殺人狂時代



 以前、岡本喜八監督の同名映画を見ましたが、今回見たのはチャップリンの方。
 本当は順番的に『独裁者』を先に見たかったんですけど、なぜか私が利用してるTSUTAYAではいつ行っても借りられてるんですよねぇ。どうなっているんだ。



 年配の婦人を殺しては所持金を奪う「青髭」的生活を送る、チャップリン演じるヴェルドゥ。喜劇はメインというより、どう言い繕っても極悪なこの主人公を「単純に憎んで終わりの悪役」にしないための味付けに使われてるような感じ。そう、これ、単に主人公を「悪だと切って捨てて終わり」にされたら、肝心のテーマが吹っ飛んでしまうわけですから。
 ラストに提示される、ヴェルドゥの殺人と対比される戦争という大量殺人、およびその告発というのは後半になってから大急ぎでその内実を装填される話題で、ちょっと忙しい感じもありました。が、さすがによく考えられてて、よく構成されてて、そのバランス感覚はさすがだなと思った部分はあります。
 これ、ヴェルドゥのやっていた殺人の内実を見誤ると、対比される「戦争」への告発の内実が分かりにくくなるかな、という気はしました。この手の殺人というと、通常そこで得られた金というのは自分の欲望のためとされてしまいがちだったりしますが、劇中のヴェルドゥは、本人も言ってるように、失業してから後の生計を立てる手段として、そして株などの資金運用のため……つまるところ、「事業」として行われていたわけです。彼は30年以上真面目に働いていたけど、仕事をクビになって、かわりの「事業」が必要だったわけでした。
 ということは、ヴェルドゥが最後に告発してるのも、戦争の「事業」としての側面だったという事になるわけでした。ここを、「欲望」だと見てしまうと、多分その告発は数段弱くなるだろうな、と思った次第でした。


 とはいえ、そうしたメッセージ性もさることながら、私がこの作品で一番印象に残ったのは、中盤にあった、とあるシーンでして。
 証拠の残らない殺害方法を試すために、刑務所から出たばかりの女性を誘い込んで食事を供するわけですが、会話が進むうちに、ふとそれを自ら思いとどまってしまう、という例のシーン。
 多分、ここ数か月で一番感動したシーンでした。思わずその場で二回、繰り返して見た。
 もちろん、上述の通り、ヴェルドゥは弁護の余地のない最悪の殺人鬼で、だからここで相手を見逃したからってそれが美談になるわけではないんだけど。しかしだからこそ、この時のヴェルドゥが何の合理的理由も無く、何の得るものも無いはずなのに殺害を思いとどまったっていうのは、だからこそ混じりっ気無しに「何かが通じた」という事でもあって。おそらくヴェルドゥ自身も、何が通じて何を思いなおしたのかはっきりと言語化は出来ないんじゃないかと思うのですけれど、そんな一瞬を提示できるのが、「物語」のすばらしさなんで。とにかくもう、このシーン一つで、私はこの映画大満足だったのでした。若干メッセージ先行だった後半の展開よりも。


 そんな感じで。「映画見たなー」って満足感がいっぱいでした。やっぱチャップリン凄いなー。