街道をゆく 9
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1979/02/01
- メディア: 文庫
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私の癒し系、街道をゆく。久しぶりに手に取りました。
このシリーズは本当に大好きで、気持ちが落ち込んだ時とかに、大事に少しずつ読もうと思っていたりします。
ところが、そうして放置しているうちに、このシリーズが新装版になったらしく。
何が新しくなったのかと思ったら、前のバージョンでは入っていた挿絵と、地図が省略されていました。
……ねぇ。いくらなんでも、紀行文のシリーズで地図外すってひどくないですか。また、本文中では毎回、須田画伯が司馬氏と同道していて、毎回すごく存在感を放っているのに、その絵も収録しなくなるっていうのも。
そりゃあ資金的に苦しくて節約しなきゃいけないのかも知れませんが、この仕打ちはちょっと酷い。
というわけで、ちょっとご立腹しつつも。やっぱりこの人の文体に触れてると心地よいのでした。
特に楽しかったのは高野聖のくだりで。重源という有名な高野聖がいるらしいのですが。
南無阿弥陀仏という念仏を広めて歩くわけですよ。基本的には。
普通、浄土宗系の念仏では、他力本願、自身の力ではどうしても往生に至れないので、ひたすらに阿弥陀如来の慈悲にすがるわけです。そのすがる気持ちの大きさで往生できるかどうかが決まるわけです。
だから、自分の財力とかで塔を建てたり寄進したりして往生できると考えている者(善人)よりも、そういった事が出来ずに、ひたすら弥陀の救いを渇望する悪人の方が往生できるというのが、有名な親鸞の「悪人正機」です。
……ところが。この重源は高野山で真言密教もやっていたわけです。密教では、自分自身が仏になる即身成仏が教えなわけですよ。自分が仏に入り、仏が自分に入ると観想するわけで。
そういうわけで、その論理で行った結果、「自分こそが阿弥陀如来である」という事になっちゃったという(笑)。
最初に読んだ時爆笑しました。浄土宗の「常識」からしたら考えられないわけで、事実『愚管抄』で慈円もメチャクチャに貶してるらしいのですが、でも面白いw 同じ仏教内でも論理が混線するとこうなるのかーというか、それでも東大寺の勧進で大きな働きをしたりしている。
こういう変なコラボレーションを生んでしまうのが日本という土地柄ですw
同時に、こうした遊行聖の存在の大きさというのをしみじみ考えました。政府という上からのトップダウンではない、民衆の知恵や組織や哲学というのを、こうした聖たちが担っていたわけで。こうした存在はアジア全体で見ても珍しいと司馬氏は書いています。わずかに中国の道士が近い存在としていたけれど、朝鮮などにはほとんど絶無だったというように。
その辺の意味も考えながら読んでいました。
他にも色々と思う所はあり。やはり私戦国時代とかその辺の知識は全然弱いなーとか。
あと、以前読んでいた時よりも、朝日新聞的な意見なのかとかそういう観点から読んでしまう場面もあったりして。昔ほど鵜呑みにしなくなった事を、慎重な読み方ができるようになったと喜ぶべきなのか、しかし何か一抹の寂しさも感じてしまう不思議な感じがしたり。
まぁ、基本的には文体を味わって癒されるのが目的なのは今後も変わりませんが。
そんな感じで、まあ何だかんだで有意義な読書時間でした。このシリーズも売れまくったら、もう一度地図とか挿絵とか復活する形でリニューアルされるかなぁ。みんなもっと買えばいいと思うよ!(笑)