エリアーデ著作集5 鍛冶師と錬金術師



 6月6日読了。
 臨時収入があったため、勢いで買ってしまったエリアーデ著作集。通しで買ったわけじゃないので、読む順番も気ままに。
 まぁ、それこそ高校時代からずっと、時々気にしてはいたわけですが。やっぱりこういうの手に取るのは勇気というか、思い切りが必要になるわけでした。


 まぁ、さすがに高校時代に比べれば読書の基礎体力も上がっているようで、翻訳文ながら、全体の主旨を把握できる程度には読みこなせたかな、という印象。


 元々、金属についての科学本を読んだところから、派生していった末になぜか錬金術関連の本を読み始めたわけなんですけれども。しかし、エリアーデの言う事には、錬金術をただ単に「化学が生まれる前段階」として評価するのは正当ではないという。これは、私のミーハーな関心の動きにきっちり釘を刺された気分でした。
 錬金術がのちに化学を生む母体となるような、知識と経験の蓄積を準備した事は確かで、たとえば以前読んだファラデー『ロウソクの科学』にも、亜鉛を塩酸で溶かして生じた水素を使った「賢者の灯」が紹介されていたりして。アイザック・ニュートン錬金術を嗜んでたというのも有名な話でよく耳にしますが。なので、やはり化学の前段階的な形態という理解が私の中にもあったわけですが。しかし、それだけではないとエリアーデは言う。


 で、古代の鍛冶や冶金に関する習俗や信仰を拾い集め、鉱物が大地母の胎内で育つ胎児であり、成熟していずれすべての金属が金になるという観念のあった事を指摘していくわけでした。
 そして、錬金術師たちはその成長過程を早めるという指向性を持っていたのだと。
 また、錬金術師が「賢者の石」を作り出す過程は、錬金術師自身の精神と肉体がイニシエーションを経て生まれ変わる過程とリンクしていたのだ、というような論証も続き。賢者の石制作の過程は、人間が死と再生を疑似再現するイニシエーション儀礼を物質に適応したに相似する、というような話だったかと記憶。


 この辺の論証も危なげなく、さすがだなぁと思いながら。
 西洋だけでなく、中国の錬金術(錬丹術)や、さらにはインドの錬金術への言及も深くて、浅学の徒としては唸るしか(笑)。
 いやしかし、確かに良いものを読みました。せっかく得た良いインスピレーションなので、活かしたいものですが、さてさて。