市民ケーン



 とりあえず名前聞いたことのある映画は見ておけ、ということで、これも。
 実はこの作品名、以前刑事コロンボの小説版読んだ時に名前が出てきた関係で、妙に覚えていたようです。だから名前は聞いたことがあったけど、前評判というほどでもなかったという。


 とりあえず見てみたわけですが。うぬ、私としては珍しく、視聴直後に感想がうまくまとまらない、という状況で、しばらく呆然としておりました。
 新聞王ケーンの死後、彼の事を知る様々な人物に話を聞く事でその人柄を探っていく話ですが、個々の人物が語るエピソードから、ケーンという一人物のイメージを組み立てるのに手間取ったのかも。一面的に語られてるわけではなく、世の常として相手によって人のイメージなんて変わってしまうわけで、むしろ意図的に「一つの明確な像」が結ばないような構成なのかも。劇中ラスト近くにも、「一人物の一生を一言で表す事なんてできない」的なセリフもありますし。


 映像表現にいろいろと画期的なものがあった、とWikipediaさんは言っていますが、その辺も私はいまいち不案内なのでピンと来なかった面はあります。そういう意味で、この作品を映画史の中のエポックとして見る、という事にはもしかしたら失敗してしまったのかもしれない。
 ただ、感じることが何もなかったわけではなく、むしろいろいろと千々に思う事はあったわけでした。


 多分、変なちぐはぐさがあるんですよね。世論や世間の評判なんて自分が新聞をもってコントロールできる、って大言壮語しているけれど、いざケーン自身にとって都合の悪い情報を握りつぶせるチャンスが来ると、「俺は公正で正直な人間なのだ、見損なうな」っていう態度をとって、むしろ自分に不利な情報を積極的に公にしてしまう。
 で、そういう態度に対して、彼の友人が語りの中で「自分が正直であることを周囲に対して証明して見せたかったのさ」というような事を突き放して言うんですよね。そこに、わりとギクリとしたり。
 私事ながら、似たような経験が私にもあったのでした。詳しい事は忘れてしまいましたが、高校時代の友人に、「その自分は正直者だっていちいちアピールするのやめてくれないか?」的な事を面と向かって言われた事があったのです。


 他者のため、あるいは公正や正義のためだと思ってやってることが、「お前それ、自分のエゴイズムのためにやってるだけじゃん」ってある時指摘されるという。人間、そういう風に勘違いした行動することあるから、こういう指摘は必要だし重要なのだけれど、しかししかし、これを指摘された人間はつらいんですよね。実につらい。
 自分の評判とかなんだとか、そういうエゴイズムのためにやってるに過ぎなかったとしても、本人の中で正義のためとか慈善のためにやるのだと思って行動する時、そこで一番表層にある「やりたいこと」を我慢してるんですよね。分かりやすい欲望とか利己的行動をセーブして、それで正義や慈善のための行動を選んだと思っている。それが実際には選んだ方も誰かのためでなく自分のための行動に過ぎなかったと暴露された時に、そこで実は一回本人の中で「我慢」してるのが完全に無駄になるわけで……だから本人がそのことを認めるのって、実はすごくつらいのよなー。
 もちろん、だから認めなくて良いって話にはならないわけですけれども。


 この映画の主人公のチャールズ・ケーンって人は、そういうところですごく可哀想な人として描かれてるような。そして、私自身もそういうところに感情移入して見ざるを得ないような、そんな気持ちだったのでした。利他のための行動だと思ってたのが実は全部利己的行動だったって、気づかされてしまったらちょっと、もう身動き取れなくなるよなぁ、やっぱり。
 なんかその辺、しみじみ。


 そんな感じでした。
 あとちょっとびっくりした事として、楽園とかいう意味でつかわれる「ザナドゥ」って、もともとは中国・元にあったクビライ・カンの都「上都(シャンドゥ)」が語源なんですね。初めて知ったのでわりと驚いたり。世の中、まだまだ知らない事だらけでございます。