江戸の歴史家



 去年の神田古本まつりにて、ちくま文庫の絶版本コーナーに見つけた一冊。
 従ってこうして紹介しても、新刊書店では購入できないわけでありました……まぁこのブログでは珍しくもないですが。


 さて。
 江戸時代に関する文献を気ままに漁ったりしていますと、儒学者の名前はちょくちょく目にする事にもなり。また、日本で初めて考古学術調査的な発掘をした徳川光圀なんかも気になって来たりもしますし、日本の信仰、あるいは神々の歴史などを追っているとどうしても国学は無視できなかったりするわけで。
 いずれ、そうした江戸時代の思想の系譜に挑みたい気持ちはあるものの、なかなか踏ん切りがつかない状況がもう何年も続いておりました。
 そんな中で、多少とも外堀を埋めるつもりで、この本を手に取ってみたわけで。


 林家史学から前期・後期水戸学、新井白石荻生徂徠頼山陽国学、そして幕末維新と、明治時代の歴史記述までを眺めるという内容で、新年早々なかなか歯ごたえのある読書でありました。
 もともと私は思想哲学の系列は苦手の体で、それぞれの歴史家にとって「天」「天理」の意味がどのように違っていたかといった比較はかなり頭から湯気の出る始末。しかしともあれ、多少とも実感をつかむ端緒くらいにはなった気がします。


 元々は徳川政権の正当性の顕示のために始まった江戸の修史活動が、時代を追うごとに逆に政権の正当性への疑問を導出する方向へシフトしていき、結果的には勤皇倒幕運動をスタートアップする羽目になってしまったという、その推移や経緯の考察が中心の本です。逐次追いながら、歴史の流れの背後に普遍的な法則や指向性、「神の見えざる手」みたいな調整作用を見出そうとする思考がこんな大変なものかと、呆れるやら感じ入るやらというのが正直な感想でありました(笑)。
 と同時に、なんだかんだで千年以上、絶えずに続いて来ている天皇というポジションが、どう扱うにしてもやっぱり大変であるなあ、と改めて再認識した事でした。


 うまくまとまるほど感想や考えが固まっているわけでもないので、この辺で切り上げますが。どうあれ、今後もう少し踏み込んでいくための橋頭保は手に入れられたような気がします。
 まだまだ暗中模索状態ではありますが、少しずつ。