「知の再発見」双書72 錬金術


錬金術:おおいなる神秘 (「知の再発見」双書)

錬金術:おおいなる神秘 (「知の再発見」双書)


 5月27日読了。
 先日、金属についての入門書を読んだ流れから、そして次に読む本の下準備としてとりあえず読んでみた。
 ……しれっと書いたけれど、金属についての普通の科学本から、「卑金属を貴金属に変える」錬金術に当然のように関心が流れるあたり、なんともはや、であるw



 まあぶっちゃけて言うと、「世界霊魂」とか言われても対応に困る。宗教やオカルト関係に関心はあるけれど、スピリチュアルな方向には踏み込まない方針なので、安全な反面、隔靴掻痒とも言えないでもない。用語を収集したりはしても、彼ら錬金術師が「何を見ていたのか」はスルーしてしまうわけなので。
 多分、もし本当に本気で錬金術に取り組んでる人がいるなら、私みたいな表層にしか関心を示さない相手は腹立たしいんだろうな、などとも。


 まあでも、錬金術が「実践を伴う形而上学」だっていう考え方は面白いわけです。
 錬金術は実際に自分で試行錯誤して実験しなければ意味がない。座学の錬金術は邪道であると。そして、天の運行やその真理が、目の前で行っている実験と対応していると見る。マクロコスモスとミクロコスモス、という。
 当然、実験を始めるにも、天の運行を見て、ころあいの良い時にやらないといけない。誰が何時どこで行っても、条件さえ同じなら同じ結果が出る事が大前提の科学実験との違いは、たとえばそういうところであると。


 また、錬金術の文献はわざと象徴を多用したり、実験行程の順序を入れ替えて記述したり、フェイクの情報を混ぜてみたりして分かりにくく記述されているそうですが。それは錬金術の知識に触れる資質や素養のない者を振るい落とす以外に、そうした書き方が読み手のインスピレーションを触発する効果もあるという。言われてみればなるほど、という感じで、これも面白かったりしました。これは錬金術にかかわらず、日々の文章を書いたり編集したりするのにも応用できる考え方かもしれない。


 と、なんだかんだで得る物のある読書でした。
 さて、次。