ニコマコス倫理学(上・下)


ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)

ニコマコス倫理学〈下〉 (岩波文庫 青 604-2)


 ぼちぼち読んでいるアリストテレス。いよいよヘヴィーな領域に差し掛かってまいりました。


 とにもかくにも、その力技に圧倒されるわけですよ。この時代、プラトンのやったような徳や善についての追究や探究はあったにしても、それって全然「学」じゃなかったわけです。ぺんぺん草も生えてない真っ平らな更地に、「倫理学」って学問を建てちゃったわけで、その手腕のパワフルさにただただ呆然と読み進めたという感じです(笑)。
 いや本当、とんでもないお方やで、アリストテレスさん。とにかくその知的タフネスさ、凄いとしか言いようがないわけですよ。


 やっぱ、この前人未到だった「学」を建てるにあたっての、アリストテレスの構想に感心したのでした。『動物誌』みたいな自然学だったら、とりあえず目の前の動物を観察して、その結果を分類して既述していけばとにもかくにも「学」になってくれるわけですけど、倫理学はそうはいかない。「徳」だの「幸福」だの「善」だのは、明確な形のあるもんじゃないし、幸福そうな人を観察してもそこから一般化できそうな「幸福」を取り出すのは容易じゃないし、まして自分の体験を論拠にしようとでもしたら、最悪ただのエッセイとかお説教になってしまう。
 それに対して、アリストテレスはどうしたかっていうと、多分「言葉」を観察したんですよね、これ。つまり、倫理に関わる言葉が人々にどう使われているかを観察・収集・整理したんだろうと思います。こういう行動をする人は「勇敢」と呼ぶけど、こういう行動の場合はそうは言わない、という事は「勇敢」という言葉が指し示す「徳」はこういう性質を持ってるはずだ……と言う風に進めていく。本書では多くの叙述が、そのように進められていっていると読めました。
 なので、アリストテレスの倫理に関する論述は、その根拠に当時の「ことわざ」なんかも多く使われています。そういうところが面白かった。
 ですから、ある意味で『倫理学』を論じるアリストテレスは、『動物誌』のアリストテレスと明確に方法論の点で繋がっていると思えました。動物を観察するように、言葉の細かな振る舞いを観察したんですよね。そしてそれを整理して組み合わせて、「倫理学」と呼べるくらいまで組み立ててしまった。そういう方法論で「倫理」を論じられるという構想に素直に参ってしまったわけなのでした。
 そのようなある種の実証性を担保しているから、二千数百年後に生きてる我々が読んでも納得できる論述になっているわけで……と同時に、これ翻訳して逐一原文に当てはまる日本語探してくるのも相当大変だったろうというのもしみじみ思われるわけで。いやぁ、これを日本語で読めるってとんでもない幸せでありますな……。


 そういう方法論に関しての他にも、純粋に論旨にもわりと頷きながら読むことができました。幸福は状態ではなく活動である、なんてなかなか面白い。
 プラトンは「イデア」を掲げて、いわば善と悪を並べて常に善の側を採る、という形で「善」を設定していた節があって、けれどその結果、彼の構想した理想国家がどうにも住み心地が良いとは思えないディストピアっぽい一面を持ってしまったように感じられるという違和感は、『国家』の感想で書きましたがアリストテレスはこれに対して、善というのはプラス方向の行き過ぎと、マイナス方向の行き過ぎの、そのちょうど中間にあるという、いわゆる「中庸」を言うわけでした。
 アリストテレスの思想としての「中庸」というのは高校時代の倫理の教科書でも見ましたけれど、それが上記のような二項対立の罠を解除する思想だというのは読んでみて初めて気づいたわけで、うんやっぱ原典読まないとダメだなと改めて思った次第ですけれども。
 また同時に、この「中庸」は二項対立の解除であると同時に、「何が善かはその時次第」という事を示したという事でもあって、その事にも感心してしまったのでした。つまり、ポジティブからネガティブへのスライダーがあったとして、善か悪かの二項対立なら、常にポジティブ側最大までカーソルを持って行けばOKなんですけど。アリストテレス的中庸は、常にちょうど真ん中にあれば良いって話ではなくて、その状況次第で少しポジティブ側に寄せた方が良い時もあるし、逆にネガティブ側にずらした方が適正な場合もある。何が正しいかは、その都度その都度のバランス感覚なんですね。
 だから本書には、「然るべき時に、然るべき具合で、然るべく実行する」といったアバウトな言い回しが頻出します。ただ一点を指して「ここが正しい、ここに常にカーソル合わせておけばOK!」って言えた方がカッコいいけど、アリストテレスはそうしなかった。「その時その時でちょうどいい塩梅を見つけるしかないよね」って言った。私はその事にすごく好感を持ったし、すごく誠実だと思ったわけでした。


 というわけで、そのようなアリストテレスが、果たしてどんな方法で、どんな手捌きで「形而上学』を立ち上げたのか。俄然興味が湧いてきたわけでした。いよいよ次に、『形而上学』にトライします。さてさて。