機動戦士ガンダムAGE 第10話「激戦の日」
▼あらすじ
UEの大部隊がファーデーンに迫る。ディーヴァはザラム・エウバ両陣営の戦力と共にこれを迎撃、熾烈な戦いが繰り広げられる。
ノーラ以来、何度も苦戦を強いられてきた黒いUEによりフリットたちは劣勢を強いられ、機体を中破させられたドン・ボヤージはUEの艦艇へ特攻を仕掛けて散る。怒りに震えるフリットの下へ、AGEシステムが新たなウェア「スパロー」を送り出し、これによって黒いUEを撃退、辛くもファーデーンを守りきる事に成功したのだった。
▼見どころ
▽移行するリアリズム
この回、激戦の最中にドン・ボヤージが戦死する事になります。
第7話「進化するガンダム」で書いた通り、このボヤージと手下たちは当初、いかにも大昔のアニメに出て来そうな、コミカルな悪役の雰囲気を持っていた敵でした。ディフォルメされた短躯、「イエス、ドンの言うとおりです!」を繰り返す側近、足掛けで転ばせたりするエウバとの暢気な戦闘など。
また、第8話までは、フリットたちにもそうした雰囲気が残っていました。「ビームラリアット」や「ウルフファング」など、ディーヴァ側のキャラも必殺技名を叫んだりしていたわけです。
ところが、前回の第9話「秘密のモビルスーツ」を境に、そうした空気が変わります。UEのモビルスーツに人が乗っている事がうっすら暗示されると共に、「ガンダム以前のロボットアニメ」的だった空気が、人間同士の容赦ない戦争を描いた「ガンダム」のリアリズムへと、徐々に移行して来るのです。
ガンダムAGE−1にタイタスに代わる新しいウェアが登場しますが、今回はもう「ビームラリアット」のような「技の名前」は登場しません。
ドン・ボヤージの手下たちも、登場時点の空気からは想像も出来ないような形で散っていきます。
そしてボヤージ自身もまた、「これはケンカではない、戦争なのだ!」という言葉を残して、特攻を仕掛けて死んでいく事になります。
世間では、冗長な部分があるという事でいささか評判の悪いファーデーン編ですが、「作中リアリズムが移行していく」という、AGEならではの実験的な試みを見るうえでは外せないパートです。
そもそも、普通は物語のリアリズムの基準というのはたった一つ、動かしてはならないものです。『けいおん!』のような日常ドラマに突然翼の生えた怪人が現れたら、話の整合性がとれません。
しかしそうであるが故に、「リアリズムの基準」をどこに置くかというのは時代の移ろいと共に傾向が変わっていった、時代を映す鏡のようなものでもありました。初代の『機動戦士ガンダム』はその流れが変わるエポックであればこそ現在まで大きな存在感を獲得しているわけです。1970年代前半までのアニメ環境では、戦争の大状況を活写したような作品も、逆に何の事件もトラブルも起こらない『けいおん!』のような日常系作品も、まず考えられなかったでしょう。
そして、ガンダムAGEは、この「リアリズムの基準」を時代の流れに合わせて変動させるという、非常に実験的な試みを行った作品であると私は見ています。
これは、たとえば最初の内は爆発に巻き込まれても黒焦げ姿で捨て台詞を吐いて元気に逃げていくような『ヤッターマン』の悪役ドロンジョやボヤッキーが、話が進むうちに本物の戦争に巻き込まれて戦死する、というような展開が目論まれているという事です。普通の物語であれば破綻するような試みですし、実際AGEでもやはり視聴したあとの感触を歪にはしています。
普通のガンダム作品のように設定考証を行っても、矛盾ばかり出て来てしまうわけですが、こうした全体の狙いのためには切り捨てざるを得ない短所だったのでしょう。
しかし、「ガンダムの歴史を物語の形で振り返る」には、こうする必要があったのだと思います。そうでなければ、いくら過去ガンダム作品の場面やセリフを引用しても、ただの「ごっこ遊び」にしかなりません。『ガンダムSEED Destiny』でハイネ・ヴェステンフルスが「ザクとは違うのだよ!」と言って見せたり、『ガンダムUC』でフル・フロンタルが「見せてもらおうか〜」というシャアのセリフを反復してみせたり。こうした事をいくら繰り返しても、ガンダムの歴史を包括的にたどった事にはならないのです。
ファーストガンダム、Gガンダム、ターンエー、00など、異なる世界観の作品すべてを本当の意味で取り込むには、単一のリアリズムでやるには無理があるのでした。それは作品の整合性に致命的なほどのダメージを与えるかも知れないけれども、しかし『∀ガンダム』とは違った形で、「すべてのガンダムを肯定する」方法論なのです。否、すべてのガンダム作品だけではなく、それぞれの時代のガンダムを視聴してきた、すべてのガンダム世代をもAGEは肯定しようとしたのです。成功したかどうかはともかく。
私が有限な時間を費やしてAGEの解説なぞをくどくど書いているのは、この意欲的な実験に共感したからです。
▽デシルの顔
戦闘中、またしても黒いUEに襲われるフリット。そこで彼は、戦闘中になぜかデシルの顔を幻視します。
この透かし(?)表現もガンダム系作品で比較的よく見る気がします
ちなみにこれも、黒いUEの機体からキックされた瞬間、つまり機体と機体が接触した瞬間に幻視が起こっており、宇宙世紀のニュータイプが離れた相手を察知しているのとは違う演出になっています。
で、フリットはこの事から、黒いUEにデシルが乗っているのではないかと直観します。そして、その点をグルーデックに告げに行くのでした。
(ここで、フリットがグルーデックに相談に行っている、という辺りも面白いところです。バルガス、ウルフ、ラーガン、エミリーなど、他に相談できそうな相手は居るはずなのですが……)
「なるほど……ファーデーンで会った子供の顔が」
「はい。戦っている時に、デシルの顔が見えました。おそらく、あの黒いモビルスーツのパイロットはデシル……そう感じるんです」
「だとすると、異星人は少なくとも、我々と同じ人の姿をしている、という事だな」
「UEが、人間……?」
「奴らがどんな姿をしていたとしても、人間ではない」
「……そうです、人間だったら、あんなにむごい事、出来るはずがない……!」
二つ、重要なポイントがあります。
ひとつは、フリットの推測とはいえついにUEには人間が乗っている、という結論にフリットたちも至るのですが、たとえデシルのように、自分たちと同じ姿をしていたとしても「人間ではない」と強弁する形になっている事で。相手も自分たちと同じ人間だ、と思っては戦いに躊躇が生まれるため、無理やり敵を「人間ではない」と思い込んでいくというのは現実の戦争でもある事です。
そしてふたつめ。ドン・ボヤージの屋敷での会話と同じように、ここでもフリットはUEが人間である事(それを撃墜している事)に戸惑いを浮かべるのですが、グルーデックの「人間ではない」という断言によって、またしても戦い続けるという結論に導かれている事です。
グルーデックは、フリットとガンダムは戦力的に手放せないと判断しているのでしょう。しかしこのような形で、「UEは人間ではない」と言い聞かせる形で戦いを続けていった事は、後年のフリットの生き方を強く規定していってしまいます。
おりしも、前話「秘密のモビルスーツ」で、ララパーリ・マッドーナに言い含められた事でエミリーも「命がけでフリットの戦いについていく」決心をしており、ついにフリットは等身大の少年として日常に帰っていく選択肢を、そして戦いから降りる道をなくしてしまう事になります。
結果的に、フリットという存在によって、地球圏の人々は後年、UEに対抗していく備えをかろうじて持つことが出来たわけで、グルーデック、フリットの貢献度は大きいのですが。しかし一人の人間としてのフリットは、下ろすに下ろせない重い荷物を背負ってしまった事になるわけでした。
基本的に、物語を盛り上げるようなドラマ部分の描き込みは駆け足になりがちなガンダムAGEですが、このように主人公の性格や生き方がどうしてそのようになっていったのか、という下地部分は丁寧に作られているので、そういった部分に注目して見ていくと面白いかと思います。
▽ガンダムスパロー
最期に、AGE1の新たなウェア「スパロー」について。
これもまた、「動きの素早いUEを捉えるため」という対症療法的な事情を元に生み出された形であり、単純なパワーアップではなく敵に対応するための「進化」的な発想で生まれたコンセプトであろうと思われます。
と同時に、細身のシルエットでケレン味のあるポーズをとってみせたり、素早さを活かした斬撃中心の立ち回りをするところは忍者っぽくもあり、歴代ガンダムでいえば当然この方を思い出すところです。
そのほか、ゲーム登場の機体ですがガンダムピクシー辺りもイメージにあるかも知れません。
あとは、長いガンダムの歴史の中でもとびきりの黒歴史として『Gの影忍』なんてのもありますが……(笑)。
後々、作品リアリズムがどんどんシビアな戦争ものになっていく以上、Gガンダムオマージュが出来るのはフリット編の今のうちだと言わんばかりに、こんなコンセプトの機体が出てくるわけでした。
このスパロー以降、AGEシステムも空気を読んで、ちゃんと軍事兵器っぽいウェアを中心に生み出していく事になります。
また、戦場ではドン・ボヤージの戦死というシビアな出来事が起こっており、かなりシリアスな空気が流れているのですが、そんな中、スパロー完成を報告するバルガスたちだけは通常営業なので、その温度差も密かな見どころです(笑)。
ともあれ、新しい武装を得たガンダムは、今度は新たなロケーションとしてコロニー・ミンスリーへ向かう事になるのでした。
引き続き、のんびりストーリーを追いかけていきたいと思います。