ファウスト(上・下)


ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)

ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)

ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)

ファウスト〈第二部〉 (岩波文庫)


 以前も書いたように、中学高校時代から「いつか読もう」と思い続けていた作品が、ダンテ『神曲』、ミルトン『失楽園』と、このゲーテファウスト』でした。ずいぶん長くかかってしまいましたが、ついについに、10年来の「いつか読もう」を克服してやったぞイエーイ、って感じであります(笑)。


 というわけで満を持して『ファウスト』です。
 冒頭部分を読んで、当然最初に思い出すのは旧約聖書の『ヨブ記』。本書の結末も、したがってヨブ記へのアンサーあるいは解釈として受け取りました。特にラスト、天使たちに対してメフィストフェレスがついた悪態が、非常に腑に落ちて膝を叩いたというか。「なるほど、それで神様はメフィストみたいな悪魔が跋扈するのを放置しているのか」と深く納得したというか……。しかしそう読むと、すごいぶっちゃけだなとある意味感嘆しますけれども。なるほど、そりゃ西洋キリスト教文化圏は「罪の文化」と総称されるわけだなぁ、とか。


 やはり、物語のまとまりとしては第一部が図抜けていて、なるほどよく話を聞くのは第一部、グレートヒェン周りの話だったのも納得だなと思ったりした次第。
 一方、第二部、特に舞台がギリシャに移ってからの展開は主筋が見えにくく、登場キャラクターも混線し、全体的に拡散していて分かりにくい感じで。
 けれど……恐らく、その拡散ぶりこそを読むべきなのかな、と何となく思いながら進めていました。門外漢の想像ですけど、おそらく、キリスト教は「善悪」「罪と赦し」「神と自分」といったシンプルな問題に関する高度に抽象的なテーマ操作には卓越していて、だからファウストメフィストフェレスとグレートヒェンとの物語は自家薬籠中の物だったのでしょうけど、一方で一方でそれ以外の広汎なテーマに接続する回路はあまり通っていないのかな、と。ダンテ『神曲』もキリスト教の世界観の話でありながら、あれだけギリシャローマ神話を随所に配置しなければならなかったのは、やはり個々の被造物や多様な抽象概念を扱うのにはキリスト教以前の世界観を借りて来た方が都合が良いのかなと、そんな風に見えるわけです。
 『ファウスト』第二部も混沌としているけれど、その混沌こそが、ゲーテがわざわざ話をギリシャに移してまで接続したかったところなのかな、と思ったわけでした。その中間をつなぐ媒介として錬金術があった、と。
(そういえば、こんなにガッツリと、後半の重要モチーフの一つとしてホムンクルスが出て来るとは思ってなかったので、その点も楽しかったり。なんかやたらホムンクルスって用語やイメージが有名だけど何だろうと思ってたら、イメージソースの一つがこんなところにあったんですな)


 まぁでも、2年以上かかってしまいましたが、ギリシャ神話やホメロス旧約聖書新約聖書を押さえた上で本書にトライして本当に良かった。でなければかなり色々と読み落としていたことでしょう。
 この作品については他にも、千夜千冊で紹介されていた錬金術と兌換紙幣の問題なんかも興味があって、その辺でいずれ立ち戻ってみたいなと思ったりもしています。『東方見聞録』の中でマルコ・ポーロも、中国皇帝の紙幣発行を錬金術にたとえているんですよねぇ。
 そんな感じ。
 さて、私の興味関心に近いという意味でいけば、『ファウスト』まで読めばそこで切り上げても良いところなのですけれども……現在やっているのは基本文献総当たりの絨毯爆撃なので。おそらくこの機会を逃せば二度と読まないだろう、『ヴィルヘルム・マイスター』まで手を伸ばしてみることにします。
 そちらの感想は、また次回。