プロタゴラス


プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)

プロタゴラス―ソフィストたち (岩波文庫)


 引き続きさらにプラトン
 こちらはソフィストの長老的存在であるプロタゴラスと、ソクラテスとの対話。そして私は相変わらず、将棋の対局を観戦するような気分で読んでおりました(笑)。
ゴルギアス』と比較すると、プロタゴラスソクラテスの疑問に対してかなり的確に上手く答えてますし、ポロスやカルリクレスのような「論争に勝つ事優先」といったような態度も薄く、これまで読んだ中ではかなりフェアにソクラテスと渡り合っている印象がありました。そんな印象だったせいで、むしろ、わざと自身は謙遜し相手を誉めそやす事で相手が発言する事に対してプレッシャーをかけていく、例のソクラテスの論戦戦術の方が逆にうざったく感じられたり(笑)。そのせいか、ソクラテスプロタゴラスと共にまわりの聴衆にたしなめられ、譲歩を余儀なくされるという珍しい一幕があったりもして。
 とはいえ、ソクラテスの方でも、『ゴルギアス』の時と比べればかなり相手の事を買っていたんじゃないかな、と思えるフシがあったりもします。


 巻末の解説でも触れられていますが、ソクラテスは『ゴルギアス』その他においては、快と善とは別のモノであって、快いことのみを求めていては最終的に「善」から離れて、かえって惨めで醜い事になるという事を主張しています。ところがこの『プロタゴラス』では、ソクラテスは逆に善と快とは同じことだ、と主張するわけでした。一見したところ、これは明らかな矛盾です。
 巻末解説では、「善い事とわかっていながら、ついつい快いことの誘惑に負けてしまう事があるというが、善い事とはつまり目先の快楽よりもさらに大きな快さであって、その大小を見分ける知恵があればそのような誘惑に負ける事は無い」という主張になっているのだから、これは知識・知恵の称揚なのであって、ソクラテスは快楽主義に陥っているのではない、という旨の事を書いています。
 個人的には、しかしもう少し踏み込んで理解をしています。ソクラテスは毎度おなじみ、お得意の病気と医者とのたとえで、目先の手術といった苦しさを逃れるあまり、病気が治った後の快さを避ける事の滑稽さのアナロジーとして、目先の快よりも善をなすという「より大きな快」を選べるはずと主張しているわけで。つまり、ここでソクラテスは「善を行うのは快い事だ」と言っているのではないかと思うわけです。
 私が学生時代、インターネット上で見つけて感銘を受けて、今でも時々読み返している、じょうのさんという方が書かれた一連のウェブページがあるんですが、その中の一つで、以下のような記述があるのを思い出したのでした。

 人間の正義は、克己や規範、禁欲や隷属とのかかわりで考える限り陰鬱で愚劣なものに過ぎない。だが人間の正義に対してきちんと考えるならば、私はなぜそれをしたいのか、ということに対して明晰でいなければ意味はない。ひとは悪を欲するのと同じように善を欲する。正義は欲望に反するものとして意味があるのではない。欲望のひとつとして意味があるのだ。ひとが正義を欲望しないのだとすれば、この世にかつて正義は行われなかった。そのかぎりで性善説アプリオリに定義上、ただしい。「微笑をもって正義を為せ」ひとが正義をそれが正義であるから為すのだとしたらもはやそこには奇妙な退廃があることになるだろう。その行為が、まさにその具体性に於いて特定のその行為だから、それをしたいのだ。正義が欲望されるからといってそれを恥じるのは奇怪な倒錯である。

 われ、いまだ徳を好むこと色を好むがごときを見ず。

 アア、デモ、キットソウデナケレバナラナイノダ。


 前後の文脈は、上記のリンク先を参照していただきたいわけですが。
 つまり、「善いことをしたい」というのも、それはそれで一つの欲望であって、同様に良い事をし終えた後の気分もそれはそれで一つの快である、という風に私はこの本のソクラテスの主張を理解したわけです。そして、そのような快の方が、目先の悪徳によって起こる快よりも大きい、という話であろうと。


 少なくともそう理解すると、ソクラテスが『ゴルギアス』の中では快と善とを切り離して主張した意味が分かってきます。善もまた快をもたらすものだ、などとポロスやカルリクレスの前で言えば、彼らは嬉々として「ならば善行だって特別視するにあたらない、目の前の快を為した方が良い」と主張するでしょう。そのような発言はますます議論を複雑にさせるだけです。だから、とりあえず目の前の快楽と善とは別だ、という主張の段階で止め置いた……と見る事もできるのではないかと。
 プロタゴラスとの会話でだけ、善もまた快であるとソクラテスが主張できたのは、プロタゴラスはポロスやカルリクレスのように短絡に目の前の快だけを追うような主張はしないという、相手への洞察があったからじゃないかなと思うわけです。
 うがった見方ですが、私はそういう理解で、この『プロタゴラス』については納得しています。


 いずれにせよ、ソクラテスが相手によって、主張や論述の態度を変えている事は確かです。そういう意味で、ソクラテスの対話って一種の対機説法なんだなと思うし。『パイドロス』で書くことを一段低く評価していた事も合わせると、不定の相手に対して書物という形で、「ソクラテスの思想とはこのようなものだった」と言い切るというやり方はソクラテス自身の方法論とは真逆なんだろうなと思ったりもするわけで。そういう機微も含めて、いろいろ考えてしまうわけでした。


 まぁ、まだプラトンの著作は残っていますし、引き続き読みながら考えていきたいと思います。