複製技術時代の芸術
- 作者: ヴァルターベンヤミン,佐々木基一
- 出版社/メーカー: 晶文社
- 発売日: 1999/11/05
- メディア: 単行本
- 購入: 3人 クリック: 63回
- この商品を含むブログ (80件) を見る
もう1年以上積ん読していた本を、たまたま気が向いて。
基本的に、思想哲学系の本は私に読む素養がないので避けているのですが(これ系の本は、それこそカントとかあの辺りから系統だてて読まないと、全然頭に入らない)、これだけはどうしても気になっていたので。
無論の事、現在の創作を巡る情勢が念頭にあります。デジタルデータとなった創作物は、基本的に複製・拡散が大変容易で、そのための可能性と問題が様々噴出している昨今、こうした事を考えるための足掛かりが欲しい気持ちはずっとありました。
とりあえず、分からなければ分からないでもいいや、とばかり、思い切って開いてみた次第。
とりあえず感想としては、うん、やっぱり分からなかった(笑)。
たとえば「弁証法的」みたいな言葉がバンバン並んで論述が進んでる時に、そういう哲学用語が一度のどに閊えてしまうともう、そこから先意味が上滑りしてしまう。一個一個辞典みたいなの引きながら読めば違うのかも知れませんが、あいにくと私は電車の中で読んでいるのでな……。
とはいえ、部分的に非常に刺激を受けたりもしました。
芸術作品が複製されることにより、その作品がこの世に一つしかないという一回性、その演劇における俳優の演技が二度と再現できないその場だけのものだという一回性、そこに宿る「アウラ」が失われる、あるいは否定されるという話。しかしベンヤミンはただそれを危惧しているわけではなく、むしろ新しい可能性が開ける余地にも言及してるのですね。
その可能性が何だったのかについては……半端にしか理解していない私には要約する自信がありませんので(笑)、是非読んでいただきたいと思いますが。しかし確かに、なるほどと思わせる記述でした。
というか、これが書かれたのって1930年代なわけですけど。この時代で既にこれだけ見通せてたって凄いなと。いわゆるCGM(消費者生成メディア)辺りまで予感してるように見えます。やっぱ本気で思索を巡らした人の先見の明ってすげぇ、痺れるわけで。
とかく、分からないなりに刺激を受け、楽しみました。
うーん。やっぱり思想哲学の本もある程度読みこなせるようになりたいなぁ。長い人生、いつかそういう修行の時間もとれるかしら……。