神、人を喰う


神、人を喰う―人身御供の民俗学

神、人を喰う―人身御供の民俗学


 8月14日読了。
 『驚きの介護民俗学』で最近話題の著者さんの書籍デビュー作、かな。
 人身御供について論じたもの。個人的に、がっつりと民俗学の本を読むのは久しぶり。



 まず、「はじめに」を読んで久しぶりに痺れたわけです(笑)。これから取り組むテーマについての闘争心剥き出し、という感じで。「人身御供の話を、神話伝説上のテーマの類型だといったような抽象的な話に還元して、人が喰われるという生々しさを直視しないような、そういう綺麗事には興味ありません」といったような宣言がいきなり来るわけです。おお、これは気合入ってるなぁ、と。
 やっぱり、「はじめに」「序文」などで、これから扱うテーマに対する闘争心がビリビリ響いてくるような本って、ワクワクするわけですよ。こりゃあ気合いれて読まなきゃならんな、という気分にさせてくれます。



 で、本編はというと、正直なところ少し勇み足かな、と感じるような論理展開も散見されました。先人の議論・論理展開を引いてきて、「この議論によるなら」という感じで、いきなりその論旨の上に次の議論を進めてしまうという部分が多くて、少し接ぎ木に接ぎ木を重ねてるような印象はありました。
 ただ、そこを差し引いても、いろいろと刺激的な楽しい読書でした。民俗学の本って、他の分野に比べても、着眼点と問題提起の面白さが全体に占める割合が高い気がします。
 あと、祭りの習俗や縁起譚に、共同体維持のための仕組み・システムを見る辺りは小松和彦先生以降に顕著な仕事なのかなと、まぁ素人の漠然とした感想。
 神がかりによる巫女が、宮座制度によって祭りの主催が男性に独占されていく過程で排除されて「神の食べ物」に同一視されていくという論理展開はすごく綺麗に組み立ててあるのだけれど、この仮説からはみ出した、例外的な事例も実は多いんじゃないかなという疑念が拭い去れない気分もあります。
 これはこの手の本の感想書く時に必ず愚痴ってる事ですが、個別の事例に収まらない、普遍的な共通の特徴みたいなのを論証したいなら、フレイザーくらい事例を並べ立ててくれないとどうも信用しきれない、という(笑)。


 で、最終的に提示された結論についてですが、個人的に素直に肯けない部分がありました。
 人々の生活が原始狩猟生活から徐々に農耕に移り変わっていく中で、自分たちが生き物を食べ、また食べられる存在である感覚が希薄になり、そうした「生きている実感」を想起するために人身御供譚が伝えられていったのではないか、というのがその結論の一部なわけですが。
 我々がものを解釈する時、ついつい「今の自分」「現代の我々」の価値観で量ってしまいがちです。もちろんそれは悪い事というばかりではなくて、たとえば未だに国文学で夏目漱石の『こころ』についての議論が終息しないのは、時代時代の視座によって作品が全然別の顔を見せる事があるからなわけで。
 しかし、やはり現代人の感じ方と、古代中世人の感じ方とは違う部分も多くあったはずで、その距離を見誤ってしまってはやはり学問にならない。
 その点で、この本の著者の方はまだしも自覚的な方だと思うのです。都会的な「感じやすい魂」と、狩猟から農耕へシフトしていった人々との類似を想定して、自身の感覚を、人身御供譚を読み解くテーマに援用していった事を正直に綴っています。そういう自覚がまったくない記述というのも色々な本を読んでいるとちょくちょく見かけるもので、そういう意味ではこの本はすごく立派だと思う。
 けれど、それを差し引いても、まだセンシティブすぎるんじゃないかという気もするのです。



 (前略)すなわち、イケニエを殺す方法はさまざまであるが、首筋を切って血を流すにせよ、鼻口を押さえて窒息死させるにせよ、生命あるものが迎えようとする断末魔はすさまじい迫力がある。人々は悶え苦しむイケニエの姿に神聖さを感じ、そこに神を幻想するのではないだろうか。(後略)

 イケニエの断末魔に神聖さを感じる、という部分を本当に、ある程度の普遍性のある感情としてあったと論証できるのか、という疑念を持ちました。
 普段生き物が死ぬ生々しい場面を目にする機会が少ないからこそ、そうした「過激な」場面が逆に「何かすごい事なような気がする」幻想を呼び込んでいるのではないかと。いくら農業民が狩猟民に比べて生き物の死にざまから遠くなったからって、現代人ほどではないでしょう。
 鹿の首を並べるのだって、実は魚の活き造りに尾かしら添えるのと大して変わらないし。ウサギを串刺しにして並べるのだって、アユに串を挿して焼くのと大して変わらないとも言えるわけです。本質的には何も違いはない。実は何でもない事と見られていた可能性もあるので、こういう記述はやっぱり眉唾と思ってしまうわけです。
 今ぱっと思いつく限りでは、死の断末魔から神が生まれた例って、日本神話だとイザナミの神生みくらいしか思いつかないわけですが。



 人文学において、主観と客観を区別するのは本当に難しい。特に民俗学みたいな分野では、自分自身の直観が重要だったりする場合(というか、自分の直観しか判断に頼れるものがない場合)もあったりして。大変ではあるのですが。
 でもやっぱり何か、もう少し慎重な筆運びがされてれば、もっと面白かったように思えます。


 本当のところ、もっと奥まで踏み込めるテーマだと思うんですよね。
 とある祭りで、イケニエにされる動物が時代と共に四足の獣→鳥類→魚へとスケールダウンしていった事例があって、著者はそれを仏教の殺生罪業感と、それを基にした服忌令の影響として見るのですが。
 一方で上記にちらっと書いたように、獣の首が置かれてたらウエッってなるけど、魚の活き造りで口パクパクまだ動いてるっていうのは平気、って人もいっぱいいるわけですよね。血が出てるか出てないかの違いかとも思うけど、じゃあトカゲの首とか落ちてたらそれは平気かって言われるとやっぱり嫌な感じするだろうしw その違いって何なんだろう、とか。
 そもそも食べるっていう、この生々しい行為の民俗上での意味や捉え方、イメージやそこから派生した文化史とか、そういう所まで視野を広げても良い話題だと思います。直観を武器に考えるというなら、屠殺された牛の内臓に腕突っ込むくらいの経験はやっぱり必要なのかなと(著者の方はもう経験済みかも知れませんが)。


 まぁ色々書きましたが。基本的に長文を書いた時というのは本が面白かった時という事です。いろいろと考える契機をもらえました。
 そんな感じ。