アリス狩り


アリス狩り 新版

アリス狩り 新版


 私の『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』への愛着は学生時代から始まります。
 そもそも、母親の蔵書だった、数学者マーティン・ガードナーによる注釈入りの『鏡の国のアリス』(高山宏訳)が家にあって、それを読んだわけですけれども。その注釈がめっぽう面白くて、それですっかりアリスにハマってしまったというのが実情です。
(ついでに言えば、その注釈つきアリスの原書もあって、どうやら母親が学校の英語の教材か何かで使ったらしい。ページの欄外に、母親が学生時代の頃に書いたらしい落書きなんかもあって、今でも何かくすぐったいような、妙な気持ちになります。だって、「昨日見た夢」とかがメモってあるんだもの)


 それ以来、アリスの事は色々と気にかけていて、関連書も何冊か読んだことがありました。この本のタイトルも知っていて、いつか読もうと思いつつなかなか入手できなかったのですが、つい最近新装版が出ているのに気づいてあわてて購入。
 もう、こういうのはね、このご時世いつ絶版になるか気が気じゃないので、とにかく見つけたら押さえないと。復刊本とか時々すごい勢いで、あっという間に版元在庫が切れたりするし。怖い怖い。



 さて、それで中身ですが。さすが松岡正剛氏も『千夜千冊』で絶賛する高山宏氏の筆致だけあって、内容は非常に豊穣、楽しみました。
 まぁ、キャロルはともかく、それ以外に本書で取り上げられている作家の作品をほとんど読んでいなかったりはするんですがね。イェイツとかメルヴィルとか。この手の文芸評論集を読む時に困ることの一つ(←不勉強なだけ
 しかし本当に優れた文芸評論集は、題材の小説を読んでいなくても結構面白いです。本当ですよ? 本当ですってば!


 なんだろうなぁ、まぁキャロルの生涯をざっと眺めて、そのダメなところまで含めて共感してしまう自分に自分で呆れてしまったりもするんですが(笑)。
 一方で、本書で縷々語られる、キャロルが感じていた言語への不信という事には、自分自身そこまで突き詰めた事はなかったので色々と考えさせられたのでした。
 言葉は一意的に対象を示すという正確さ至上主義に対する不信から、パロディや、慣用句を字義どおりに取るような誤解の連続による会話展開へとつながっていく『アリス』の不条理な会話。そこで嘲笑いながら、嘲笑うことで自分自身の依って立つ所もどんどん失っていくという、そのギリギリの刃境に確かに『アリス』の面白さもあるわけで。
 多分、その不安定にスリルを感じられない人は、『アリス』を……そして不条理作品を楽しめないのだろうなと思います。
 現実に対して、逃避的にマニエリスムの伽藍を築き上げる事は病理でもあるのだろうけれど、それにしてもそうした病理を呼び込んだ世紀末イギリスと、現代日本の何と似通っている事か。
 ともあれ、私が『アリス』に興味を持ち、あるいは東方の世界観にハマり、自身こんな話を書いたりしている、その理由は本書の中にほぼ十全に説明されているようです。面白いやら、恥ずかしいやらで。


 その他、私の知らない作家について書かれている論考でも、そこで提示される図式の楽しさについ夢中になってしまったりもして。
 また、最後の方に収録されているシャーロック・ホームズ論や、ミステリーにおける童謡殺人関連の記事も非常に新鮮で楽しく読みました。これは、専門のミステリー評論家には書けないなぁ(笑)。



 そんな感じで。
 やはり、作品をそれが生まれた時代に返してやる中から見えてくるものも多々あるのだなぁと再認識。しかしそれは、にわかにつまみ食いをしているだけでは分からなくて、やっぱりそれなりに体系だてて見ないといけないわけで、私あたりが気軽に出来る事ではありませんが……そういう洞察を見せてくれるこういう書き手さんは、だからやっぱりありがたい存在なのでありました。