シャーロック・ホームズ最後の挨拶

 

 

 最後の挨拶(最後とは言っていない

 例によってネタバレ注意。

 

 この辺りから、少し読み味が変わって来たような印象を受けました。特に「悪魔の足」辺りが顕著なんですけど、謎解きの論理性そのものよりも、外部からやってきた異質な要素の鑑定、というような、ホームズの役割がすこし変わってきているようなイメージ。まぁこの感触については『事件簿』の方の感想でより詳細に書きたいと思います。

 

 あと、なにげに国際謀略ネタも多いんですよね、ホームズのシリーズ。今でこそミステリの系譜で振り返られる作品ですけど、なにげに国際謀略サスペンスとか伝奇ロマンとか、いろんな分野の面白さを貪欲に取り込んだバラエティ豊かなシリーズですよな。そこを楽しんで読めたので良かったと思う。学生の頃は「ミステリ」としか認識してなかったから、あの頃に読んでたらミステリ要素しか拾えなくて「物足りない」という感想になってたかもしれない。

 

 あと「瀕死の探偵」は以前どこかで読んだ記憶がありネタは知っていたわけですが。しかし知らなくてもこれ、短編集の冒頭で「ホームズが余生を農場で優雅に過ごしている」的に語られているのでこの瀕死が狂言であることバレバレだし、もうちょっと何とかならんかったんか? みたいに思わないでもない……(笑)。まぁでも、そういうシリーズ構成のゆるゆるなところも含めて楽しいわけですけどね。

 さて、そんなわけでホームズも残り一冊、というところまでいったわけですが。

恐怖の谷

 

 

 引き続きシャーロック・ホームズ

 なおネタバレ注意ですよ。

 

 

 

 ホームズの事件解決の前半から事件関係者の過去が後半をまるっと占めるパターン再び。ホームズの推理が読みたいというだけのモチベーションだと若干テンション下がりますが、しかし後半の方も色々仕掛けや構想が面白くて、良質の中編エンタメをもう一本読んだような感じでこれはこれで楽しい。後半パートの最後もやはり「やられた!」ってなりましたしな。

 あと、謎のバイオレンス秘密結社みたいな要素自体大好きなので、後半パートの秘密結社の描かれ方とか妄想を刺激されてすごいワクワクしながら読みました。うーん、やっぱロマンだな秘密結社。

 

 そして、モリアーティ教授。

 本編にはモリアーティ教授は直接登場しないわけですけれど、それにもかかわらず、最後の最後でこの人物の存在感がぐっと強調される構成になってて、これもうなりました。

 後半の主人公、ジャック・マクマード(実は探偵バーディ・エドワーズ)がその勇猛果敢にして慎重な行動力を見せつけたからこそ、その彼をあっさり暗殺できてしまうモリアーティ一味の不気味さと実力が際立つわけで、本編で登場した人物たちの行動力や知恵のすべてを最後に上回って行くわけですね。そういう構成が上手く決まっていて、これもまた「やられた」となったことでした。

 

 それにしても、ホームズものの読み味って、後々のミステリ小説の傾向から考えるとちょっと変わったところがあって、個人的にはそこが面白いという面が多分にあります。

 後で改めて感想を書きますが、先日読み終えた高山宏『殺す・集める・読む』で指摘されたように19世紀末から20世紀はじめの初期のミステリ興隆期がちょうどフロイトの影響を受けるくらいの時期だったそうで。そのためミステリの傾向自体にわりと、犯人の動機や精神状態にフォーカスした展開がわりと多いような気がしているわけですけど。しかしホームズものを読むと、個人としての犯人の動機に迫っていくような話と同じくらいの頻度で、謎の秘密結社が組織として邪魔なヤツを消していく、それを探偵が見極めて追及していくみたいな展開が出てくるわけですよね。ホームズにはあった、こういう探偵vs組織の暴力みたいな構図はその後のミステリ作品にはあまり継承されていかなかった部分が強いと思うのですが、しかし私がホームズシリーズ読んでてワクワクしたのは実はそういう部分だったりして。もし、そっちの方にその後のミステリの潮流が向かってたら、どういう景色が見られたのかななどと想像するのが楽しかったりしたのでした。

 今からでもそういうの増えないかな、とか思ったりもするわけですけど。

悲しき熱帯

 

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 

 

 

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

 

 

 ついにレヴィ=ストロースに着手。これももっと早く読んでおくべきだった本。

 

 噂には聞いていましたが、たしかになかなか独特の読み味の本でした。著者が南米を旅した見聞と訪れた現地民の観察、そしてその考察という内容なのですが、とにかく話があちこちに飛ぶ。急に著者がインドを訪れた時の体験の話になったり、フランスの大学にいたころのエピソードになったりする。

 話があちこちに飛んでいるのに、しかし話の本筋から外れたとか、脇道に逸れた感じが全然ないという奇妙な展開になっていて。

 ひとつには語りのトーンが一定なのが理由の一つなように感じたわけですが。タイトルの「悲しき」の部分にあたる言語は、より正確なニュアンスとしては「憂鬱な」とか「うんざりする」に近いそうで、実際この本の語り全体にそういう、なんともいえない憂鬱が常に漂っている感じ。しかもそれが単に旅が大変だからとかそういう事ではなく、これほどの苦労をしつつ学術的目的で旅をしているのに、どこか本質をとらえきれない隔靴掻痒な状況が宿命的に旅人に――それも一応”先進国”の看板を提げているヨーロッパからの旅人に――課されている、ということへの憂鬱だったりするわけで。

 そして同時に、南米の現地民だろうとフランスの市民だろうと、人間である以上、その行動や思考の本質部分については変わるところがないという視線があって、だから話があちこち飛んだとしても一貫性が崩れることが無いという側面もあるのかなと感じたのでした。実際、著者レヴィ=ストロースが本書で最初に人類学者としての観察の目を向けるのは、南米行きの船に長期間詰め込まれ続けて来たヨーロッパの人びとの行動だったりするわけですし。

 

 そして、いわゆる文化人類学批判としてこれまで小耳に挟んだような論点が、本書の時点でけっこう出てきている印象があってそれもびっくりしました。その辺の議論の歴史もあまり頭に入ってないのでもしかしたら私が混乱してるだけかも知れないけれど。

 

 あまりにも多様な側面を持っていて、旅行記として読むか文明批評として読むか学術書として読むか、なんだかつかみどころがないような印象もありましたが、その辺も含めて豊穣な本だったという感じでありました。はてさて。