世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/04/08
- メディア: ペーパーバック
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 下巻 (新潮文庫 む 5-5)
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2010/04/08
- メディア: ペーパーバック
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世の中には天邪鬼な人間というのがいて、世間で有名な、誰もが読んでいる作品ほど読みたくなくなる、というへそ曲がりな意志を無駄に長く持続させていたりします。
私の事ですが。
そんなわけで長らく読んでいなかった村上春樹なのですが、さすがに辛くなってきたのでこの度、意を決して読むことにしました。
何が辛くなったかって? 若手の批評家が書く評論集なんかを読むと、必ず村上春樹論が一つは入っていて、いい加減そこでされてる話が分からないのが我慢ならなくなったのです(笑)。
皮肉な話ですが、マンガやアニメなどのサブカルチャーに比べて、もう小説で、それもいわゆる「文学」と呼べるような作品の中で、共通体験になり得るほどの影響力持ってるのって村上春樹ぐらいしか無いのでしょうね。しょっぱい話をすれば、作品を批評して買ってもらえる題材が、もう村上春樹くらいしかいないのだろうなと思います。
逆を言えば、村上春樹読んでないと、その手の作品評論集で必ずつまずくのでした。
で、前置きが長くなりましたが、ようやっと重い腰を上げて、差し当たって発表時期が早そうだったのを適当に手に取ったのでした。
そして現在、読み終わって……はてさて、どう感想を書いたものかと、頭を抱えてしまったのでした。
無論の事、小説を綴る上でのテクニックについてはさすがの一言で、とてもよく書かれていました。
面白かったかと問われれば、間髪を入れずに面白かったと答えられます。
しかしそうであればこそ、なんだかすごく奥歯に物が挟まったような読後感を持て余してしまう。
たとえば、「ハードボイルド・ワンダーランド」側で展開されてる話の、個々の道具立てを取り上げてみると、実は俗なエンタテインメント作品の要素だったりする。巨大な秘密組織の情報合戦、敵対組織に襲われるサスペンス、地下世界を支配する悪魔的なモンスター、などなど。
それらの組み合わせや、取り扱い方の変化によって「俗なエンターテインメント」以上の意味や世界観を取り出していく手さばきは、心底から感心もしてしまうのですが。
しかし感心すればするほど、「あえて俗なエンタテインメント的な道具立てを使わざるを得ない」ということ、そこで何かしら断念されている事が透かし見えて、素直に心酔する気になれなかったのでした。
たとえば、作中には数多くの名作文学や、クラシック、ジャズなどの音楽のタイトルが列挙されます。一見、そうした多くの文学作品などを下地にした、いわゆる「教養」が作中人物や読者の間に前提される話のように見えるのですが、実はよく見ていくと違う。
作中でツルゲーネフとかドストエフスキーとかの文学のタイトルが挙げられ、作中人物同士が会話をかわすものの、大体の話は「ふうん」とか「そうかもしれない」とかいうセリフで、すぐ終わってしまうのです。
そう。実にたくさんの作品名や曲名がセリフの中に出て来るにも関わらず、作中人物同士の間でそういう話が盛り上がっている、というシーンはほとんど無いのでした。「ふうん」と相槌が打たれて、それでまた別の話題に行ってしまうケースが、すごく多いように思えました。
作中、地下世界を歩き回って泥だらけになった主人公たちを、若いタクシードライバーだけが嫌がらずに乗せてくれます。彼は「ロック音楽を聴きそうな客だけを選んで乗せている」と言い、主人公にロック音楽の話を振るのですが、主人公は明らかに上っ面な受け答えだけしていて、実はそんなにロック音楽なんて聞いてないし、別にそんなに好きでもない。それでも、会話は成立してしまう。
恐らく、同様の「上っ面だけの会話」が、この作品の中には満ちているのだろうと思うのですよ。実際、村上春樹を読んでいる読者の大半もツルゲーネフなんて読んでないから、気づいていないだけなんじゃないか(笑)。まぁ私も読んでないんですが。
そんな有名文学作品のテーマなんかよりも、「東京の地下に棲む悪魔的モンスター」みたいな俗な記号の方が、読者である我々にははるかにスムーズに呑み込めてしまう。
この『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という作品全体を通して、なんか作者のそういう諦念というか、屈折のようなものが貫かれている気がしたのでした。ただ私が捻くれた読み方をしているだけかも知れませんが……。
ぶっちゃけて言えば。そんな屈折をしてまで作中に有名文学作品(それも海外作品ばかり!)の名前を出し続けるのは、そんな風にしてしか「これは通俗娯楽小説じゃないよ!」という存在証明が出来ないからなんじゃないか……とまで思ったわけで。
うん。はっきりいってへそ曲がりな感想だろうとは思います。
「世界の終わり」の最後での、「僕」の決断とかにもそれなりに感銘は受けたのですが、しかし上記のような寒々とした実感に比べて、その感銘が具体的な言葉になってくれなかったのでした。
私は、村上春樹作品の不幸な読者なのだろうか。それでも、この作家さんがこれ以降も第一線のトップランナーとして作品を発表し続けているという事には、興味は湧きました。またいずれ、作品を手に取るかも知れません。