荷風好日


荷風好日

荷風好日


 そしてさらに荷風
 ちょっと用事があって、しばらく永井荷風関連をうろちょろしていたのでした。
 同じ著者の『荷風と東京』が話題になったという話を聞きつつ、とりあえず短文集という感じのこちらを手に取ってみました。


 さすがに、『断腸亭日乗』を読み込み、そこから綴られた洞察というのはなかなか面白く、多彩でもあり。
 また、『濹東綺譚』などの代表作が発表された、その背景などを知る事が出来たのもそれなりの収穫でした。つまり、期待していたものが読めたわけで、大変結構でした。


 しかし一方で、やはり著者が永井荷風を好きすぎる感じはしました。
 いや、好きなのは良いのです。ただ、自分が好きだからと、荷風の短所に目を向けるのを避けていて、フェアな書き方が出来なくなっている。
 過去何度も書いたように、私はそういうの、嫌いなので。


 たとえば、荷風は「見る人」だったと説明されます。都市化された東京で匿名のまま、市井の人たちを「見る」喜びと「孤高」に生きた人だったと。それが戦後、市井の人々とは違う、欲望を剥き出しにした「大衆」によって「見られる側」に押しやられてしまったと。結果、戦後の荷風は作者としての力を失ってしまったのだと著者は書きます。
 しかし、一方的に「見る」立場という、優位な場所に立たなければ居られなかったというのは、弱さでもあるわけですよ。その一方的な優位さは、不均衡、不公平でもある。
 いわば、戦後の荷風は、一方的に「見られていた」大衆から逆襲されただけなんじゃないの? とも思えるわけで。私はあまり同情を寄せる気にはなれなかった。


 いわゆるオタク批判で、ディスプレイ上で写真や動画やゲームや絵で、一方的に対象を見る快楽、それを貪る事に対する痛烈な批判というのは何度も私は目にして来ています。その批判は、そのまま永井荷風への批判にもなってしまう。


 まして、荷風については、芸者や私娼に対しての、「買う側」と「買われる側」という一方的な優位な関係からも出られなかったわけで。この辺は批判されてもしょうがない面がある。しかし、著者はそういう不公平さ、そういう一方的な優位さに立脚せざるを得なかった荷風を見ない。部分的に擁護しようとすると、かえって語るに落ちている印象すらあって。
 その辺、もどかしい感じがします。



 もちろん、ポジティブな部分で、著者に教えてもらったところもあります。『濹東綺譚』が2・26事件のあった年に書かれ、朝日新聞への連載が完結してから間もなく日中戦争が開始された事。そうした状況に対して、あえて消極性と、私娼の儚い弱さを描く事で、異を唱えにくい時代に対する異を唱えていた。松岡正剛先生風に言うなら、「フラジャイル」を示した作品だったのかな、という風に感じられて、少し私の中で荷風を見直した面もあります。
 ……いや、セイゴオ先生の『フラジャイル』読んでないから、認識間違ってるかもだけど。


 なので、得るもののない読書ではなかったのですが、やっぱり、ちょっと物足りない感はありました。
 ミクシィでもグダグダ書いていたのですが、本当に好きな人物にこそ、もっとも鋭い批評の目を向けること。そうして多くの欠点が見えてきて、それらをすべてしっかり受け止めた上で、それでも消えることのなかった「好き」な気持ちが滲み出る、そういうのが一番読んでいて強く響いてくるし、実際本当の「好き」ってそういう事だと思う。
 仮にも評論を書く人の「好き」は、そういう深さのあるものであってほしい……と、私の単なる嗜好ではありますが。でもそうだと思うのさ。
 そういう意味で、もう少し頑張ってほしいなぁと思った本でした。