枕草子 上巻


枕草子(上) (講談社学術文庫)

枕草子(上) (講談社学術文庫)


 どうせしばらくゲームやらガンダムやらにかまけて、お勉強方面は手薄なのだからと、これを機に何度目かの原点読みキャンペーンを展開しようかと思い、実は読んだことなかった有名古典を手に取りました。そんなわけで枕草子
 そもそも、平安時代の古文はどちらかというと苦手意識の方が強く、古典文学全集のような、注釈だけしかない状態で原文で読んでも意味がとれる自信が全然なかったので、ボリュームはありますが現代語訳もついている講談社学術文庫版を読み始めた次第。この辺、基本的にチキンです。



 とりあえず、実際に読み始めてみると、想像していた以上にキャピキャピしていて、微妙に居心地悪い感じになる(笑)。女子高生の会話の輪の中に突然放り込まれてしまったような孤立感、とでも言いましょうかw
 まぁ、中宮藤原定子つきの宮廷女房で、天皇とも普通に会話したりしてるし、かなり上流階級の身分な清少納言が書いたもの、しかもフォーマルな文書のようなしがらみのない、本音全開の書籍のこと、かなり遠慮のないセレブぶりなわけであります(笑)。貧乏くさいもの、みすぼらしいものとかには本当に容赦ない論評ぶりで。
 いかにもそんな感じではあるのですが、しかしだからといって、それを現代人の中・下流の民衆の視点から非難したところで、有意義な鑑賞をしたことには多分ならないだろうと思われるので、その辺はあまり重く見ない事にしました。


 むしろ、日常の本当に些末な、「どうでもいいこと」が書かれてるという事に心底驚いたという部分があります。
 だってねぇ、「お昼寝は気持ちいい」とか書かれてるんですよ?(笑) 「硯で墨をする時に、髪の毛が入っちゃうのは凄くイヤよねぇ」とか、ものすごく生活感ある記述があって。清少納言がこれを書いた当時、紙なんかはそれなり以上に貴重なものだったハズなんですけど、そんな貴重な紙を使用して、こんなにも日常の些末さを活き活き書いて残せたっていう事に、逆に驚きがありました。しかも、後世の人たちが連綿と写本していかないと残らなかったはずなんだもんね。
「○○なもの」っていう、連想して次々思いついたものを書き連ねてるような章段がありますが、そういうのなんか怒涛の「あるあるネタ」が連発されてて、ついクスリとさせられてしまうという。
 これ、世界中で見て、同時代にこんな内容の文献ほかにあるんですかね? 日本だけだとしたら、確かにこれは世界に誇っていい作品だと思います。


 また、清少納言はこの時代としても恐らく一級の教養を持った人で、漢籍なんかにも通じていて生半可な男どもでは手玉に取られてやり込められてしまうくらいの人だったわけですが。しかしその清少納言が、ただの頭でっかちのインテリじゃなくて、自分の五感で感じた事をきちんと自分の言葉で語れる、文献や当時の文化空間では評価されてなかったようなものも、自分が良いと思ったならちゃんと良いと書いてる辺りは、さすが日本を代表する随筆文学の面目躍如なのだと思います。
 監修に携わった方の余説にいわく、当時の和歌を中心とした価値観では、春と秋は歌の題材にもなって重要だけれども、それに比べると夏や冬は相対的にあまり価値が高くなかったわけですが、ご存知の通り『枕草子』冒頭では「春は」「夏は」「秋は」「冬は」と四季を平等に扱っており、これは後世の「歳時記」にまでつながるような、清少納言ならではの感性だったのではないかと。
 ついでに言えば、清少納言は「夏はとことん暑い方が良い、冬はとことん寒い方が良い」とも書いてるんですよね。自身の快適さよりも、その季節らしさが出た方が良い、という感性の持ち主だったというのも、面白いなと。もちろん、そんなのんきな事が言えるのはどんなに寒くても安定して食と暖がとれる貴族様だからだ、とも言えない事はないですが……そもそも生活に余力がないところには文学なんて生まれないので。
 辛辣な批判や、自分が褒められた事を得意げに書いた自画自賛な記述も多くて、鼻につく部分は少なくないのですが、しかしこの時代にあってはそういう「鼻につく」事も糊塗せずに、赤裸々に書いて見せた奔放さと正直さに価値があるのだと思うし、私は読んでて非常に楽しかったです。


 ともあれ、やっぱり良く耳にするような古典作品でも、実際に読んでみると面白いものだなと。原典にあたる有意義さと楽しさを久しぶりに味わえた楽しい読書でした。引き続き中巻、下巻も読み進めます。