じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ


じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)

じゃじゃ馬ならし・空騒ぎ (新潮文庫)


 シェイクスピアも読み進めてここまで。新潮文庫で出ているシェイクスピア作品のコンプリートまでは、ようやくハーフターンといったところでしょうか。この本に収録されてるのは最初期の作品と、悲劇中心になる少し前くらいの時期の、喜劇作品。


 『じゃじゃ馬ならし』の方は、えー、大変コメントに困る作品であります(笑)。特にラストでカタリーナが語る内容とか、さすがに今日の目で見てしまうと、どう頑張ってもポリティカルにアウトなので。
 もちろん、これが書かれ上演された時代の倫理観は現在とは違いますし、それを現代の目で見てしまったがためにこの作品の良さを汲めないというのも不幸な事ではあるのですが、この辺は難しい所であります。
 シナリオ的には良く出来てると思いますがね。ビアンカとルーセンショー、カタリーナとペトルーキオーという二組のカップルの話が、ラストで綺麗に合流する辺りはやっぱり上手い。
 訳者の方は、ペトルーキオーが乱暴な手段をとりつつもカタリーナ本人への悪罵は決して行わない事を「優しさ」だと書いてますが、私が読む限りそれは優しさや配慮というより、明確に戦略だろうと思えました。もしペトルーキオーがカタリーナ本人へも悪罵や乱暴を行ったなら、カタリーナは大手を振ってこれに対抗して暴れる事ができるのだけれども、ペトルーキオーがそれをしないから、カタリーナは怒りの矛先を失うわけで、それが彼の戦略のいわば要であるはずですから。
 ただ、やっぱり現代の倫理、現代のポリティカルコレクトに照らして、こういうペトルーキオーのやり方を留保無しに褒めるのは怖いよなぁ、という感じですw


 一方の『空騒ぎ』の方は、これも喜劇と言いつつなかなか重い話でした。
 無論喜劇であると分かっている以上、ヒーロー(これが女性の名前だというのは最後まで慣れませんでしたがw)の冤罪を巡る話も最終的には大団円に収束する事は分かっているのですが、にも関わらずそこに安心して読めなかったのは、明らかに『オセロー』を先に読んでいたからでした。要するに、このような誤解や陰謀が、喜劇という予定調和を迎えられずに本当に成就しちゃった事例を見てるわけですので。
 言ってみれば、同じような陰謀・奸計に対するグッドエンドが『空騒ぎ』で、バッドエンドが『オセロー』という感じ。
 また、ヒロインが一度死を偽装する事で事態の打開を図ると言う意味では『ロミオとジュリエット』も少しダブります。これも、『ロミオとジュリエット』の方はバッドエンドで、『空騒ぎ』はグッドエンドでした。そういう意味で、上記二作品の後にこの『空騒ぎ』を読んだのは幸福だったかも知れない。


 あと、ベアトリスのキャラが良いですね。訳者は解題のページで、本国でもまた日本においても、『空騒ぎ』のベアトリスよりは『じゃじゃ馬ならし』のカタリーナの方が好意的に受け入れられるだろう、後者の方が最後に折れて弱いところを見せるし、みたいな書き方をしてますが、うん、とんでもない、という感想でしたね。
 何がって、ベアトリスのキャラ造形って今日いうところのツンデレに他ならないわけですよ(笑)。むしろ強制的にデレさせられちゃうというカタリーナより、こっちの方が今日的にははるかに魅力的なんじゃないですかね。何より、デレてからも表面的なツンを崩さないところがポイント高いわけですw 表面的にはツンな言い合いをしつつ、それがデレである事を本人たちは了解してるっていう、これは実にすばらしい(笑)。
 以前、ツイッターで『ヴェニスの商人』の感想をダラダラ呟いてた時、さしものシェイクスピアツンデレを発明するにはいたらなかったかぁ、とかポロッと言った事があるのですが、あれはお詫びして訂正させていただきます。シェイクスピアツンデレも見事に書き切ってた。脱帽ものですよ。
 もし、仮に『ツンデレ文学史』とかいう本を書くことになったとしたら、この『空騒ぎ』は決して欠かすことが出来ないことでしょう。


 ……ともあれ。四大悲劇とかその辺に比べると少し迫力が違いますが、それでも色々と見どころがあるのはさすがというところでしょうかね。
 さて、このまま新潮文庫シェイクスピア作品コンプリート目指して。引き続きのんびりと。