たのなら、やはりかの勝鬨橋を見ておこうと思い、まずは橋の方へ移動しました。



道行き。再開発が活発なようで、工事中・建設中の建物が多く。
 少し歩くと、隅田川に出ました。



手前側は第二回で行った築地、その奥に東京タワー。



そしてこちらが勝鬨橋です。開くのは中央の部分ですかね。
 この角度だとわかりにくいですが。


 そのまま水辺をのこのこと移動。歩いているうちに、ちょうど船が通りかかりました。



川面と橋の間の高さが狭いので、通る船は全部まっ平でした。


 晴れた日に来ればそれなりに雰囲気もあったのかも知れませんが、あいにくの曇天で写真もイマイチ精彩を欠きますねぇ。
 まぁ、必ずしも美麗な写真を撮るのが目的の企画ではないのですが。


 そのまま川沿いに移動、隅田川に流れ込む支流の一つに入り込むと、屋形船が停泊しているのを発見。



停泊地。
 画面奥の屋形船、最後部にエアコンの室外機が4つも設置されてて何か目立つのですが。情緒が売りの屋形船がこれでいいのでしょうか(笑)。


 そのまま歩いて、月島へやって来ました。
 商店街に入ってみたけど、いや何というか、もんじゃ焼き屋しかない(笑)。他のお店とか数えるほどしかなくて、数百メートル続く商店街の両側、ほとんどもんじゃ焼き屋。さらに裏通りに入ってももんじゃ焼き屋。この近所の人たちは、もんじゃ焼き以外のモノが食べたくなったらどうするんだろう(笑)。



月島の路地裏。こういう細道が残っていると、下町っていう感じがします。
 それにしてもこの写真、もうちょっと奥へ進んで撮ればゴミ出しの看板とか写らないのに。相変わらずどっか抜けてるなぁ。


 月島商店街が尽きたところで、もう一度川の方へ。そのまま佃大橋を渡って行きます。



この日は隅田川とはこれでお別れなので、名残を惜しんで一枚。
 それにしてもこの辺り、写真の左側に写ってるような背の高いマンションがやたらボコボコ建ってて、これはこれで異様だったりします。


 対岸につき、川とは垂直方向へ移動。ここで左に曲がれば先日の最後の地、築地ですが。今回は逆側へ足を運びます。
 実は、ちょっと見たいものがあったのです。
 まっすぐ歩いて新富町。やがて目的のものを見つけました。



首都高速です。
 もともと築地川だったところを完全に埋め立てて造られた高速道路で、川を渡るための橋はそのまま残されたため、高速道路を上から見下ろせる場所なのでした。



かつては水が流れていたところ。今は車が流れています。
 まぁ、埋め立てられる前の築地川はそんなに綺麗な川でもなかったそうですが、それでも景観の中に水があるかないかは結構大きな違い。気分的にだいぶ違いますからね。当時住民から反対があったというのも分かる話です。


 一方で、江戸時代はもちろん明治大正になっても、こうした川は水運を行うための運河として活用されていました。それが急激に陸路を車が走るようになり、陸運が重要になってきたわけで、言わば川から高速道路へという変化は時代の流れそのものでもあった、という次第。都市の動脈としての地位を正当に受け継いだ形でもあるのでした。
 まぁ、お世辞にも綺麗な景色とは言えませんが。珍しい景色ではあるかな。


 そう、この日の東京彷徨のテーマは高速道路なのですよ。
 東京の街の上を下を駆け巡る首都高速道路は、東京の景色というか、街並みを特徴づけてる大きな要素の一つのように思えます。
 試しにネットなどを眺めて回ると、どちらかというと否定的な見解の方が多く見られますが、私はどちらかといえば、好意的だったりします。
 子供のころ、父親や祖父の運転する車の助手席に乗って、首都高速を走った事が何度もありました。特徴的で、種々雑多な建物の合間を抜けていくのは好きで、ディズニーランドのアトラクション、スターツアーズに乗ったようなワクワク感を抱いていたものです。


 実際、林立するビルの合間を強引に通って行くような首都高速は、結果として、都会の景色と動的に戯れる事の出来るような、面白い道になってるようにも思えたりして。
 仕事が終わった後に集まって、ただ首都高速を一周するのが趣味という人たちもいるという事ですが、まぁ分かるような気がするわけです。


 もちろん、首都高の高架道路が都市景観を圧迫している場合もあるわけですが……そしてその事例を後で見る事になるわけですけれども。
 ともあれ。この首都高速を眺めながらしばらく歩きました。



 と、しばらく行ったところで設置されていた地図を見ると、銀座が結構近い事を知る。
 せっかくだから、少し眺めてみようかとそちらへ取って返しました。



途中で見つけた、なんか妙な構造の信用金庫ビル。
私にはドラクエのダンジョンにしか見えませんが(ぇ


 京橋から、復元された銀座煉瓦街のガス灯などを眺めつつ、やがて銀座へやって来ました。



とにかく真っすぐなメインの大通り。これは気持ちいい。


 関東大震災で壊滅してしまったものの、明治時代に作られた銀座煉瓦街はロンドンのリージェント・ストリートを参考に、西欧風の真っ直ぐな大通りが作られたわけで、建物はなくなってもそうした街区の構造はそのままなのでしょうね。
 この日は休日で、歩行者天国で車道の真ん中に出られた事もありますが、とにかくストレートです。普段東京を歩いていたら滅多にお目にかかれないくらい、はるか向こうまで見通せます。
 これは確かに、繁華街としてはとても分かりやすくて華やかな印象です。……まぁあいにくの雨模様で、写真は全然明るいイメージじゃないですが。
 ついでに言えば、野郎の独り歩きで用事のある店もあんまりありませんでしたが。せいぜい書店くらいか。



ついでに。分かる人だけ分かってください。


 ここで、本格的に雨が降り始め、仕方なく書店のある建物の中の喫茶店でしばし雨宿り。天気予報では午後から晴れるはずだったのですが、信じて出かけてみればこの体たらく。はて、私ってこんなに雨男だっけか。


 アイスミルクと共に30分ほど時間を潰し、再び歩き出しました。来た道をおおむね引き返して、東京駅方面へ向かってみます。


 やがて八重洲口側へ着きましたが、東京駅といえば思い浮かぶレンガ造りの外観があるのは逆側。それで地下道を通ってそちらへ抜けようとするんですがこれが遠いこと。さすがは天下のターミナル駅です。
 ところが、そんな苦労してまで見に行ったのに、現在工事中でありました。



見せられないよ!(違


 仕方ないのですごすごと撤退。そのまま、この日最大の目的地へ向かいました。
 そう、日本橋です。



 言わずと知れた、江戸五街道の起点であり、現在も日本国道路元標のある交通の起点。日本橋川は江戸時代には水運の要となる川で、橋のたもとには大規模な魚市場が開かれ賑わったとか。
 そして現在の日本橋川は、こんな場所です。



高速道路の通り道。


 実は私、つい最近この企画に触発されて東京についての本をいくつか読み始めるまで、日本橋という場所の現状を知りませんでした。否、何度か情報自体は目にしていたはずですが、さほど興味を持っていませんでした。
しかして関心が向いた以上は、やはりぜひ見てみたい気になったのでした。



日本橋三越などを横目に、いよいよ問題の情景と対面しました。



 えーっと。




……これはw


 見た瞬間、思わず笑ってしまいました。これは確かに、すごい事になっていると言わざるを得ない。
 近くへ行ってみました。



橋のたもとから。
 ちなみに、近くに日本橋の起源を語る案内板もあり、内容の改訂でもあったのか日付は平成のものでしたが、文面に一切、高速道路への言及なし。なんかもう、素晴らしく気まずい空間になっています(笑)。



欄干の飾り。細工はなかなか見事。



橋中央のガス灯。



もう片側のガス灯。高速の高架との隙間は30センチもないくらい。ギリギリ。



 いやいやなるほど、確かにこれはひどい
 そんなわけで、日本橋の現状の風景を、思い切り堪能しました。


 堪能? そう、堪能です。
 歴史・文化的にも重要な場所であり、また橋自体も見事なデザインで重要文化財でもある、そうした橋と景観の上に暴力的にのしかかるこの情景を。多くの人が残念な光景だというこの風景を、けど私は堪能したのでした。



 私の基本的なスタンスを書きます。
 私は過去の素晴らしい部分を称賛するのにはやぶさかではありませんし、またヒドイと感じたものは出来るだけヒドイと言う。
 しかしだからといって、過去が素晴らしかったから、現在がヒドイからといって、「現在はダメだ」という言い方には賛同しません。


 そりゃあ、「古き良き時代」を知っている人たちは良いですよ。今のヒドイ有様を見ても、かつての良かった頃を思い返せばとりあえずは心の平穏は得られるのでしょう。
 しかし、気づいた時にはもう日本橋の上に高速道路があった、懐かしい風景が壊されて無骨なビルばかりがズンズン建っていた、そんな我々には、たとえ酷くても今のこの景色しかないのです。そういう我々にとって、「昔は良かった、今はダメだ」という言説は、端的に私たち自身の時代の全否定にしか聞こえない。結局は、どんどん内向きになっていくしかないという。


 そうじゃなくて、私たちが多少とも今と向き合うなら、少々ヒドイ情景だってそれなりに面白がって、それなりに受け入れていくしかないと思うんですよ。
 日本橋の、この景色も。


 江戸時代の人たちが必要に迫られて日本橋という足跡を刻み、明治時代の人たちがそれをリファインして今の日本橋という足跡を刻んだように、昭和の人たちは必要に迫られて、高速道路の高架という足跡を刻んだのでした。確かに、あまりにも拙速っぽいというか、こんな乱暴なやり方はどうよとも思うし、実際最初に見た時には思わず「これはひどいwww」って思ったけど(笑)。
 しかしどうあれ、こんな景色は日本橋でしか見られないぜ?



 むしろ、オリンピックの開催が迫って切羽詰まってて、もう追い詰められた挙句にエイヤッと押し通しちゃったというような、そんなやっちゃった感が漂ってて。その当時の関係者の気持ちまで見えるような周辺の高架道路の造形は嫌いじゃなかったりします。
 もちろん、この高架道路が川の水質などにも悪影響を与えているという話もありますし。晴天の下で日本橋を味わいながら渡るのも、今は失われた素敵な体験かも知れないですけどね。
 今は下火になったようですが、多くの賛同者の元にこの高速道路を迂回・もしくは地下を通すなどで日本橋の直上からどかすというなら、それもアリだとは思います。それはそれで、平成が刻んだ新たな足跡ってことになるんでしょう。
 けど、単に時間を昔に巻き戻そうとするよりは、それぞれの時代の足跡をすべて通覧して、なおかつ今より気持ち良い空間を作れるような、そんな新しい足跡を残せないかな、と思ったりもするのでした。
 この景色はヒドイ。けど、そうなった理由まで含めて、この「ヒドさ」を楽しむことだって出来るはずなんだよ。



 ちなみに、日本橋から眺められる光景と言えば日本橋三越。明治時代から存在しているデパートであり「古き良き時代」を思い返すには絶好の名前ですが、日本橋から眺めて、その向かい側で一緒に視界に入ってくるのは、スタバです。



 さて、日本橋から少し進むと江戸橋があります。この周辺もかつては非常に賑わった所。明治時代には、先進的な西洋風建築も建てられて、当時の人たちには非常に眩しい場所だったのでしょう。



もちろん現在はこの辺りまでずっと高速道路。写真は江戸橋ジャンクション
三つのルートが入り乱れる場所になっています。このカーブが、いかにも「無理やりどうにか通しました」という感じ(笑)。


 ここから、神田方面へ、高速道路の高架下をのんびり歩きました。
 途中にあった「なか卯」で軽く腹ごしらえしたりもしつつ。



こいつを眺めながら進む。


 やがて、この高架の真下を通るように設置された歩道橋を発見。興味本位で覗きに行ってみましたが……仰天。



お分かりになりますでしょうか。1mにも満たない頭上、板一枚上を車が走るような状態ですよ。


 補強の鉄骨もこの部分だけ(通行のために)取り去られてます。
 よく船の事を「板子一枚下は地獄」と言いますが、これこそまさに「板子一枚上は地獄」。これは下を通るのに勇気がいりました(笑)。


 やがて進むうちに、おなじみの立て看板式周辺地図を発見。近くに神田金物通りというのがありました。興味本位で寄ってみる。
 と、面白いものを見つけました。



金山神社
 祭神は金山彦命など。金属関係の職業に就く人々の守り神ですね。こうやって実際に土地・職業と神様が結びついてるのを見ると、ちょっと嬉しくなったりもします。
 ……とはいっても、この通りには神様は守られてちゃんといるのに、肝心の職業の方は離れてしまったのか、歩いてみましたが金属関係と見えるお店や工場は2〜3軒しか見当たらず。かつては賑わったのかも知れませんが、今は他の通りと見分けのつかないような状態でした。


 さらに進んで、万世橋の方へ。途中で神田川を横切りましたが、興が乗らなかったので写真は撮らず。
 わりと開けた万世橋界隈へ出まして、ちょっと奥の方へ行ってみたり。



つい最近まで橋のたもとに交通博物館があったようですが、閉鎖されたとのこと。
このレールの上に、汽車でも飾ってあったんでしょうかね。


 それにしても困りました。何となく歩いてきたわけですが、このままだと辿りついてしまうじゃありませんか。



聖地に(えぇ〜


 まぁ、この秋葉原という街も珍しい場所ではありまして。
 詳しく論じた本も出ていますが……通常、街の性格というのは行政とか、企業などが働きかけて出来上がっていくものなのですが。秋葉原が「オタクの街」になったのは、そうしたトップダウンな理由ではなく、たまたまそういうのが好きな人たちが多く集まっていたから、というボトムアップ式の理由によっているというのですね。そういう部分は、まぁ確かに面白くはある。
 ていうか、珍しいといえばこんな珍しい街もないですからねぇ……。



こんな都市景観が許容されるのは、日本ならではというか、アジアならではというか。
 欧米人は絶対こんなの許せないと思う(笑)。



 ちなみに、今月秋葉原でするような買物はすべてもう済んでいたので、特にこの日は店に入るようなことはなく。
 毎回この街に来ると、某ゲームセンターで昔の弾幕シューティング『エスプレイド』に1コイン入れていくのが私の習慣なのですが、まだ時刻は4時くらいで、もう少し歩ける時間。ここで時間を食うのはもったいないと思い、断念して別方向に足を向けました。


 神田明神が近いのです。



神田明神
 平将門公を祀っている事で有名な神社ですね。ここに来たのは2回目。
 前に来た時は平日で、資料館が見られなかったので今回はどうかと思ったのですが……えー、今回も見られませんでした。あと5分来るのが早ければ中に入れたのですが、残念。



境内にある大黒様。
 ここに……天海僧正の仕掛けた恐るべき呪術g(また宗像教授ネタか


 とにかく、いずれ必ずここの資料館は見てやろうという決意も新たに、今回は早々に神田明神を後にしました。
 しかし、裏参道から下りて行くと、ここもかなりの高台にあるのだなと改めて実感されます。やはりこういうお寺や神社って、そういうロケーションに作られる事が多いんですね。先日行った目黒不動もそうだったし。


 ここから、目指すは湯島天神です。地図と看板を頼りに、坂道を登って行きます。



こんな急坂を横目に見つつ。
ということはやはり、これから行く湯島天神も土地としては高い場所にあるっていうことでしょうかね。


 ちょっと歩いて、ようやく湯島天神に到着しました。出迎えてくれたのが、



遠路御苦労さまでした的な、喫煙&休憩所。
しかし神社的な意匠のおかげで、何とも言えない謎空間に(笑)。


 去年までに比べて格段に使用機会の増えた手水で両手を清めつつ。



湯島天神



向かい側。天神様だもんね。確かに季節的にも、受験生の絵馬が大量投下される時期。


 そんなわけで、想像してたよりは小規模な神社でしたが、雰囲気は親しみやすくて悪くない感じでした。さて、お出口はあちら。



写真右側が男坂、左側が女坂。
 車田正美の打ち切り漫画ではない(黙れ
 要するに、体力に自信のある方は右側のストレートで急傾斜な階段を、そうでない方は左側のゆるやかな傾斜の階段をお使いくださいって事ですね。
 現代なら人権団体からクレームが来そうなネーミングですが(笑)、まぁこんな配慮も庶民に親しまれた神社らしくて悪くないです。
 ちなみに私がちょうどこの写真を撮った時、女坂の方を年配の男性がゆっくり登ってきてました。



 この男坂を降りると、その先にもう一つ小さなお寺が。



湯島聖天。
 かつては湯島天満宮と共に栄えた大きなお寺だったそうですが、明治の神仏分離のあおりを受けて今は坂の下の小さなお寺です。江戸三十三観音札所の一つ。
 江戸時代には、幕府が公認した富くじ発売所“江戸の三富”の一つでもあったそうな。三か所というのは、湯島天神目黒不動、谷中の感応寺との事ですから、そのうちの2か所をこれで巡った事になるんですね。
 谷中にも行ってみたいなぁ。


 湯島天神を離れ、行くあてもなく歩いて行きます。そろそろ時間的にも終わりかなぁと思いつつ歩いていると、何だか突然、ものすごく緑色の一帯が。公園かなと思って近づいて行きますと。



なんじゃこりゃあ。


 ……はい、私は無知なもんで知らなかったのですが、これが上野公園、不忍池の蓮だったのでした。



この池、一面の蓮です。ものすごい壮観。
花が咲いた時にはもっと壮観なんでしょうね。


 そのまま、池を半周しました。途中でフリーマーケットなんかもやっていて、冷やかしながら歩くのも楽しく。
 やがて辿り着いたのは、池の中に張り出した弁天堂です。


 この上野は、江戸時代に天台宗関東総本山にして徳川家の菩提寺・東叡山寛永寺があった場所です。寛永寺自体は今もわずかに存在しますが(本堂など)、根本中堂などほとんどの建物は明治維新上野戦争や、戦時中の空襲などで失われてしまったとの事。
 現在の上野公園の敷地は、ほとんどかつての寛永寺の敷地にあたります。


 この寛永寺を開いたのが、徳川家康、秀忠、家光に仕えた天台座主天海僧正。その後300年続く江戸幕府のシステム作りに参加した人ですね。黒衣の宰相とも呼ばれたとか。
 寛永寺は、東叡山とい名前からも分かる通り、「東の比叡山」として作られました。江戸幕府を開くにあたり、江戸の地を京都を凌ぐ新たな都とするために、宗教的権威であった比叡山に対抗できる寺が必要だったわけでした。


 で、この不忍池の弁財天も、琵琶湖の竹生島の弁財天と相似な存在として勧請されたそうです。京都に竹生島弁天があるように、江戸には不忍池の弁財天がある、という次第。
 ……以上のような事を知識としては知ってたのですが、ここを訪れるのは初めて。上野には何回か来たことあったんですけどね。



弁財天なので、琵琶の形の碑があったり。



不忍池弁天堂。もうだいぶ夕刻でしたが、訪れる人は絶えない感じでした。
この写真が正面からでないのも、他の参拝者の邪魔になりそうだったから。


 その後、上野公園の中へ入りましたが、さすがに暗くなって来ました。
 上野周辺はもう一度来たいですね。その時にじっくり写真も撮りたいところ。
 最後に、通りかかった博物館でかかってたチベット密教展に入って眺めて回って、この日は終了。



 この日歩いた経路はおおむねこんな感じ
 テーマとして高速道路を据えていたわけですが、後半はむしろ江戸の徳川家つながりの場所に立てつづけに立ち寄ったような形になりました。湯島天神も徳川家の崇敬を受けてたそうですし。
 なんだかんだで、こうやって江戸時代、明治、大正、昭和、そして現代と、様々な時代の空気に触れられるのも東京の魅力の一つだと思うんですよね。
 江戸時代を偲びたい人にとっては、明治政府が寛永寺の敷地を上野公園にしてしまった事は残念なこと。けれど行楽に来た人々にとっては、上野公園は素晴らしい場所でしょう。
 日本橋直上の高速道路だって、あれはあれで当時の最新技術で作られたものでもある。世の中には土木マニアという人たちもいて(笑)、そういう人たちの目から見ればあれだって時代を偲ぶ遺産なのだそうですし。


 もちろん、周辺に暮らす人たちの要望は受け止めるべきなのでしょうが……。東京という場所が、いろいろな時代や事情や要素が複雑に組み合わさった街で、様々な切り口から楽しめる場所であるなら、単一の視座にこだわり過ぎて楽しめなくなるのももったいないかなと思ったりするのでした。少なくとも、道楽で東京を見て回ってる人くらいはね。


 そんな戯言を並べて、今回は終わりにしようかと思います。ご退屈様。