ラノベの中の現代日本



 書店店頭で見て衝動買い。
 アニメ批評はなんだかんだで結構見ますけど、ラノベ批評の本ってあんまり見ないんで、気まぐれで。


 内容はというと、ラノベについてがっつり論じるというよりは、村上春樹村上龍村上隆とかの発言や作品を元に、時代ごとの変遷をたどりつつラノベにつながるという、流れの解説に重点が置かれていました。
 こういう時、必ず出てくるのが村上春樹の話で、そちらが未読の私は必ず置いてきぼり状態になるのですけれども(笑)、まぁ論旨はとれるから良しとする。いずれ村上読もう(ともう何年も言い続けている)。
 なんだかんだで、両村上を引き合いに出して語られる「バブル前後の時代」についてはよく書けていると思えました。
 しかし肝心の、ゼロ年代以降のラノベに関する記述はどうか。どうなのか。


 いくつか、非常に冴えた指摘もあるのですけれども(たとえは『ハルヒ』ラストでキョンのモノローグの中にさりげなく挿入された「銃社会」という言葉を拾ったりするところ)、全体としては物足りないという感慨の方が勝りました。
 この物足りなさの原因は二つあって、一つは「引き合いに出されるラノベ作品が少ない」ように思える事。特にこの本がライトノベルを知らない人を想定して書かれたとするなら、この本で言及されるラノベはちょっと少ないし、また偏ってもいると思う。『僕は友達が少ない』『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』、そして『ハルヒ』など。ここで取り上げられるのはラブコメに近い作風のものばかりなので、ライトノベルというのがアクションからSFからファンタジーから時代物から、何でもアリのフィールドであるという前提を読者にまず提示する段階が飛ばされている気がします。
 二つ目は、ライトノベルの射程を示すのに、提示される問題意識の軸がちょっと遠いような、そんな隔靴掻痒感を感じたことでした。ライトノベルというジャンルを横断的に解析する事で、示すことができる「現代日本」へのアプローチ法はいくらでもあるわけで。その中で、最終的に「ノスタルジア」と「ノストフォビア」という軸は、本当にライトノベルと呼ばれる作品群の本質を射抜くのに最適の軸だったのか、と。なんだか、少し遠い気がするのです。



 ライトノベルを書いている作家たちの世代にとっての日本が、「ファミレスやコンビニやラブホテルのような」情景を前提とせざるを得ないと語りますが。この言葉自体は東浩紀の本から引っ張ってきた語でしかない。それよりはむしろ、まずライトノベル実作中に描写された日本の実例を、もっと豊富に引用するなりなんなりして示す手間はとっても良かったのではないかと。
 実は、私がこの本のタイトルから期待したのはそうした分析でした。ライトノベル実作に、日本という国の情景がどのように描かれているのか。歴史的な位置づけの前に、まずはライトノベル自身に語らせる手順が必要だったように思います。


 この本がこのような章立て、構成で書かれたのは、やはりライトノベルを読まない層に対してライトノベルをアピールするためだったのだろうと思います。
 それはそれで大事な仕事だと私も頭では理解しているのだけれど、実のところ本音としては、ラノベなんて理解したがらない連中に理解させる必要ねーじゃん、などと乱暴に思っていたりもするのです。
 笠井潔が『涼宮ハルヒ』を論じて、「長門有希の沈黙は、ナチスに迫害されたユダヤ人たちの沈黙につながるのだ」みたいな事を書いた事が以前あったのですが。いやいやいや、そんな論評して何になるんだよ、というのが率直な感想だったわけでして(笑)。


 この本に引用されているラノベの文章を読んでみても分かりますが、ラノベ作家たちは実は、いわゆる「教養」と呼ばれるものも実はそれなりに持っている。作中でも実は、けっこう思弁的な問題提起をしていたりもする。
 ただ、通俗読み物であるという理由もありますが、かつての「教養」が読者に求めたような、そうした知識を「読者が知っていると前提する」「知っていて当然であるという態度を読者に対してとる」というような方法に対して、諦念があるように思います。「教養がないと読めない」ような作品を、彼らは決して書かない。ラノベ作者が作中に「教養」を忍ばせる時、それは必ず「読み飛ばしても支障が無いところ」に据えられます。今日において、「共通了解としての教養」なんて最早成り立ちようがないからです。
 ギャグやスラップスティックを展開し、あるいは非現実的な設定や道具立てをそろえる事で、「教養小説」的に読まれる事を徹底して峻拒する、それがライトノベルの「ライト」の所以なのではないかと思うわけです。長門有希を第二次大戦の歴史事象と結びつける言説が滑稽にしか見えないのも、そのためなんであって。


 だから、この本が一生懸命やっているようなアプローチでは、ラノベ以前とラノベとをつなげるのには少し足りないのじゃないかな、と思ったりするのでした。村上春樹作品と同じようにライトノベルを読んでも、ダメなんじゃないかと。
 それだったら、そうした歴史的な関連付けを一度あきらめて、思い切りライトノベルの中に耽溺する。そして、その作中で描かれている「ラノベの中の現代日本」を大量サンプリングし、その最大公約数を割り出す。そのような手順を踏んだうえで、これまでの日本と比較検討するという作業がようやく出来るんじゃないかと思うわけです。
 私がこのタイトルで本を書くなら、そうする。



 ……などと色々書きましたが。
 こうしたコンセプトの本が書かれること自体は、素直に喜ばしく思います。もっとライトノベル批評みたいな試みもたくさんあって良いと思いますし、その価値もあるんだと個人的には思っているので。
 ライトノベルに限らず、現代において広く人気を勝ち得ている作品に対しては、もっと批評の側からいろんな視点の提示はされるべきだと思う。『ワンピース』ひとつとったって、あれが世代を超えて読まれてるって異様な事だと思うしね。あんなあっけらかんとオープンに反体制で、既存ルールを確信犯的にぶっちぎる話が国民的人気になってるって、どういう事なのかって話はもっとされるべきなんじゃないかなーとか、ぼんやり思っているわけです。
 いや本当、お前ら村上春樹の話ばっかりしてる場合じゃないと思うぞ、っていう(笑)。取っ掛かりにするのは構わないんですけどねー。


 そんな感じで。