国家(上・下)


国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)


 プラトンを巡る読書もいよいよ大詰め。実は『法律』も読もうかと思ってたんですが、うかうかしてたら書店からなくなってしまいました。本当、最近の出版界隈は、欲しい本はすぐさま押さえておかないとすぐなくなってしまう……。


 そんなわけで『国家』。かなりボリュームのある上下巻の著作で、さすがに疲れました。
 話の発端は『ゴルギアス』と似たような話題で、正義を為す者の方が損なんじゃないのどうなの? という話。で、そこから詳細な検討をするために、人の正義を検証する前に国家の正義を考えて見よう、となるわけでした。規模の大きなものを考えた方が考えやすいから、という趣旨。
 そしてそこから、ソクラテスにより「理想の国家」の創設がシミュレートされていくわけで。
 正直なところ、中盤辺りまでかなり納得いかない気持ちで読んでおりました。それというのも、あまりにも机上の空論すぎるように思えたからで。子供の教育のためには堕落や不徳を含む叙事詩とか劇とかは追放しなきゃいかんよねと言ってみたり、また教育がちゃんといってて皆が理想的な国民に育っているなら刑法や商法は制定しなくても皆上手くやるよね、とか言い始めたり。いやいやさすがにそれは承服しかねる、という内容が多くて、はっきりいってプラトンの著作でなかったら放り出していた、という辺りまで呆れて読んでいたという経過がありまして。
 むしろ、治る見込みのない人への医療はせぬ方が良いとか、国民の質を優れた者に保つために劣った者同士が生んだ子は秘密裏に「かくし去って」しまうとか、どう考えてもディストピアとしか思えない事まで言っていて、少なくともその国に俺は住みたくないぞと思わされること度々だったわけですが。
 では、この本でのプラトンの構成や主張、見識がダメなのかというと全然そんな事はなく、むしろ後半の議論は感心する事の方がはるかに多かったりして。
 特に、寡頭制、民主制、僭主独裁制を順番に批判していく記事、さらにその中で民主制における利点と弊害を述べたくだりが、まるで現代社会を見知っているかのように、今の日本社会への批判として適格すぎて戦慄するほどだったりして。紀元前のギリシャでここまで見通せるという事に端的に畏敬の念すら感じたほどなのでした。
 この長大な作品全体で保たれている議論の緊密さと首尾一貫した流れ、また対話形式ながらこれだけの長さを単調にさせない会話運びの(小説的な)上手さにしても実に卓越しているというのが読了後の感想で。一言で言えば、やっぱプラトンすげぇ、となった次第。


 だからむしろ、そのように高度な見識を持ったプラトンですら、二項対立の罠にはまるとこうもディストピアな構想に至ってしまうという事の方に思いを致すべきなのかな、と思った次第なのでした。プラスとマイナス、ポジティブとネガティブなものを二つ並べてどちらを取るかと相手に聞けば、まずポジティブな方を採る。けれどそうやって善悪のうち善を採り続けるという事を重ねていくと、いつの間にかディストピアの出来上がり、というわけです。
 多分、プラトン的な思索の限界があるとすれば、その辺りなんじゃないかなと。


 一方で、そのようなウィークポイントを見せてまでも、一個の理想的な国家を自分なりに、徹底的に構築して見せるというこの作品の意図は、やはり重要だったんだろうと思います。
 目の前に次々流れてくる問題を、対症療法的にその都度考えていると、想定していなかった自己矛盾に落ち込んで気づかない事もあったりする。現在でも、たとえば私のツイッターのTLを眺めてると、経済問題ではAという方針を支持して、エネルギー問題ではBという方針を主張して、実はAとBは相反する両立困難な方策なんだけれど本人は気づいていない、といった事は散見されたりするわけで。
 そういう意味でも、迂遠に思えつつも自分なりに「全体」を一から構想してみるという思索は大事だったりするのでしょう。ましてこれだけの綿密な議論で組み立てた、いわば壮大な「たたき台」を提示してくれるこの作品は、やはり後世に与えた影響も含め偉大なのだろうな、と思った次第。


 まぁ、詩人が追放されてしまうプラトン提示の理想国家には私の居場所はなさそうではありますが(笑)。しかし、たしかに様々な示唆を得られた、楽しい読書でありました。