古典を読む 風姿花伝


風姿花伝 (同時代ライブラリー―古典を読む (272))

風姿花伝 (同時代ライブラリー―古典を読む (272))


 馬場あき子の案内で読む『風姿花伝』。
 全文の注釈というわけでもなく、ところどころの文章を拾い上げて、解説しながら進んでいくという感じ。
 馬場あき子には『鬼の研究』という、伝奇系の知識を蓄える私のような輩には必読の図書があったりして、その縁で買ってみたわけですが。
 うーん、読みながらちょっと、失敗したかな、と思ったりして。


 失敗したかなというのは、原典を直接読むべきだったかな、というところ。


 なんだろうなぁ、世阿弥が、能の芸能としての面白味を「花」と呼んでいるせいもあるのでしょうが、何か著者がこの本の内容を、それ自体ひとつの芸術作品として、審美的に読もうとするきらいがかなりありまして。
 けれどそこに引用されている『風姿花伝』の本文を読むのに、私はまぁ小説書きの端くれのような事をやっておりますのでそこに引きつけて読んでみますと、世阿弥はかなり実践的なノウハウを書いているな、というのが実感だったので。著者の解釈部分に若干違和感をもったりしました。


 なんだろう、余人には立ち入れないほどの、能を極めた人にしか理解できない芸境、そういう境地があるという視点に立っていて。確かに世阿弥自身も、芸の確かな者にしかこの書を見せてはならないと書いているんですけれども。
 しかし個人的な感触だと、書かれている事が、高尚で門外漢には理解不能な、個人的な芸の境地を述べているものである、という風には読めなかったのですよ。基本的には、読んだ人が明日からすぐに実践できて効果がある、そういうノウハウを書いた本なんじゃないかと。
 たとえば、「秘すれば花」というのも、あえて隠す事が効果的という意味の他に、「これから珍しい事をやりますよ、と観客に知らしめてから実際におこなっても、珍しい事が起こるからと身構えている観客の目には、あまり面白く映らない。なので能を演じる上での珍しい演出などは、そうと知られない状態でひっそり出すのが良い」という意味でもあったらしく、へぇーと思ったわけですが。これって普通に、表現上の、明日にも使えるTIPSだよなぁ、と。
 もちろん、時の将軍の目に適う芸を作り続けた観阿弥世阿弥の芸能論、創作論として非常によく考えられた、的確で何度となく立ち返る価値のある内容だとは思います。けど、必要以上に高尚な、雲上人の境地みたいな持ち上げ方が本当に相応しいのかなぁ、と少し疑問に思いました。


 なんだかんだ言っても、風姿花伝の内容の他に、当時の世阿弥が置かれた環境や、他の著作などについても言及があり、そういった情報は原典を読んだだけでは得られなかったわけで、有意義ではありました。
 ただ、やっぱり最終的には、原典にあたるべきだなぁ。そんな自戒。