世界が書けない/世界を書きたい


 高山宏の『アリス狩り』でメルヴィル論を読んでいまして、まぁ私はメルヴィル読んだことないんだけれども、『白鯨』って百科事典的にクジラの分類学的な文章が入ったり、また戯曲が挿入されたり、本筋がはぐらかされて延々と脇道に脱線したりするらしい。
 それゆえ、いわゆる近代小説的リアリズムの視点から批評する文芸評論家からは受けがよろしくないのだけれども、高山氏はそれに対して挑発的に書くわけです。


(前略)書く事と言うとすぐに、視点は、自我との関係は……と発想するのも結構だが、十九世紀アメリカとか小説とか小癪な枠にとらわれないで、もっとスパンの長い文字の歴史、たとえばカバラ的伝統の中で考えてみると全く違ったメルヴィルの書法(世界解式としてのエクリチュール)が透察できる筈である。ラブレー、バートン、ブラウン、ダンのメルヴィルへの影響はよく云々されているし、メルヴィルボルヘスが関係づけられるのもよく見かけるが、彼らのつくり上げる伝統を理解するには、書物と図書館を世界比喩としてとらえる感覚(マーヴェルのギャラリー詩の散文的相関物をメルヴィルの百科全書的書法の中にかぎつけるような感覚)、それに文字についてのマクロな視野が必要だと愚考する。一人称視点がどうのこうの……では間に合わぬ書法の世界にまずメルヴィルはいたのである。


 ……と、こういう文章を読んで、まぁここに挙がってる作者の作品をほぼまったく読んでいない不勉強ぶりなんで何とも言えないのですけれども、言えないながらになんか、ちょっと自分の中に通じるものがあったりするのでした。


 多分、私自身が『白鯨』読んだら、やっぱり何かイライラしてしまうかもしれないわけですが(笑)、しかしそれはそれとして、やっぱりちょっと思う所はあったりして。


 要するに、「視点は、自我との関係は……」という近代小説以来の縛りが、時々何となく窮屈に感じるんだよ、っていうね。そういうお話ですよ。


 たとえば、渋沢龍彦の『高丘親王航海記』を読んだ時の感覚。かつて読書感想にも書きましたが、あの小説って、いわゆる普通の小説ルールに照らすと八方破れなんです。夢オチをしたと思ったら、夢の中の人物だったはずの人が普通に後で説明なしに登場したり、平安時代の日本人がアメリカ新大陸に上陸したコロンブスの話をしたり。
 けれどその気持ちが何となくわかってしまったんですね。あの小説は博物学的な道具立てや関心を旺盛に詰め込んだ小説だったのですが、そういう博物学的な「とにかく面白いものは何でもかき集める」感覚が、通常の小説ルールに律儀に載っていると十全に出せないのですよ。平安時代人を主人公にしたら、それ以降の時代のモノには触れられない、とかね。



 あるいは、上の高山氏の書きぶりを読んで、なぜか私は芥川龍之介の顔を思い出したりもしたりして。
 芥川は、和歌の「龍田の川の錦なりける」をもじって「芥の川の知識なりける」と言われるほどの博覧強記だったらしい。
 ところが、彼の小説を読んでいて、そういう物知りな人ならではの奔放さが、いくら読んでも感じられない気がしたのです。私の知る博学な人たちって、物知りであるからこその「やんちゃ」な奔放さを持ってた気がするのです。初期の京極夏彦とか、博麗神主とか、松岡正剛とか。まあ、それって知識のひけらかしとも言うわけですけど(笑)、でもその奔放さは気持ちのいいものでもあると私は感じていて。
 芥川作品からは、そういう奔放さってあんまり感じないような気がする。題材を平安の王朝物語などから取って来る事はあっても、作家自身が知に淫して楽しんでると分かるような、そういう作品ってあんまり思い浮かばない(『奉教人の死』で「れげんだ・おうれあ」をでっち上げた遊び心は少しそれに近いかなぁ)。
 で、結局芥川を縛ってたのは、そういう「近代小説」的なルールではなかったのか、と少し思ったりしたのでした。百科全書的に、知に淫した作品を書こうとすると、近代小説的なルールって結構窮屈だったんじゃないのかなぁと。


 ろくに知らないクセに適当な事を言いますが、森鴎外もそれを嫌って、逆に史伝ものの『渋江抽斎』みたいな方向に行ったのかなぁ、とか連想で考えてみる。いや、読んでないけどね!



 なんだろうなぁ。今、私はdNoVeLsという小説投稿サイトの片隅で、批評を希望してきた人の作品を読んで軽い論評をつける、というような事を細々とやっているわけですけれども。
 そこで他のレビュアーさんが指摘するポイントも、やっぱりいわゆる近代小説的なルール、つまり視点を統一しろとかそういう部分が圧倒的に多くて。
 けれども。インターネットがこれだけ普及して、調べ物はwikiを見るというのもこれだけ一般的になった現在、ある意味で人類史上でこれほど情報の連関が可視的に表れてきた時代も無いんじゃないかという気がする。むしろウィキペディア的な想像力が今後生まれてくる時に、人称の統一、自我との関係……という近代小説の枠組みが窮屈だと感じる書き手はどんどん増えてくるんじゃないのかという気もする。


 百科全書的な想像力をもう一度!
 世界そのものを織り上げるような、そんな小説が再び復権するんじゃないかという期待が私の中におぼろげにあるし、また私自身もそういう作品を書いてみたいんだけどなぁ、というお話でありました。



 ……まあ、私自身はそういうのを書くにはあまりにも不勉強すぎるというか、ポテンシャルが低すぎるんですけどね。
 あーもー、今書いてるのがひと段落したら、しばらく執筆を休んで古今の基本的名作を今さら読み漁ってやろうかしら、と思ったりもする。
 シェイクスピアとかさー、いわゆる名作は若いうちに読んでおけって言うけど、あれ本当ですね。なんでサボってた学生時代の私。あーうー。