リア王


リア王 (新潮文庫)

リア王 (新潮文庫)


 シェイクスピアの四大悲劇、これでコンプリート。というわけで『リア王』読んでみました。


 四大悲劇の他の三作が、比較的すんなりと「なるほどこれは見事」と思えたのに対して、この『リア王』は上手くその凄味を受け止める事が出来ないまま読み終えてしまった感じがします。翻訳と解説をしている方も、また松岡正剛先生も四大悲劇の中で格別にこの作品を褒めてるんですけれども。
 やはり、リア王の老いゆえの不随意、感受性の硬直、混乱や錯乱といった感覚が、私の中でうまく響かなかったのが大きいのだろうとは思います。これは多分、十年以上してからまた読み返した時に、いろいろ感じる物があるのかな、という気もしたり。
 あと、やはりこれは実際に演じられているものを見るべきだろうなと。他の作品もそうなのでしょうけれども、特に『リア王』で強く感じました。リアを襲う嵐の苛烈さにしても、グロスター伯を巡る陰惨な出来事にしても、字面だけで追体験するより、目で見るべきシーンのように思える。


 そんなわけで、これは未来の自分に向けての宿題かなぁ、と。今の私に必要なのは、有名作品を「一通り押さえる」事であって、深追いする事ではないので。ちょっと惜しいけどな……。



 あと、作中に出てくる「道化」の存在がけっこう印象に残りました。最強の権力者である王に対して、唯一、無遠慮にからかいの言葉や批判や皮肉・毒舌を浴びせかけて良い存在。私はこの作品の他にはコミック版『風の谷のナウシカ』でしか見た事が無かった。こういう存在を許容する文化があった、というのを改めて目にしたわけでした。
 道化のような存在がいつ頃から、どれくらい存在していたのかなとか、そういう問題意識も頭の片隅に置いておきつつ。


 何か興味あるテーマが見つかっても、ただちにそいつを追い回さないというのが私の基本スタイルなのでした。テーマや疑問は頭の中にストックしておいて、いずれまたそこに関連する材料に出会った時に、再び引っ張り出してくる。そうやってだんだん膨らませていく次第。
 だから、私がやってるのは多分、「研究」ではないのだろうなと、最近思っています。セイゴオ先生風にカッコよく言えば、「遊学」とでも。「遊撃隊」「遊撃手」みたいに、専門テリトリーを決めない学びがやりたくて、今までもこれからも、雑多な本を読み続けるのだろうと思ったりします。
 まぁ、そんな感じに関心圏を広げられるだけ広げているので、逆に押さえなきゃいけない基本も莫大に広くて、今あっぷあっぷしてるんですけど(笑)。


 ま、急ぎませんからね。着々といきましょう。