ゴジラ



 ハリウッド版を見るにあたって、予習として1954年の初代ゴジラを見てみた。


 これがまた、何とも言えない迫力でした。とにかく圧倒的な存在感で東京の街を壊しまくるゴジラの映像は、後述のハリウッド版に見られた最新映像技術によるものとはまた別な、明言し難い力があって。
 やはり時代的に、まだ太平洋戦争の記憶が鮮明に残ってる頃なんですよね。劇中でも「また疎開か、嫌だなぁ」なんてセリフが出てきたりしますが……当然東京大空襲の記憶も鮮明な時代に作られたわけで、そのせいかゴジラ通過後の焼野原の情景とかが、とにかく生々しい。
 迫りくるゴジラの前で、幼い子供三人を抱いた母親が「お父ちゃんのところへ行くんだよ」とか言ってる(しかも助からない)とか、とにかく異様な、鬼気迫るものが画面に充ちてるので。こりゃとんでもない作品だな、と。


 ようやく復興しつつあった東京を、水爆から生まれたゴジラが再び焼野原にしていくというのが話の骨子なわけで、当時の時代背景なんかも含めて、やっぱりプロット段階である種の生々しさを感じると言いますか。劇中、子供にガイガーカウンターを向けているカットなんかもあって、今見るとまた何とも言えないショッキングさがあります。そしてそのゴジラを葬る事が出来るのが、やはり軍事利用されれば水爆以上に人類に仇為す危険な技術としてのオキシジェン・デストロイヤーである、という構図になっていたり。この危険な品物を、ゴジラのために使用するか否かで芹沢博士が苦悩するという場面に、この作品はかなり長い尺を割いています。
 そういう意味で、水爆という毒をオキシジェンデストロイヤーという別な毒で制する話なんですね。


 しかし一方で、ゴジラは水爆によって歪められてしまった自然の象徴でもあるわけで、そういう多層的な解釈を許すところもこの『ゴジラ』という作品の魅力なのかな、と思います。実際、ゴジラの破壊は以降、どんどん台風と同じような災害に近くなっていくわけで。
 後述するように、ハリウッド映画などでは、街中に現れて積極的に文明を破壊していく存在はイヴィルなもの、邪悪なものと見なされざるを得ないところだと思うのですが、日本の場合は台風のような災害が善も悪もなく、街を蹂躪して去っていく事が当然になっているので、ゴジラが退治されないまま通過して去っていく事にもそんなに違和感がないんですね。その辺は、感じ方の違いが露骨に出ているのかなと思ったりしました。


 いずれにせよ、これは確かに名作としか言いようのない作品だと実感した次第。よくもまぁ、1954年にこれだけのものを作ったなぁ、と。
 最近の口癖ですが、これももっと早く見ておけば良かったと思ったわけでした。


 細かいところ。
 序盤、まだゴジラが姿を見せない段階で、小島の古老が昔語りをするんですね。で、実は「ゴジラ」という名前はその島に言い伝えられていた怪物の名前で、かつてはゴジラを鎮めるために生贄をささげてた、なんて話をするシーンがあったりしました。
 昭和史を彩る大怪獣ゴジラですが、その出自にはやはりこういう土俗的な言い伝えが設定されてたのか、と感慨に浸ったり。
 実はこれに先立って、たまたまNHK-BSで『モスラ対ゴジラ』をやってたのも見ていたんですが、こちらでも事の発端は巨大なモスラの卵が日本に流れ着いたという話で、こちらも言ってみれば柳田國男の『海上の道』、寄り物についての想像力が行使されてるんですよね。そう考えると、ゴジラモスラといった「怪獣」の系譜にも、日本の民俗とけっこうつながる部分があるのだな、などと思ったりしたわけでした。
 その辺が確認できたというのも、今回の視聴の有意義な点の一つだったかな、と思った次第です。


 そんなところで。