機動戦士ガンダムAGE 第44話「別れゆく道」

     ▼あらすじ


 ついに地球圏に到達したセカンドムーン。ゼハートはイゼルカントに、プロジェクトエデンの真意を厳しく問いただす。しかしイゼルカントの余命が長くない事を知らされ、「狂気と承知で、私に付き合ってくれ」と言われたゼハートは、その意向に従いヴェイガンの全権を担う事を承諾する。
 一方、ヴェイガンの捕虜の処遇から口論になるフリットとアセム、そしてキオ。フリットは家族を殺された過去から、ヴェイガンの打倒こそが救世主への道だという信念を曲げない。一方ヴェイガンと分かり合える道を探るキオは、フリットの信念が理解できず苦悩する。
 連邦とヴェイガン双方の戦力がラ・グラミスへ向かう中、ゼハートはガンダムレギルスの試運転を行い、そこでEXA-DBを守護する異形のMS、シドと遭遇するのだった。





      ▼見どころ


 連邦とヴェイガン、双方で組織体制が変わり、そして互いの意思疎通の齟齬を巡って重要な会話が次々行われる第44話。ゼハート、イゼルカント、フリット、アセム、キオとそれぞれの信念が錯綜し、しかも会話量も多いため非常に複雑で読み解きにくい回になっていると思えます。
 難しい回ですが、少しずつ筆者なりに解きほぐしてみたいと思います。まずは、ヴェイガン側から。


      ▽イゼルカントからゼハートへ


 セカンドムーンに合流したゼハートは、イゼルカントにプロジェクト・エデンの真意を問いただします。
 実はこれに先立って、ゼハートが自室にて



 キオとイゼルカントのやり取りを音声レコーダーのようなものから聞いているシーンがあり。
 この音声データをゼハートがいつ入手したのかについては作中に言及がありませんが、場合によったらルナベース攻略戦以前から持っていた可能性もあり。だとすれば、ルナベースでアセムに「お前の戯言を聞くつもりはない」と返していたゼハートは、その時点で既にイゼルカントの真意を知っていた可能性もあります。
 ゼハートはロストロウラン攻略戦でも、仕掛けた爆弾の爆破のタイミングについて疑問を感じた部下に対してはその場をごまかしつつ、後にイゼルカント本人には同じ疑問をぶつけています。
 無論、ゼハートの立場で無暗に不信をあおるような事は言えません。部下は安心させつつ上司にはこっそり真意を確認するゼハートは、非常に中間管理職的です(笑)。それも、極めて日本的な。
 どうもこの辺り、ヴェイガンという組織には「日本的な」と形容したくなる要素があちこちに散見されます。たとえばこの回に登場する宇宙要塞ラ・グラミスの司令オクラムドは



 こんな外見で。
 このセンセーショナルなヘアスタイルですが、おそらくは歌舞伎の連獅子がモデルでしょう
 そういう目で見てみると、ザナルド・ベイハートの外見なども、日本の鎧武者のイメージが重ねられている事に気づくはずです。
 第37話の解説で、ヴェイガン内の貧困の描写が中東や中央アジアのイメージである事を書きましたが、一方で軍組織としてのヴェイガンのそこかしこには奇妙に日本っぽい道具立てが使用されてもいるのでした。そういう目で見てくると、



 アセム編冒頭の謎の温泉シーンも、その一貫だったのかも知れません(笑)。
 ここでことさら「日本っぽさ」を強調しているのは、ヴェイガンの組織の長所と短所もまた、極めて日本的であると見えるからでした。第41話の解説で指摘した、個人の人間力に強く依存した組織運営というのは、特に日本の企業などによく見られる傾向だからです。
 そして、そんな日本的中間管理職ゼハートを、イゼルカントはヴェイガンのトップに任命してしまうのですが……。


 この回、イゼルカントが述べている事は、基本的には第39話「新世界の扉」でキオに語った事と同じです。
 とはいえ、ゼハートからはこうしたイゼルカントの思惑についてかなり強い語調による反論がなされ、合わせてイゼルカントの言い分は奇妙に曖昧になっていきます。



「あなたは神にでもなったおつもりかっ!?」
「理解できぬかゼハート?」
「人類の選別など、理解できるはずがない……!」



「人を高い次元に導き、より良き世界を造るために誰かが選択をせねばならん……! その選択をわたしは行ってきたのだ」
「あなたの言うより良き世界とは、あなたという支配者に都合よくつくられた独裁国家にすぎない。地球の歴史に新しい支配者が誕生するだけだ!」
「違う!わたしが作りたいのは独裁国家などではない! 人の未来だ……!」


 端的に言って、この後に展開されるイゼルカントの論法はメチャクチャです。たとえば、



「人は、母なる大地から離れ、歴史を重ねていくうちに、何かを奪い合い、殺し合うことを平気で行える怪物に変貌してしまった」
「長い歴史の中で、人類は人であることを忘れかけている。わたしは、新たなる人類をつくらねば、真の理想郷は実現しないと悟ったのだ!」
 素朴に読むならば、本来の人間は「奪い合い殺しあうこと」が平気で行える存在ではなかった、けれど人が宇宙に出てから変わってしまった、という認識をイゼルカントがしている事になります。にも関わらず、イゼルカントは「人であることを忘れかけている」人類を元に戻すのではなく、「新たなる人類」に進化させなければ未来はない、という言い方をしています。一体イゼルカントは人類を過去の状態に戻したいのか、それとも過去の人類とは違うもっと高度な存在にしたいのか、曖昧です。
 もちろん、イゼルカントのやり方によって、争いをしない進化した人類が生まれる、理想郷が作れるという論証も保証もどこにもありません。


 とはいえ、イゼルカントがゼハートの言う「支配者」になるつもりが無い事もまた確かです。それは直後にイゼルカントが吐血する事によって示されます。



「驚くことはない……皆と同じマーズレイによる病だよ。コールドスリープを繰り返し、時間を稼いできたが、そろそろ限界のようだ」


 余命少ないイゼルカントには、たとえ新世界を作り出すことが出来たとしても、そこに支配者として君臨する事は難しい様子です。
 その上で、イゼルカントはゼハートにヴェイガンの全権を委譲する、と言います。



「ゼハートよ、プロジェクトエデンの全権をお前に託す。お前がヴェイガンの全てを率いるのだ」
「えっ……!?」
「ゼハート、もしわたしが狂気だと言うならそれでもいい。その全てをわかったうえで付き合ってはくれぬか? わたしの狂気に」
「イゼルカント様……わたしに新たなる人類を創造する神になれと?」
「神ではない! お前は……人の未来を照らす光になるのだ……」
「光に……?」


 この直後。なんとゼハートは、イゼルカントの後任を引き受けてしまいます。



「イゼルカント様の御意志、このゼハート・ガレットが引き継ぎます!」


 さて。イゼルカントは一体ゼハートに何を託し、ゼハートは一体何を了解したのでしょうか。


 ……と問うてはみたものの、はっきり言ってイゼルカントの言葉には、もはやほとんど何の具体性も示されていません。戦争によって極限状態を作り出し、それで人間は進化するからと言われて、それでヴェイガンを丸ごと託されても、ゼハートは一体何をすれば良いのか。戦争に勝てば良いのか、それとも互いが絶滅する勢いで徹底抗戦でもすればよいのか、進化した人類とやらをどう見つけ見分けて仕分けるのか。さっぱり分かりません。
 イゼルカントがゼハートに示したのは、「人の未来を照らす光になれ」という抽象的なメッセージだけです。


 しかし、この「具体性を持たない、けれどすごく意味のありそうなメッセージ」もまた、間違いなく現代日本の、そして近年のガンダム作品の特徴でもあります。たとえば



「勝利だけが望みか!」
「他に何がある!」
「決まっている……! 未来へとつながる、明日だ!」


 こういうやりとりが、近年のガンダム作品には頻発します。
 もちろんこのやり取りも、ただ自身の因縁と、闘争への自負、戦いの勝敗にだけ拘泥しているミスター・ブシドーに対して、もっと広い視野で、未来に資する行動をすべきだという刹那の説得の言葉になってはいます。
 しかし、「未来」「明日」といった、たいていの人にとってポジティブな意味の言葉を使う一方、セリフの内容からは具体性が抜け落ちていきます。具体的にどのような「明日」なのか、それは勝利を追い求めるだけなのと何が違うのか?


 そして、こうした「具体性のないフレーズ」を(恐らくは)極めて戦略的に使っているキャラクターが、『ガンダムSEED』のラクス・クラインです。
 ためしに、彼女の最終局面での呼びかけを、『Zガンダムクワトロ・バジーナダカール演説と比較してみましょう。
 一部を引用します。


人が宇宙(そら)に出たのは、地球が人間の重みで沈むのを避ける為だ。
そして、宇宙に出た人類は、その生活圏を拡大したことによって、
人類そのものの力を身に付けたと誤解をして、ザビ家のような勢力をのさばらせてしまった歴史を持つ。
それは不幸だ。もうその歴史を繰り返してはならない。

宇宙に出ることによって、人間はその能力を広げることが出来ると、何故信じられないのか?
我々は地球を人の手で汚すなと言っている。
ティターンズは地球に魂を引かれた人々の集まりで、地球を食いつぶそうとしているのだ。
人は長い間、この地球と言う揺り籠の中で戯れてきた。
しかし! 時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ。
その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ。
地球を自然の揺り籠の中に戻し、人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星では無くなるのだ。
このダカールさえ砂漠に飲み込まれようとしている。それほどに地球は疲れきっている。
今、誰もがこの美しい地球を残したいと考えている。
ならば自分の欲求を果たす為だけに、地球に寄生虫のようにへばりついていて、良い訳がない!


 続いて、ラクス・クライン


わたくしたち人はおそらくは戦わなくても良かったはずの存在……
なのに戦ってしまった者達。
何の為に?
守る為に?
何を?
自らの未来を?
誰かを撃たねば守れぬ未来、自分、それは何?
それは何故?そして撃たれたモノにはない未来……では撃った者たちは?
その手につかんだその果ての未来は……幸福?
本当に?

……ザフトはただちにジェネシスを停止しなさい!
核を撃たれ、その痛みと悲しみを知る私たちが、 それでも同じ事をしようとするのですか?
撃てば癒されるのですか!?

同じように罪無き人々や子供を。これが正義と!?
互いに放つ砲火が何を生んでいくのか、まだ解らないのですか!
まだ犠牲が欲しいのですか!


 比較してみると分かりやすいと思うのですが、クワトロの演説では「自分たちは何を主張している団体で」「ティターンズは何が問題で」「将来的にどのようにしていくべきなのか」というそれぞれについて、極めて具体的に語っています。
 一方のラクス・クラインの演説は、(戦闘中の呼びかけゆえ、厳密な比較はできませんが)特に序盤の立て続けの疑問形な文章を見ると分かるように、前後関係や目的、背景、問題点、未来のビジョンなどを具体的に示す内容ではありません。聞く者の罪悪感や良心に訴えかける体のものです。その結果としてクワトロ演説よりもより情緒的に、言葉も「未来」「幸福」「正義」などの抽象的な単語が集中しています。


 近年の社会学者や批評家は、社会一般へ向けて語られる言葉から具体性が削がれ、「なんとなくポジティブな言葉」が語られる状況を「ポエム化」と呼んでいるようです。NHKの「クローズアップ現代」でも特集されました
 広告のコピー、企業や自治体のスローガンだけではありません。政治の現場でも同様のことが起こっています。これについては、保守もリベラルも変わりありません。「国民の生活が第一」も「美しい国日本」および「日本を取り戻す」も、ついでにいえば「Yes, we can」も同じようなもので、小さな政府を目指すのか大きな政府を目指すのかといった大雑把な方向性すら含まない、抽象的でなんとなくポジティブなフレーズに終始しています。
 ゼロ年代ガンダムにおいて、主人公たちが何のために戦うのかと問われた時に、こうした「ポエム化」した目的を語る/語らざるを得ないというのは、現代のこうした空気を的確にすくいあげた結果です。そしてイゼルカントがゼハートに託した言葉もまた、見事に「ポエム化」しているのでした。


 このように書くと単なる政治家批判のようでもあり、またラクス・クラインなど近年のガンダムキャラ批判に聞こえるやも知れませんが、事はそんなに簡単ではありません。昨今の政治家の掲げるスローガンが「ポエム化」しているのは、むしろ日本国民の関心の向き方に合理的に適応しているからと見た方が正確だからです。
 小泉純一郎が総理大臣だったころ、その支持率は85%という驚異的な数字を叩き出していましたが、「聖域なき構造改革」「改革なくして成長なし」といったキャッチフレーズが繰り返し報道される一方、具体的に押し進められた郵政民営化について、「郵政事業を民営化するってどういうことか」「民営化すると何が起こるのか」について自分の言葉で説明できるほどに理解していた国民は、支持していた中でも恐らく半分も居なかった事でしょう。報道も閣僚間の会話のやり取りや、野党の動き・戦略などについてさかんに報道する一方、個別の法案や、問題になっている事案の解説などははるかに少ないものでした。
(大体、鳩山首相の時のように、同じ政権の支持率が70%から20%までいきなり乱降下するような国は、世界でも極めて珍しい)


 国民が個別の政策・法案に感心を持たず、ただ政治家のイメージや好感度ばかりに目を向けているならば、当然そうした国民に向ける言葉もそこをコントロールするものになっていきます。そうなら、政策・法案について煩雑な事を話すより、ただ聞く者の好感度をあげる「ポエム化」した言葉を発信していた方が、はるかにローリスク・ハイリターンです。


 要するに。現代日本でもしクワトロ・バジーナラクス・クラインが選挙で戦ったとしたら、恐らくラクスの方が勝ってしまう。国民が政策の話に関心を示さず、好感度だけで政治家を選ぶというのは、つまりそういう事です。
 コズミック・イラ世界の一般民衆は、『SEED Destiny』でミーア・キャンベルの歌ひとつで世論誘導されるくらいにイメージ・好感度偏重な様子が描かれており(笑)、そのような世界で演説するなら、ラクス・クラインの言葉は極めて効果的に選択されている、ように見えます。
 いずれにせよ問題なのは、「ポエム化」された言葉には具体的なビジョンが伴わない、という事です。



 イゼルカントは、プロジェクトエデンを今後どのようにすれば成功させられるかという青写真、ロードマップをまったくゼハートに示せていません。これまで連邦・ヴェイガン双方の人々に危機的状況を体験させて人の選別をしようとしてきた、とは語っていますが、では今後どのように双方の陣営で選別された人たちを一つに導くのか、などといったビジョンはついぞセリフの中に現れません。
 結果として、その辺りはすべてゼハートに丸投げされた形になります。


 どう考えても不合理なのですが、しかし大恩あるイゼルカントが、「最後の望み」とまで言うこの事業を、ゼハートは断る事ができません。相手と二人きりでの説得、目の前で吐血した恩人の最後の願い、という断りにくい空気の中で、理不尽な頼みごとを引き受けてしまうあたりが、これもまた大変日本人っぽいような気がします(笑)。


 実際、ゼハートはイゼルカントの思想を、かなり曲解して引き継いだらしい事がこの回の最後に見えます。EXA-DBの守護者、シドに遭遇したゼハートは、



「EXA-DBによって生み出されたのなら、ヤツは人類の過ちの象徴。神が与えたわたしへの試練だ!」
「わたしはヤツを倒し、イゼルカント様の意志を継ぐ!」


 ……と言っています。
 しかしEXA-DBが「人類の過ちの象徴」だとして、EXA-DBの技術を利用しているヴェイガンMS(ゼハートが正にこの瞬間乗っているガンダムレギルスも含む)もまた、その言葉に従うなら「人類の過ち」の系譜に属しています。
 イゼルカントは、極限状況を作り出すため、EXA-DBの技術で意図的に戦争を始めたわけで、そういう意味でEXA-DBそのものを問題視しているわけではありません。
 たとえで言えば、イゼルカントのやり方は「毒をもって毒を制す」ような発想なのですが、ゼハートはここで毒そのものを否定する方向でシドと戦おうとしているわけです。


 イゼルカントの言葉自体が、具体性のない曖昧なものだったのですから、ゼハートがその真意を(自分が理解できる形に)曲解したのは無理もない事です。
 しかしその結果、「プロジェクトエデン」は内実を伴わないまま、けれど事態を否応なく進めていくという形でどんどん暴走していく事になります。どこを目指しているのかも分からないまま、ただいたずらにゼハートの焦燥感だけを煽っていく、そんな呪いのような言葉として劇中で存在感を放ち続けるのです。


 というわけで、ヴェイガン側ではスムーズな、しかし危うい世代交代が描かれていました。
 そしてもう一方の連邦側では、逆の現象が起こったりもしています。今度はフリット・アスノについて、見ていきます。



      ▽フリットファーストガンダム世代の失敗


 連邦側にも、大きな組織体制の変更がありました。



「今回の全艦隊の指揮は、フリット・アスノ元総司令に執ってもらう」
「司令は予備役から既に現役復帰されている。手続き上は問題ない」


 手続き上で問題がなければ良いというものでもないような気がしますが(笑)。そんなわけで、ラ・グラミス攻略戦の艦隊指揮はフリット・アスノに移譲されたのでした。
 さすがにどうなのよ、と思っているのは視聴者だけではないらしく、このように伝達された連邦軍の将校さんたちも、



 明らかに不満そうな顔です。


 ここにきて、ヴェイガンと連邦の組織構造がますます対照的になってきている事に注意しましょう。ヴェイガンではイゼルカントからゼハートへと指揮権が移った事で、いわば世代交代が促された形になっています。ところが連邦側では、逆に年長者のフリットに指揮権が再度戻っていくのでした。一見、世代交代を行っているヴェイガンの方が組織運営として健全なように見えますが……これも、後々の展開に関わってきます。


 さて。そんなフリットですが、この後自身の息子、および孫から詰問される事になります。
 きっかけになったのは、この発言でした。



「移送だと……!? ヴェイガンの捕虜など全員処刑すればよいのだ!」
 これはもちろん、ヴェイガンを「人間」であると認められないフリットの内面がストレートに出たセリフ、ではあるのですが。
 一応注釈しておきますと。現代の戦時国際法上では、捕虜としての待遇を得られる資格は「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」という事であり、たとえばテロリストなどは交戦者とは認められないため、捕虜としての扱いを受ける資格がないものと見なされます。
 AGEの世界の国際法や条約がどのようになっているか分かりませんが、仮に現代の国際法で考えたとして、連邦政府がヴェイガンを「国家」と認めていない場合、ヴェイガンの兵士たちは捕虜としての待遇を得る資格を持たない事になるわけです。
 ……まぁ、アセム編で連邦側からヴェイガンへ和平交渉が行われた旨の発言もありますので、何とも言えませんが(和平交渉は相手が国家でなくても使う言葉かしら? その辺は筆者はあまり詳しくないので、誰か別な方の考察に譲ります)。
 むしろ、このフリットの発言に



「司令……お気持ちはわかりますがそういうわけにはいきません。正規の手続きに従って尋問後、移送いたします」
 とアルグレアスが答えているところを見ると、現状連邦政府は、やはりヴェイガンの兵を「捕虜の扱いを受ける資格がある」と見なしているのかも知れません。
 ただいずれにせよ、アンバット戦の時点でのヴェイガン(UE)が国家として認められていたはずはなく、フリットはまだその頃の事を引きずっている面はあるのでしょう。


 この発言を契機に、フリットとアセム、そしてキオが加わって、三世代が意見を述べ合う事になります。



「もうやめようよじいちゃん、ここで戦争を終わらせるんだよ。じいちゃんだって父さんだって、ずっと戦ってきた。何のために戦ってきたの? 戦わなくてもいい方法を見つけるんだよ! 道はあるはずだよ……! 絶対にあるはずなんだ!」
「ヤツらは家族を殺した。わたしから大切なものを奪った……! ヤツらにどんな事情があろうとわたしにとっては悪だ! 戦わねば、同じように悲しむ人々を生む!」



「じいちゃんは憎しみに駆られているだけじゃないか! そんなの救世主じゃない!」
「何だと!?」



「父さん、キオの言ったこと、よく考えてくれ。俺だって、戦いから逃れようのない状態だということは理解している。しかしキオは、キオの言葉は、誰もが願いながら口にすることができなかった言葉だ」
「……」
「あなたの決断には地球の、人類の運命がかかっている」


 この会話の少し前、アセムに対しては「海賊のお前に正義を説く資格などない!」と強気に言い放っていたフリットが、キオに詰め寄られた途端、弱気に本音を吐露し始める辺りは相変わらずで、つくづくこの老人は孫には勝てないようです(笑)。
 ともあれ、このように息子や孫から色々と言われたフリットは、改めて思い悩むような顔を見せます。
 そして三世代編全体でもことさらに印象的な、このシーンにつながります。



「わたしは誓ったのだ。敵を打ち倒し、皆を救う救世主になると……どんな手段を使っても……!」
 少年の頃のフリットが映し出されるこのシーンは、フリットの内面が未だに少年の頃の思いや心のまま、その頃の純粋さを保ち続けている事と――そうであるが故の限界とを、同時に示しています。
 それはそのまま、初代ガンダム世代が迷い込んだ袋小路の縮図でもあります。


 ヴェイガンがまだ「UE」だった頃、それは「MSなんかじゃない」「モンスターなんだ!」(第一話)というフリットの言葉通り、顔の見えないエイリアンでした。そうであればこそ、UEを撃破したところで、誰もそれを非難したり、倫理的な疑問を持ったりする者はいませんでした。そうした時代に戦いを経験したフリットにとって、ヴェイガンと「分かり合える」と主張するキオの発言は、理解できません。ヴェイガンを殲滅するという行為に倫理的な問題が提示されるという事も、ピンと来ていません。
 それは現実でも同じです。第二次大戦から東西冷戦にかけて、「こいつを倒せば無条件にハッピーエンド」といった敵はいくらでもいました。『007』は東側諸国のスパイたちを容赦なく殺していましたし、インディ・ジョーンズもネオ・ナチの連中を爽快に殺害して、特に問題はありませんでした。そのような時代の常識を身に着けた世代にとって、敵国であろうと神経質なまでに攻撃対象を絞らねばならず、爆弾一発誤爆しただけで諸外国やメディアや一般市民から猛烈な非難が浴びせられる現代の戦争は、やはりどこかピンと来ない、というケースも多いのではないかと思います。



 初代ガンダムの、作品全体としてのカラーは「君は生き延びる事ができるか」、とにかく巻き込まれてしまった戦争の中でサバイバルする事であるように見えますが、物語の最終盤に至って、アムロ・レイは「自分自身が生き延びる」以上の目的を口にしています。



「シャアだってわかっているはずだ。本当の倒すべき相手がザビ家だということを。それを邪魔するなど」
「今の僕になら本当の敵を倒せるかもしれないはずだ」


 アムロアムロなりに、目の前の戦争を終わらせるためにはどうすべきかを考え、実行しようとしていたのでした。
 そう、かつて少年時代のフリット・アスノが、



 ザラムとエウバの戦いを必死に仲裁しようとしていたように。
 AGE全体を通して、フリット・アスノという人物は聡明です。ザラムとエウバの戦いを見て、即座にその本質を見抜き、説得できるだけの目と行動力を持っていました。何より、UEという共通の脅威を前に、目の前の戦いを終わらせる必要があるのだと考える事が出来ていました。
 アムロ・レイも、目の前で展開されている連邦とジオンの戦争に対して、ただ場当たり的に生き延びるだけでなく、この戦争をどうするべきか、という問題まで考えていたのです。


 しかし、初代ガンダムの世界観、すなわち一年戦争という世界(時間軸)からスピンオフした作品群は、「戦争全体に働きかけて」「戦いを終わらせる」という問題意識から、離れるばかりでした。
 巨大ロボットをヒーローメカから工業製品にする事で、より本格的なミリタリー的リアリズムを作品内に感じさせる事に成功した『機動戦士ガンダム』では、結局主人公であるアムロ・レイも一介の兵士であって、戦争全体の元凶(本当の敵)であるデギン・ザビギレン・ザビと価値観を戦わせる事もできず、一年戦争の和平の動きにも直接関わるわけでもなく、かろうじて敵兵であるシャア・アズナブルと決着をつけ、同じホワイトベースのクルーを脱出させる事しか出来ませんでした。
 もちろん、アムロが敵の総大将と言葉を交わしたり、独力で戦争を終わらせたりしなかったからこそ、保たれたリアリズムがありました。それこそがアニメ史に残るエポック・メイキングとしての『機動戦士ガンダム』の特徴でもありました。
 しかし問題は――初代ガンダムの長所をそのようなリアリズムに置くと、『Zガンダム』以降のガンダムシリーズが描こうとした問題意識から、取り残されてしまう、という事でした。他でもない



 Zガンダム』以降、主人公のガンダムパイロットたちは敵の総大将と直に言葉を交わすシーンが必ず入るのです。
 富野監督はとあるインタビュー記事で、次のように言っています。

 体制が例えば戦争やるって言った時に、戦争の是非は、それは言えない。そうすると、つまり『個』というのは、実はどこかで体制に係わってる。それが現実です。一番気の毒なのは、死んでいった奴がいるわけね。実はハナから勝つなんて思ってないのに、『お前ら聖戦だから行け』って言われてさ、死んじゃったのよね。で、死んじゃった奴(人達)に対して、行けって言った奴は、いったい何をやったのかという問題。その意志ルートってのをつなげていく作業は、結局、近代人現代人も含めてなんだけれども、実は、ほとんど出来る回路は持ってない。そういう認識があるんです。(切通理作『ある朝セカイは死んでいた』 太字は筆者による)


 戦争という問題を総体として考えた時に、その戦争の実行を決断し、一介の兵士たちに戦地へ「行けって言った奴」を問うこと。富野監督の関心がそうした部分に向いた結果、リアルな戦場描写としては荒唐無稽であるはずの「少年兵と敵の総大将が会話を交わす」シーンが、『Z』以降のガンダム作品で繰り返し描かれたのです。
 第41話の解説でちらりと書いたように、『Zガンダム』以降、敵組織の親玉が普通にMSに乗って戦場に出てくる、という「リアリズムから言ってあり得ない」状況が頻発するのですが。なぜそのような事が起こったかというのも同じ理由で、戦争を指揮している者と主人公との会話を描き、「行けって言った奴」を問う、という問題意識が80年代以降のガンダム作品に一貫して流れていたからなのでした。


 一方、初代ガンダムの最大の特徴をミリタリー的な「リアリズム」に置き、その部分をこそ最大の価値として認めてしまうと、上記のように戦場のど真ん中に敵軍の指揮官がMSで出てきてしまうような「リアルじゃない」情景は否定されるしかありません。
 そして、リアルな戦場である限り、一介の兵士に過ぎない主人公は、戦争という大状況に独力で影響を与える事はできません。戦争を終わらせる事も、「本当の敵」を問う事すら、出来なくなってしまいます。
 つまり。「リアルな戦争」を描こうとすればするほど、その作品世界の主人公、そしてその主人公に感情移入する視聴者も、「戦争とは何か」「戦争という現実をどう考えるべきなのか」という設問すら、できなくなってしまうのです。


 現に、戦場の指揮官としては考え方が甘い事から、「アマちゃん」と部隊員に呼ばれていた『08MS小隊』の主人公シロー・アマダも、「目の前の犠牲者をいかに減らすか」という思考はできますが、「この戦争全体をやめさせる」といった問題意識には至りようもありません。「リアルな戦争」における一介の兵士にとって、戦争というのは「覆しようがない大前提」でしかないからです。描くことのできるドラマは、「大前提となった戦争状況の中でどう生きるのか」という枠内に限られてしまいます。
 もちろん、我々ももし実際に戦地で一介の兵士となる事があったなら、その時には悠長に戦争論などを語っている場合ではなくなります。しかし幸いにも、我々は平和な国で、悠長にモノを考える事の出来る幸福に浴しています。想像力を「リアルな戦争の一介の兵士」に限ってしまう事は、そうした「総体としての戦争」を考えるというチャンスを、閉ざす行為でもあるのです。
 初代ガンダム、そして一年戦争という時代設定を愛好したガンダムファンたちは、ミリタリー的なリアリズムを楽しむことと引き換えに、ガンダムシリーズが進んでいった問題意識の進展から、取り残されてしまったのでした。それが、ファーストガンダム世代の、そしてフリット・アスノの失敗です。


 実は、この時点で既に、AGEという作品の終着点を示すヒントが示されています。
 アセムが「あなたの決断には地球の、人類の運命がかかっている」と言っているように、実は連邦軍全体を動かす事の出来るフリットの立場は、一介の兵士ではなく、戦争全体をどのように動かすかについて影響を及ぼせる位置です。フリットが占めている立ち位置は、初代ガンダムアムロや、少年期のフリットのように、戦争という大状況にコミットできなかった頃とは全く違っています。
 そう、初代ガンダム世代が今や40〜50代で、社会を実際に動かす事ができる世代となっている事と、パラレルです。
 そうであるにも関わらず、この時点のフリットは、連邦とヴェイガン(UE)との戦争状況を所与のもの、大前提として、少年の頃と変わらない「UEを倒す」という目的に邁進するという意志しか示していません。
 未だにフリットの内面は、「一介の兵士」のままなのです。



 実のところ、初代ガンダムが成功した要因である「戦場のリアリズム」を緩めてまで、こうした「一介の兵士」という想像力から離れて「戦争全体」にアプローチしようとしたのが、続く80〜90年代ガンダムアセム・アスノの世代でした。
 ところが、そのアセムの世代もまた、こちらはこちらで失敗した部分も少なくありません。次回、「破壊者シド」のストーリーを追いながら、今度は80〜90年代ガンダム世代の希望と限界を追ってみたいと思います。


 というわけで、今回はここまで。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第43話「壮絶 トリプルガンダム」

     ▼あらすじ


 ルナベースを攻撃するも、戦線が維持できず苦戦する連邦軍。プラズマダイバーミサイルによって基地ごと破壊せよというフリットの見解の前で、アルグレアスはディーヴァ、そしてアビス隊の行動に賭ける。
 一方、3機のガンダムと激戦を繰り広げるゼハートたちだが、ジラード・スプリガンのXラウンダー能力が暴走し、全員のファンネルを奪って無差別に攻撃をかけ始める。キオの説得も通じず危機に陥る中、ティエルヴァの暴走を止めるべくビームの一撃を加えたのはフリットだった。
 折しもルナベースはセリックの説得工作により降伏、敗北したゼハートたちは撤退していく。その最中、フラムはゼハートの口から聞かされたのだった――セカンドムーンが地球圏に到達したと。




      ▼見どころ


 いよいよ、ルナベースをめぐる戦いが終息する第43話。前回前々回と思わせぶりに書いてきた内容を、ここでまとめていきたいと思います。
 とはいえそれ以外にも見どころ満載の回であり、語る事は多いので、休憩など挟みつつのんびりお読みいただければ幸いです。


 それにしても、この回は本放送中、サブタイトルについての不満がよく聞かれた回でした。確かに、トリプルガンダムとある割に、この回の主題は明らかにジラード・スプリガンの最期を含む別な部分にあり、三世代のガンダム共闘にスポットが当たっているのはほんの1分前後です。
 こういう事態はAGEで何度か散見されました。たとえば第7話のサブタイトルは「進化するガンダム」ですが、この回はガンダムの進化形であるタイタスは顔見せだけで、どのように進化したのかが分かるのは次の回でした。また、第24話のサブタイトルは「Xラウンダー」ですが、この回もアセムとゼハート、ロマリーの立場の違いを巡る意見や行動の食い違いがメインで、Xラウンダーという存在を掘り下げる会話や展開は希薄でした。
 この辺り、サブタイトルの付け方で失敗している印象がどうしてもAGEにはあります。今さら言っても詮無い事ですが、こういうところが上手く出来ていれば、やはりAGEの評価が少しは違ったように思います。


 ……と、とりあえず一つ、前々から思っていた苦言を一つ呈したところで、それではいよいよ解説に入って行きます。まずは、ルナベース戦を巡る指揮官たちの駆け引きから。



      ▽連邦の決断、ヴェイガンの決断


 一見派手な、ガンダム3機とゼハート、フラム、そしてジラード・スプリガンのティエルヴァというXラウンダー入り乱れる戦闘の陰で、この回はルナベースのヴェイガンが降伏するまでの事態の推移が、地味ながら丁寧に描かれてもいます。
 たとえば、アビス隊がルナベースに突入する前後に描かれていた



 この車両。
 何かといえば、おそらく基地制圧のための歩兵や工作隊が乗った車両であると見られます。
 いくら強力なMSで敵の防御MSや砲台を潰しても、基地内部で行動、制圧するための歩兵や工作隊がいなければ「基地を制圧」する事はできません。が、MSが主役であるガンダムシリーズでは、なかなか出番がない人々でもあります。こうした人々の行動が作品内で大写しにされる事例は、思い返そうとすると存外に少なく。とりあえず例をあげるなら、



 ガンダムUCのエコーズが、一番顕著な例でありましょうか。


 当初、AGEビルダーの突飛に見える設定などもあり、ミリタリー的な設定追求は希薄で子供向けの要素が濃いと思われていたAGEですが、存外にこうした描写を頑張っていたりもするのでした(以前にも一度書きましたが、もう一度提示しておきますと、このAGEビルダーにしても、その後のウェブ上の情報で米軍が空母に3Dプリンターを積み込みその場で兵器を作る試みを行っているなんて話もあるそうで、存外まったくの絵空事でもなかったらしく)。
 まぁ、ミリタリーに詳しい人から見れば、そんなAGEも整合性はズタボロなのですけれども。どちらかといえば、ここもミリタリー的なリアリズム描写のため、というよりUCのエコーズのオマージュと見た方がAGEという作品の方向性に近いかも知れません。これがランチとかではなく車両であるのも、ロトのオマージュなのかも。


 気になるのは、この回のアルグレアスの采配です。ディーヴァ所属MSは善戦しているものの、連邦軍はルナベースを攻めあぐねています。「戦線を維持できず」といった報告が次々舞い込む中、アルグレアスが出撃中のフリットに状況を報告すると



「戦線が崩壊した時点でプラズマダイバーミサイルを使用しろ。ルナベースを破壊する」
「よろしいのですか……?」
「わたしは、絶対に負けたくないのだ……!」


 フリットは前回、出撃間際にも「負けたくない」と発言しており、これはこれで非常に面白いのですが(本来、フリットは地球の市民を脅かすヴェイガンを誅するために戦っているわけで、勝ち負けに拘泥するのは当初の目的からは少し変節に見える?)、ここではアルグレアスの反応を見ておきたいと思います。
 最終的な判断をフリットから任されたアルグレアスは、不安げなブリッジクルーに対して、



「心配するな。元司令は常に正しい判断をするお方だ。各艦に通達! 砲撃をルナベース上の防御施設に集中し、降下部隊を最大限に支援せよ! 今はそれしかない」
 と声をあげ、最後に小さく呟きます。



「難しい局面だ……!」


 問題は、何が「難しい」のかです。
 フリットならば、この状況を「難しい」とは考えなかったでしょう。いざとなったらプラズマダイバーミサイルを発射しルナベース基地を放棄する、と決めてしまえば、あとは撤退のタイミングくらいで、あまり難しい事はないように思えます。この後の展開を見ても察せられるように、明らかにアルグレアスは「プラズマダイバーミサイルを撃たないで済む結果」を模索して、そのために「難しい」と感じているのでした。


 そんなアルグレアスは、ディーヴァ艦長のナトーラに別途命令を出していたようで



「何!? プラズマダイバーミサイルを使う!?」
「は、はい……アルグレアス総司令の命令で、20分後に発射すると……ですが、変なんです。一緒に、フォトンブラスターを最小出力で撃てるように準備しておけって」



「そうか……そういうことか」
「総司令は俺たちに言っているのさ、プラズマダイバーを使うまでの20分間で何とかしろってね」


 フリットの指令は、「戦線が崩壊したらプラズマダイバーミサイルを使え」でした。言うまでもなく、これはミサイルの使用を前提とした命令。それに対して、アルグレアスは逆にミサイル発射のタイミングを「戦線が崩壊したら」ではなく「20分後」に設定。同時にフォトンブラスターの発射準備をさせていました。
 事前に、持ち前の洞察力でルナベースの突入口を割り出していたセリックはディーヴァからのフォトンブラスター砲撃を利用して突入、ヴェイガン側の現場指揮官と交渉を行います。



「直ちに戦闘行為を停止し、投降せよ。繰り返す、直ちに戦闘行為を停止し、投降せよ」
「うろたえるな! 我々はまだ負けたわけではないっ!」
「だが、この基地は現在、プラズマダイバーミサイルが狙っている。一瞬で基地の全てを消滅させる威力だ」
「ぬぅ……!」


 アルグレアスの規定した時間が20分、一方セリックがヴェイガンに投降を呼びかけたのが「のこり10分」の時点だったので、基地突入から破壊された予備管制室の端末を復活させて呼びかけるまで、たったの10分。連邦側工作員とセリックたちの優秀さはずば抜けています。
 と同時に。結局このセリックたちの投降勧告が功を奏して、ルナベース制圧に成功した事で、アルグレアスは「フリットの面目を保ちながら、ヴェイガン兵の犠牲を最小限にする」という難しい綱渡りを成功させたのでした。
 基本的に、ヴェイガンが「正体不明の殺戮者UE」であった頃を知らないアルグレアス以下の世代(アセムも含む)では、敵とはいえヴェイガン兵を必要以上に殺戮するのも避けるに越したことはない、というコンセンサスがとれている事が描かれています。ルナベースの攻略が不可能になってしまえばやむを得なかったかも知れませんが、それでも極力プラズマダイバーミサイルを撃たない方向で連邦軍の兵たちが一致している事は確かでした。
 しかし一方で、プラズマダイバーミサイルを持ち出したフリットの面目を潰すような事も、アルグレアスはしません。結果的にプラズマダイバーミサイルは、ヴェイガン側に投降を呼びかける交渉カードとして役立ったからでした。
(それが出来るなら最初からやれ、という指摘も見かけますが、第40話、プラズマダイバーミサイルの搭載を知ったナトーラが「あれは使用が認められていない兵器です」と言っている事から考えて、おそらく人道的その他の理由で本来は使えない代物だったのでしょう。そういう意味で、結果的にセリックの投降勧告は、ファーストガンダムで言えば水爆ミサイルを持ち出して連邦軍の進軍を止めようとしたマ・クベのやり方に近くなっているように思います)
 いずれにせよ、かなり際どい形ではありますが、アルグレアスはどうにかこのルナベース攻略戦を「結果オーライ」くらいに落とし込む事ができたのでした。
 そして最後に、アルグレアスは以下のように呟くのでした。



「これもきっとあなたの想定通りだったのでしょうね、アスノ司令……」


 もちろん、そんなわけはなく、フリットは撃つ気満々だったのですが(笑)。
 はてさて、アルグレアスにとってフリットの発言は、あえて退路を断って部下を背水の陣に追い込む、鼓舞の言葉にでも聞こえていたのかもしれません。どうあれアセム編の頃から変わらず、フリットを最も尊敬し、(恐らくは軍の規律に対して横車を押してまで)フリットの行動をサポートしあるいは判断を仰ぎしていたアルグレアスですら、フリット・アスノの「理解者」ではないという事なのでした。
 恐らくは、グルーデック・エイノアを除いて、劇中の長い年月の中でフリット・アスノに「良き理解者」はずっと存在しないままなのです。


 しかし重要なのは、そのようにお互いの意志や思想を理解していないにも関わらず、アスノ家の人々やその周囲の人々は互いをフォローし、結果的に作戦を成功させ続けているのでした。
 それは、次に見ていく「人は分かり合えるのか」問題に対する、重要な視点でもあるのです。


 というわけで、ついにルナベース編の核心となる問題をまとめていきたいと思います。



      ▽キオとゼロ年代ガンダムの失敗(1)


 41話解説記事の冒頭で書いたように、三世代編に入ってからのAGEのストーリーは、ファーストガンダム世代、80〜90年代ガンダム世代、そしてゼロ年代ガンダム世代、それぞれの思惑と限界、そして失敗をアスノの男たちが再演していくシナリオだ、と述べました。
 このルナベース戦において、まずこの失敗を演じるのが、キオ・アスノです。
 火星圏での体験からヴェイガンも人間であると知ったキオは、敵兵を殺さない戦い方を始め、そしてさらにXラウンダーの力を使って戦いを止めようとし始めた、その経過をここ3回ほどの解説記事で確認して来ました。こうしたキオの主張が、宇宙世紀ガンダムにおけるニュータイプの、意思疎通と相互理解の希望としての側面と強力に合致することも。


 そのようにして必死にジラード・スプリガンを説得しようとするものの、最終的にはキオにとっては残酷な結果に至る事になります。



 Xラウンダー能力の暴走による、敵味方の見境もない攻撃。



 そして、相手に組み付いてまで行った、キオ必死の説得も、拒絶されてしまいます。
 結局キオは何もできないまま、ジラードがフリットに撃墜されるのを見ているだけとなってしまいました。
 一体、なぜキオの説得は失敗したのか。第43話で描かれるその経緯は、宇宙世紀におけるニュータイプの挫折を、端的に浮き彫りにしている――というのが、当解説記事の見解です。順に説明します。


 宇宙世紀におけるニュータイプの挫折、主に『Zガンダム』以降に描かれたその理由。
 一つ目は、主に前回確認した、強化人間の問題です。
 相手の意思を感知できるという能力は、その便利さゆえに軍事利用もされてしまい、結果として強化人間という人為的なニュータイプをも生み出す事になったのでした。そのような強化人間たちが、劇中で悲惨な最期を遂げて行った事は、ここに詳述するまでもないでしょう。
 AGEにおいては、この点は特に強調されていました。Z最終話にてクワトロ・バジーナが「私が手を下さなくとも、ニュータイプへの覚醒で人類は変わる。そのときを待つ」と言っているように、宇宙世紀においてニュータイプへの覚醒は自然に起こるもので、人為的に能力を引き出す強化人間は異端な方法と描かれていましたが、AGEの世界においてはXラウンダーは戦闘能力と捉えられており、ヴェイガンもサイコメット・ミューセルによって、そして連邦もジラード・スプリガンの過去に描かれたような能力増幅装置によって、人為的に能力を引き出す技術が両陣営に描かれています。
 しかも、ミューセルにせよ連邦側の増幅装置にせよ、その技術自体に対する倫理的な批判を劇中で口にする者は事実上いません。アセム編におけるミューセルは「危険なもの」として連邦側に扱われてはいましたが、このような技術を使用するヴェイガンに対する人道的な怒りを表明する人はいませんでしたし。ジラードについても、彼女が表明しているのは恋人の死と、事故の隠蔽に対する憤り・恨みであって、Xラウンダー能力を増幅する技術そのものに対して不信や非難をしているわけではないのです。
 そのような中で、キオの「(Xラウンダー能力を)戦いを止めるために使いたい」という主張は、むしろ異端にならざるを得ません。
 しかしここまでは、まだ序の口でしかありません。



 第二の問題は、いみじくもジラード・スプリガン自身が口にしたことです。



「そろそろ気づきなさい! 分かり合いたくない人間もいるって!」
 この発言こそ、「ニュータイプの挫折」を最も端的に語った一言でした。
 互いに誤解無く意思疎通ができる者同士であったとしても、ならば誰もがそうした意思疎通に応じるのか? 「現実認知の物語」と称される『Zガンダム』の核心の一つは、正にそのことでした。


 宇野常寛氏が「『ゼータガンダム』がどんな話かと尋ねられたならば、極論すればこの47話のことを話せばいい。」と記すZガンダム』第47話「宇宙の渦」。
 そこで、交戦中のカミーユハマーンは、かつてアムロララァが「分かり合」ったのと同じ、ニュータイプ同士の精神感応を起こします。




「同じものを見た」
「ただの記憶が……」
「人は、分かり合えるんだ……」
「分かり合える……そういうことか」
「そうだ……!」


 しかし、この直後。



「気安いな」



「よくもずけずけと人の中に入る、恥を知れ、俗物!!」



「貴様は確かに優れた資質を持っているらしいが、無礼を許すわけにはいかない!」


 まさにファーストガンダムにおいて、希望とされたニュータイプの相互理解、「人は分かり合える」を体現する状態に至ったにも関わらず、ハマーンはこれを拒否するのです。何故か。



 まぁ、人間、誰しも思い出したくない、人に知られたくない過去があるもので(笑)。
 ニュータイプの相互理解の能力は、こうした相手のプライベート、知られたくない領域まで暴き立ててしまう可能性を秘めています。そして人間の精神というのは、早々理性だけで動くものではない。


 ガンダムAGEにおいては、先のセリフの直後、Xラウンダー能力の暴走によりジラード・スプリガンの精神が変調を来たし、



 敵味方問わず、Xラウンダー能力によって操作されるファンネルやビットを乗っ取り自在に操るという展開になります。
 これはもちろん、直接的には、



ガンダムUC』のユニコーンガンダムが見せたサイコミュジャックのオマージュです。
 しかし同時に、相手の内面に過度に踏み込む、ニュータイプ的な能力の負の側面の具現化でもあるのでした。



 結果として、フラムのビットがフラム自身を、あるいはゼハートを。キオのCファンネルがキオ自身やフリットを狙うという、本来ならばあり得ない混乱状態が現出します。
(余談ながら、三世代編でファルシアが再登場した理由は、このシーンを視覚的に分かりやすくするため、というのが真相ではないかと筆者は思っています。本来、工業製品であるなら、部品や武器は共用で同じデザインだった方が説得力も増すのですが、ここでフラム用にギラーガと同じXトランスミッター搭載の新型が出てこないのは、ゼハート、フラム、キオがそれぞれ違うデザインの遠隔攻撃端末を持っている事で「ファンネルが奪われた」「自分や味方を攻撃している」という事を一目で分かるように、という理由でしょう。実際のところ、AGEのメカデザインの多くは、こうしたシナリオの進行の都合が最優先されている場合が多いように思います。というか、そこを最優先にしないとシナリオの尺が足らない、セリフで説明している暇がない、という事だと思いますがw)


 たとえニュータイプの能力によって「分かり合う」窓口が開いていたとしても、様々な理由でそれを拒絶する者もいる。相手を知ることが出来ても、相手の過去とそれによって得た傷や屈折を変える事は容易ではありません。


 さらに、ハマーンに精神感応を拒絶されたカミーユは、カツやファが攻撃され危機に陥るのを見るや、決定的に「分かり合う」事を断念します。



「分かった! お前は、生きていてはいけない人間なんだ!」
 この発言も看過できません。カミーユ・ビダンという人物が第一話から過激な言動を繰り返していたためか、このセリフもカミーユ個人のキャラクター性の表現として読まれてしまいがちですが、実際にはこれも「人は分かり合える」という思想の危険な側面の表れなのです。
 ニュータイプの洞察力によって徹底的に「誤解なく」、心の内面や本音までさらけだして、分かり合おうとして、それでもし「でもやっぱり分かり合えなかった」という結果が出てしまったら?


 ……もう後には「相手を排除する」という選択肢しか、残りません。相手と折り合う余地のない事が、完全に示されてしまった事になるからです。


 この次の回にて、ロザミィを自ら撃墜せざるを得なくなったカミーユは、



ニュータイプも、強化人間も、結局何もできないのさ。そう言ったのはファだろ?」
「でも……」
「できることといったら、人殺しだけみたいだな」


 ……とまで、言うようになります。ニュータイプを希望として受け止めて来たファーストガンダム世代にとっては唖然とさせられるセリフかと思いますが、決してデタラメなセリフではないのです。


 AGEにおいても、Xラウンダー能力を暴走させたジラード・スプリガンに対して、キオはなお説得を続けます。しかし……



「やめてあげてもいいわよ」
「……?」
「その代わり、あの人を、わたしに返して……!」


 これも、ニュータイプの「人は分かり合える」に対する致命的な一言です。
 仮に人が理解し合えたとしても、それだけで万事解決とはいかない、という事なのでした。先にリンクした宇野常寛氏の記事にもある通り、「分かっていてもどうしようもない」事もあります。あるいは、頭では理解できても、感情的にどうしても許容しがたい事も、人間にはあります。仮にキオがジラード・スプリガンの事を完全に「理解」出来たとしても、彼女に起こってしまった過去をどうする事もできません。そう……



ララァが死んだ時のあの苦しみ、存分に思い出せ!」
「情けないヤツ!」
「何が!」


 宇宙世紀の二大英雄であるアムロとシャアにしたって、その点では変わりません。一時はエゥーゴで共闘したほどに互いを「分かり合っていた」アムロとシャアも、ララァ・スンの死という過去のために刃と言葉をぶつけ合っています。
 つまるところ、テレパシー的な相互理解だけでは、戦いを止める事が出来ない――それが宇宙世紀ガンダムの結論、だったのでした。


 三世代編冒頭、一連のルナベース攻略戦で、AGEは以上のような「ニュータイプの挫折」を駆け足でなぞり、キオに突き付けています。火星での体験を経てせっかく自らの道を見出した矢先、キオの目指す戦い方は早くも厳しい現実とぶつかってしまうのでした。
 なぜ、物語的なカタルシスを差し置いてまでこのような展開になるのか、という話は、前々回に少ししました。ここまでのニュータイプに関する話はガンダムの歴史の中では過去のおさらいですが、キオ世代にあたる時期の作品『ガンダム00』に至って、再び「分かり合える」というテーマが希望として語られ始めたのです。
 従ってこのルナベース編の一連の脚本は、AGEにとって直近のTVシリーズである『ガンダム00』のプロット批判の側面を持つことになります。


 『ガンダム00』セカンドシーズンの後半、ダブルオーガンダムに強化パーツであるオーライザーがドッキングする事でダブルオーライザーとなり、放出されるGN粒子の量が飛躍的に増加、結果としてその場にいる者たちの精神感応、といった現象を引き起こします。



イオリアの目的は、人類を革新に導くこと……。そう、俺は……変革しようとしている……!」


 一見して分かるように、GN粒子が集中する場所で起こる精神感応は、宇宙世紀ニュータイプによる精神感応とあからさまに似通った形で表現されています。
 そして



「純粋なるイノベイターの脳量子波が、ツインドライブと連動し、純度を増したGN粒子が、人々の意識を拡張させる」


 ……とリジェネ・レジェッタさんのおっしゃるごとく、刹那の「覚醒」の直後から戦闘宙域にいる人々が念話によって会話をし、ビリー・カタギリとスメラギや、ソーマ・ピーリスアンドレイ・スミルノフなど今まで対立してきた人々が意思疎通をする事で感情のわだかまりを解消していきます。
 ある意味で、ファーストガンダム最終話以上の、ニュータイプ能力による相互理解の表現。しかし、私見では00のここに至るまでの脚本には、明確な問題意識のすり替えがあります。
 00が好きな方には申し訳ないですが、AGEがこのタイミングでジラード・スプリガンのエピソードを持ってきた真意を探るために、少し辛辣な批判をせねばなりません。


ガンダム00』セカンドシーズンの最後に、倒すべき敵として表れるのが、リボンズ・アルマーク
 声をあてているのは謎の大型新人蒼月昇……こと古谷徹アムロ・レイと同じ声の人です。
 また、作中でリボンズが乗る「0ガンダム」は、



 ファーストガンダムに極めて似ており。
 また最終決戦で乗るリボーンズガンダムも、ガンダム形態の他に(ガンキャノンっぽい?)砲撃戦形態に変形できる仕様だったりします。要は、初代ガンダムを強く意識したキャラクターとして登場します。
 そのリボンズを、(オーライザーと合体する事で「ガンダムを超えた」能力を発揮するため、名称にガンダムと付かない、などとも言われる)ダブルオーライザーが撃破する事になるわけでした。つまり、「初代ガンダムを超える」という風にも読める構図になっています。
 まぁ、これ自体は別に、個人的にはそこまで抵抗はありません。ガンダムと名のつく作品を世に送り出すという事は、ガンダムというシリーズの呪縛と戦う事でもあり、「初代ガンダムを超える」という目標が制作のモチベーションになる事もあるでしょう。私が批判したいのは、そこではありません。
 問題は、作中でリボンズたち「イノベイド」が行使する能力の描写です。


 リボンズをはじめとするイノベイド(人為的につくられた革新者)たちは、脳量子波(宇宙世紀でいうところのサイコミュ通信)によって距離が離れていても意思疎通を図る事ができる、というように描写されています。
 しかし、彼らの「意思疎通」は単にテレパシー的なものではなく、意識の共有、否、事実上の「人格の乗っ取り」に近いものであることが描かれています。その事を浮き彫りにするためのエピソードが、セカンドシーズン第20話「アニュー・リターン」です。



 スパイとしてソレスタルビーイングに潜入していたイノベイドのアニュー・リターナーは、やがてロックオン・ストラトスことライル・ディランディと恋仲になります。
 一時はソレスタルビーイングを裏切りオーライザー奪取を目論むも失敗、その後の戦闘でライルと交戦したアニューは、ライルの必死の呼びかけに心動かされ、一時はその声に応じようとするのですが……



イノベイターは、人類を導く者」



「そう、上位種であり、絶対者だ。人間と対等に見られるのは、我慢ならないな。力の違いを見せつけてあげるよ」


 アニューの意識がリボンズとリンクし、アニュー機は戦闘を再開、この後ライルを撃墜寸前まで追い詰めます。
 結果、間一髪で刹那がアニューを撃墜。



「ねぇ、私たち、分かり合えてたよね?」
 ダブルオーライザーのGN粒子が作り出す空間で、二人はそんな言葉を最期に交わすわけですが……。


 さて。
 リボンズが、乗機や声優などから、ファーストガンダム(のアムロ)を強く喚起させる演出になっている事は既に確認しました。しかしそのリボンズが使用する意思疎通の方法は、アムロニュータイプとして見せた「人類の革新」「誤解無く分かり合える人々」のそれではありません。むしろ、宇宙世紀でいえば強化人間の戦闘強制に近いものとして描かれています。
 それに対して、「真のイノベイター」である刹那・F・セイエイがリボンズ・アルマークを打ち破るわけですが、その刹那がダブルオーライザーの能力と合わせて、周囲の人々に言葉を超えた意思疎通を促し、人々を結びつけるという形になっている。


 ここまでお読みになられた方ならお分かりでしょう。本来、刹那がダブルオーライザーと共にもたらした「意思疎通」こそ、ファーストガンダムアムロが見せた「人の革新」の可能性だったわけです。ダブルオーライザーがもたらす人々の意思疎通は、本当ならば(ファーストガンダムを想起させるキャラクターである)リボンズに帰せられるべき能力でした。
 結果的に00のプロットは、宇宙世紀ニュータイプの能力と、それがもたらした希望を一段階矮小化して描くことで、実際は宇宙世紀で描かれたのと変わらない「人の革新」を、過去を超える新しい可能性として刹那がもたらしたかのうように、描いてしまっているのでした。


 実際には、00劇中で描かれた「真のイノベイター」による人々の意思疎通も、ファーストガンダム時点でのニュータイプの希望と描写にそう変わりがあるようには見えませんから、00のストーリーがここに落ち着くという事は、既に当記事で見て来たような『Zガンダム』以降のニュータイプの挫折という「現実認知」は、無かったことにされてしまうのです。


 先に、筆者はカミーユ・ビダンのセリフを挙げて、「互いにとことん分かり合おうとし尽くして、それでもなお分かり合えなかったら、後は相手を排除する道しか残っていない」、という旨のことを述べました。
 実際『00ガンダム』では、最終決戦で刹那の完全覚醒によりソーマ・ピーリスアンドレイ・スミルノフ、スメラギとビリー・カタギリなどが意思疎通により和解を果たしていますが、この機会を経てもなお「分かり合」えなかったリボンズ・アルマークアリー・アル・サーシェスなどは結局、刹那をはじめとするソレスタル・ビーイングによって殺害されています。
 もちろんエンターテインメントとしての制約はあります。が、「分かり合う」事で戦いを終わらせると主張するのであれば、サーシェスのような冷徹な戦争屋、リボンズのような差別主義者とも分かり合えるのでなければ、作品のテーマ性としては脆弱にならざるを得ないでしょう。結局は「価値観を共有できる者は仲間、共有できない者は排除」という構図になってしまいます。従って『ガンダム00』の最終決戦の展開は、00という作品が打ち出そうとしたメッセージの限界を自身で既に描いてしまっているのです。


ガンダムAGE』が三世代編において批判しているのは、正にこの点です。ゼロ年代ガンダム世代に属する、つまり『ガンダム00』の世代に属するキオ・アスノこそが、『00』が明言しなかった『Zガンダム』以降の現実認知を、「ニュータイプの挫折」を、体験せねばならない。
 再三指摘した、AGEのシナリオの迂遠な回り道を伴うプロットは、このためであると考えられます。


ガンダム00』は後に劇場版が制作されました。その中で刹那・F・セイエイは、究極の他者である異星からの生命体「ELS」と対話を試み、多大な犠牲の果てに最終的には「分かり合う」事に成功しています。これは『00』の提示しようとしたメッセージをどうにか完遂しようとしたもので、それなりに誠実に作られてはいます。
 とはいえ、地球側も散々ELSを攻撃・破壊していたにも関わらず、刹那と分かり合えたのはELSが全体で一つの意思を持つという特異な生命体だったからで、もしELSの個体一つ一つが別々の意思とパーソナリティを持つ者たちであったのなら、同朋を殺されたELS側がすんなり「分かり合う」事に同意したかどうか。筆者の感想としては、かなり問題が単純化されているという読み方しか出来なかったというのが正直なところです。


ガンダム00』という作品については、その描いたテーマ性の深さ、試みの面白さという点で本当に評価すべきはセカンドシーズン以降ではなく、実はファーストシーズンであったと筆者は考えています。
 セカンドシーズン以降が、良くも悪くもゼロ年代ガンダム的であったのと対照的に、ファーストシーズンはどちらかというと、90年代ガンダムのテーマの発展継承という側面がありました。00ファーストシーズンのストーリーは、結果として90年代ガンダムが目指していた目標を明示し、同時にその限界を描いたという点で非常に面白いものです。これについては、次々回「破壊者シド」の解説の際に、詳しく論じてみたいと思います。



      ▽ジラード・スプリガン顛末


 この第43話の放映直前まで、ネット上では展開の予想がされていました。
 つまり、ジラード・スプリガンがXラウンダー能力を暴走させ、キオ、フリット、ゼハート、フラムというXラウンダーたちが身動きが取れなくなるとしたら、このタイミングこそ「スーパーパイロット」、非Xラウンダーであるアセムの活躍のチャンスであるに違いない、というもので。
 しかし、AGEにおいてはこうした「熱い展開」への期待はことごとく外れてしまいます。
 アセムは実際、ティエルヴァへの攻撃を行うのですが、これを



 ゼハートが身を挺して防いでしまうのです。
 ストーリーの盛り上がりに寄与する展開ではありませんが、しかしゼハート・ガレットという人物の描写としては、これ以上ないくらい雄弁です。元連邦であり、ゼハートの命令にもあまり耳を貸さず、また現に能力の暴走で作戦遂行に支障を来たしている原因であるジラード・スプリガンをも、この人物はやはり体を張って守るのでした。
 そして、暴走するジラード・スプリガンは、



 フリット・アスノによって撃墜されます。
 キオがジラードを撃墜できないのは良いとして、なぜアセムではなくフリットだったのか。ここまでの読解を踏まえて考える事が許されるならば……
 ジラード・スプリガンが、宇宙世紀ニュータイプを巡る希望と挫折を再演するために登場したと見るならば、その退場を促すのは



 AGEにおいてアムロ・レイの位置にいる、フリットだった、という事かも知れません。


 一方、撃墜されたジラードは最期の瞬間、自身を振り返って自嘲気味につぶやきますが……



「フッ、無様な最期……連邦のことも彼のことも……結局、わたしは何もできなかった」
 しかし、そんな彼女にただ一人声をかけたのが、ゼハートでした。



「いや、そんなことはない。お前は自分が信じた正義に殉じて戦い抜いた。わたしはお前のことを戦士として認めている」
 彼女が連邦を裏切って戦ったのは、端的に言えば復讐のためであり、「正義」とは言っても決して万人に誇れる大義があったわけではありません。しかし、このゼハートの言葉に、ジラードは憑き物が落ちたように微笑んで、



「ありがとう……」
 と返すのでした。


 一体、この最後のやりとりはどういう意味なのか、ゼハートの言葉の何が、ジラード・スプリガンの心を慰撫したのか……これについては、後に別なシーンとの関わりで、また述べる事があるかと思います。今しばらくお待ちください。


 ……というわけで、ついにルナベース攻略戦が終わりを告げます。
 歴代ガンダムの大問題をまた一つ駆け足で振り返りながら、AGEのストーリーは最終決戦前の最後の幕間へ入って行きます。『ガンダムAGE』という作品の最終的な射程がどこまで至るのか、引き続き筆者なりに焙り出して行こうと思います。
 相変わらずののんびりペースですが、引き続きお付き合いいただければ幸いです。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 機動戦士ガンダムAGE 第42話「ジラード・スプリガン」

     ▼あらすじ


 Xラウンダー対応のMSティエルヴァで出撃してきたジラード・スプリガンは、驚異的な戦闘能力で連邦軍の部隊を撃破していく。そして、キオの乗るガンダムを執拗に攻撃し始める。
 ジラードはかつて連邦のテストパイロット、レイラ・スプリガンだった。しかし軍上層部の無軌道な実験により、恋人のジラード・フォーネルを失い、事件の原因を隠蔽された事から連邦に復讐を誓ったのだった。
 押されるキオを見かねたフリットもまたAGE-1グランサで出撃、一方でジラードの強力なXラウンダー能力には、変調の兆しが見え始めていた。



      ▼見どころ


 ジラード・スプリガンの過去エピソードを中心に描かれる第42話。
 この回は、フリット編のファーデーンでのエピソードと並んで、AGEでも特に「必要なかったんじゃないの?」と言われる事の多いパートです。しかし、実はそうした回に登場したセリフや展開が、AGE全体のテーマを考える上でむしろ重要だったりします。この第42話も、歴代ガンダムにおける最大の問題のひとつを駆け足で浮き上がらせており、実は見どころの多い回です。
 というわけで、一つ一つ確認していきましょう。しかしその前に、まずはメカの話から。




      ▽AGE-1グランサ


 この回に登場するAGE-1の強化形態が、「グランサ」です。



 AGE-1グランサ


 本放送時、このグランサを見て膝を打ったのを思い出します。
 フリット・アスノ自身もXラウンダーですし、敵側にもXトランスミッターなどの遠隔攻撃端末を持つ敵が複数存在する事がわかっています。であるならば、AGE-FXに続きファンネル装備の強化プランが来てもおかしくないのですが……ここでAGE-1に施された強化は、正に「フルアーマー化」なのでした


 初代ガンダムの機体の局地戦仕様や強化案を、プラモデルを介して創造していった「MSV(モビルスーツバリエーション)」において、ガンダムの強化プランと言えば何と言ってもこれ、「フルアーマーガンダム」です。増加装甲と大火力化こそが、ファーストガンダム世代におけるガンダム強化の定番だったのです。
 その後、『Zガンダム』においても、「Z-MSV」に「フルアーマーガンダムMk−II」がありますが、劇中ではGディフェンサーとの合体により航続距離と火力をアップさせるスーパーガンダムが描かれました。可変MSが登場して以降の宇宙世紀ガンダムにおいては、ガンダムのパワーアップも「フルアーマー化」以外に「高機動化」というパターンが出て来たわけでした。
 AGE-1はフリット編においては、タイタス、スパローなどGガンダム的な、低年齢向けアニメに近い感性のバリエーションが選ばれていましたが、三世代編に至って、フリットの乗機がMSV的な感性で再登場してくる、というのはなかなかに面白い趣向だと思っています。
 元々、AGEのストーリー全体の意図からだろうと思いますが、UEの描かれ方が一般的なガンダムの敵組織イメージとかなり異なり、結果として初代ガンダムとその派生にあたる想像力(MSVや『ガンダムセンチュリー』のようなミリタリー的なイマジネーション)がフリット編にはほとんど見られず、この点がAGEという作品のファーストインプレッションにも影響しましたし、フリット・アスノファーストガンダム世代の代表として描くことの苦戦にもなっていくのですが……しかし、このグランサのデザインは、少し盛り返しているように思います。あくまでも少し、ですが。


 さて、そんなフリットも登場したところで、今回のメインの話題。



      ▽ニュータイプとXラウンダー(4)


 前回の解説で予告的に書いたように、キオ・アスノはこのルナベース戦に至って、初代ガンダム以来の重要テーマ「人は分かり合えるか」という部分を急激に強調してきています。前回はそれを、アムロララァを引き合いに出して少し言及したのですが……ここに至って、ついに明確化してきます。
 これまで、たとえXラウンダー同士であっても、音声や通信を介さずに相手と会話をする(テレパシーあるいは念話を行う)場面というのは基本的にAGE劇中にはありませんでした。フリットとデシルが、手が触れ合った瞬間に特殊な「感じ」をもったり、あるいはユリンが撃破される前後にフリットが森の中の情景を幻視したり、といった場面はありますが、いずれもテレパシーといった描写ではありません。
 第39話「新世界の扉」でも、キオとイゼルカントは通信を介して会話しています(その証拠に、非Xラウンダーのアセムも会話を一緒に聞いています)。
 ところが――



(ガンダム!連邦を見限ったわたしの覚悟、見せてあげるわ!)
(えっ? あなたは誰?)


 AGE放送開始から40話以上、ここに来てXラウンダー同士がテレパシーによる会話を始めるのです。
 そしてさらに、この回最大のハイライトとして、キオはこれまでAGEが描いてきたXラウンダーイメージを根底から覆すセリフを口にするのです。



「あなたや僕が持っている力は、こんなことに使っちゃいけないんだ!」
「坊や、何を甘いこと言ってるの?! この力は戦うためのもの! 復讐を遂げるためのもの!」
「そんなの違う! この力を使って、戦争を止めたいんです!


 ……このセリフが、どれほど恐ろしい意味か、ここまで記事をお読みの方にはお分かりかと思います。



「今、ララァが言った! ニュータイプは戦いをする道具ではないって!」


 そう。キオはAGEの世界でただ一人、Xラウンダーの力を「戦いを止める力」だと言っているのです。


 第5話の解説、そして第12話の解説で項目立てして解説したように、『ガンダムAGE』におけるXラウンダーという能力は、単に使用されていなかった脳の領域を使えるようになった人の事であり、その能力発現は特に「宇宙という環境に適応した」から、といった理由づけもありません。結果として、ニュータイプという概念にはついて回っていた「人の革新」「誤解なく分かり合える人々」「戦争などしないで済む人類」といった意味付けも、まったくされていませんでした。
 それどころか、本来ならアムロに相当する位置にいる人物フリット・アスノからして、第21話解説記事で見たように、自らパイロット養成プログラムの中にXラウンダーを組み入れている=Xラウンダー能力を「戦いをする」ための能力であると規定しています。
 従って、ジラード・スプリガンのセリフ「この力は戦うためのもの!」というのは、AGEの世界に限って言えば全面的に正しい。キオの言う事の方が、これまでのAGEの世界観にあっては異質なのです。


 キオの発言は、結果として、今まで違うものとして描かれていた「Xラウンダー」と「ニュータイプ」を、一気に同質のものとして近づけてしまう内容になっています。


 このキオの姿勢が、果たしてどのような結果をもたらすのか……ルナベースを巡る戦いの中で、そして三世代編全体をもって、AGEの脚本は示していく事になります。



      ▽ジラード・スプリガン


 この第42話の、ほぼ半分近くはジラード・スプリガンの過去の回想です。
 1,2話前に登場したばかりのキャラクターの過去にこれだけの尺を与えるというのは、常に尺不足で詰め込み過ぎ脚本になっているAGEにおいては異例中の異例と言えます。
 では、そこで何が起こったのか、といえば、詳細は端折りますが



 Xラウンダー能力を増幅する装置の実験中に暴走が起こったのでした。
 こうしたXラウンダー能力の戦闘利用のための技術は、AGEではヴェイガン側が「ミューセル」という形で先に実用化していました。それも、使用者の身体に悪影響を及ぼすものであることが、第25話「恐怖のミューセル」に描かれています。
 そして、先述の通りアセム編においてフリットもXラウンダー能力をパイロットの適性試験に組み込むなど、戦闘能力として捉えている次第ですから、連邦でもXラウンダー能力を人為的に開発する取り組みがあるのは極めて自然な事でした。


 とはいえ、こうした人為的Xラウンダー能力の増幅は、当然のことながら歴代ガンダムにおける強化人間をも思い起こさせます。
 特にジラード・スプリガンについては、初登場時点からの好戦的な発言のせいで一見そうとは見えませんが、髪色などが



 フォウ・ムラサメと似た配色にデザインされている事は、留意する必要があります。


 言うまでもなく、フォウ・ムラサメは『Zガンダム』に登場した最初の強化人間であり、主人公カミーユ・ビダンに大きな影響を与えた人物でした。
 ここでフォウの名前を出すのは、何も髪色が似ているからだけではありません。連想を結びつけるファクターが、この回いくつか散らしてあります。たとえば



「ジラードって、本来は男性の名前ですよね」


 ……という会話から彼女の過去に話が飛ぶわけですが、結局彼女の本当の名前はレイラ・スプリガンであり、亡くなった恋人ジラード・フォーネルの名前を自ら名乗る事になったのです。
 これもパッと見では、彼女の復讐の経緯を表しただけの趣向に思えます。が……名前を巡るこの転変は、ただそれだけを意識しているとは思えません。身体的な性別と、名前が表す性別の乖離



カミーユが男の名前でなんで悪いんだ。おれは男だよ!」


 これを思い出さないわけにはいきますまい。
 カミーユという名前を巡る彼のコンプレックスは、ホンコン編にてフォウ・ムラサメと出会った事で変わっていきます。



カミーユか、優しい名前ね。うふふふふふ、自分の名前、嫌いなのね?」



「私の名前、好き?」
「いい名前だ、好きだよ」
「私は嫌いよ」
「なぜさ。響きのいい……」
「今の施設で4番目だったからフォウなの。ナンバー4」
「本当の名前は?」
「わからないわ。私には昔の記憶がないのよ。知りたいんだ、昔のこと。それを探していたの」


 お互いの名前を巡る会話を交わすカミーユとフォウは、やがてMS戦の最中に再び会話を持ちます。まるで取りつかれたように自分の過去、家族との不和や幼馴染の話をフォウにぶちまけるカミーユは、やがてもう一度名前の話を口にします。



「幼馴染の子が母親代わりに僕に言うんだよな。『爪を噛む癖を止めなさい! カミーユ!』って。いつもだ! 『カミーユ止めなさい!』って。僕にはそれが嫌だった。だってさ、『カミーユ』ってのは女の子の名前だ! 大っ嫌いだったよ! ずーっと!
「それで?」
「そう、だから、僕は空手をやった。ホモアビスもやったし、モビルスーツも作ったりもした。男の証明を手に入れたかったんだ……!」
カミーユ?」
「俺……俺は、何を喋ってるんだ? ふ、フォウ、お、俺……何でこんなことを……?」
カミーユ、もう一度だけ聞いて良い? 今でも『カミーユ』って名前、嫌い?」
「……好きさ、自分の名前だもの……!」


 女性の名前に悩んでいたカミーユは、フォウ・ムラサメとの会話を通して自分の名前、そしておそらくは自分の過去や自分自身を許容できるようになっていきます。一方、「フォウ」という名前を嫌いなままのフォウ・ムラサメは、自身の記憶を求め続ける事になります。


 レイラ・スプリガンは、いってみればカミーユの逆のパターンを辿っています。恋人の死と、その真相の隠蔽という認めがたい過去に対する断絶の刻印のように、あえて異性の恋人の名前を自らに科し、今の自分と過去の自分を乖離させた事になります。
 もし、ジラード・スプリガンにとって「レイラ」という名前がそうした意味だったとすれば、



「連邦にいたレイナ・スプリガンという女はもうどこにも存在しない!」
 ……というフリットの発言が、どれほど残酷に響いたかは察するに余りあります。このセリフの直後、キオは



 驚愕の表情。



 ジラード・スプリガンも一瞬、こんな表情を浮かべていました。
 「レイナ・スプリガン」を否定する事は、フォウ・ムラサメから過去の記憶を奪うのと同じ、決定的なアイデンティティ・クライシスをもたらす事になるという次第です。


 ……と、以上のように、「レイナ」「ジラード」という名前を巡る要素を介して、Zガンダムの強化人間、特にフォウ・ムラサメのイメージがここで召還されているように見る事もできる、というのが筆者の解釈です。
 そしてそのようにして見ると……筆者は残念ながら未読なのですが、このジラード・スプリガンの過去のエピソードというのは、


『フォウ・ストーリー そして戦士に……』という外伝小説のオマージュのようにも思えるのでした。実験パイロットをしている間に、親しい人物が死亡するというプロットが似ています。


 無論の事、この「強化人間」というモチーフは後続作品にもたびたび登場しました。宇宙世紀作品は言うに及ばず、『ガンダムSEED』シリーズのブーステッドマンや、『ガンダム00』の超兵といった設定にも引き継がれていく事になります。
 AGEの世界には、直接こういった身体レベルまで強化された兵、という設定は出て来ていませんし、これ以上そんな設定を入れ込むほど脚本に余裕が無いわけですが、そんな中でジラード・スプリガンの過去エピソードは強化人間を連想させるイメージを、様々に取り込んでいるのでした。
 そして、ニュータイプの交感、強化人間という宇宙世紀ニュータイプを巡る重要設定を次々とストーリーに織り込みながら、次回いよいよ撒いた種の回収に入る事になります。一体、こんな駆け足のダイジェストを無理やり繰り込んでまでAGEの脚本は何を再確認したかったのか、次回の解説記事で見ていきたいと思います。


 ところで。
 レイナ・スプリガンがジラード・スプリガンへと変貌した契機についてですが、これは別な見方も企図されている事も見て取れます。これも忘れるわけにはいかない問題です。
 というのも、回想シーン中で、レイナの恋人であるジラード・フォーネルはこのように言っているのです。



「レイナとなら、昔からの夢をかなえられる気がするんだ。あったかい家庭を持つっていうね」


 このようなセリフを残したジラード・フォーネルが死亡し、残されたレイナ・スプリガンがヴェイガンに寝返ったという事になります。つまりレイナが奪われたのは、家族を持つチャンス、さらに言えば世代を後につなぐチャンスでした。
 第37話の解説で書いたように、連邦側がアスノ家に代表されるように家族をもって世代を後につないでいるのと対照的に、ヴェイガン側は家族の気配が極めて希薄です。明確に描かれてるのはフリット編のギーラ・ゾイとアラベル・ゾイくらいであるように思います。そして、ヴェイガン側では過酷な環境のために世代をつなぐのが困難なのを、コールドスリープのような延命技術で補っているのでした。
 つまり、レイナがヴェイガン側に移ったというのは、彼女が「あったかい家庭」を持つチャンスを奪われたから、と見る事もできるという事です。それは、ヴェイガンが地球種を憎む事情と相似をなしている、と見る事も出来ます。その点では、キオが



「あなたは連邦のパイロットだったんですね?」
「それなら! ヴェイガンと連邦、両方の事情がわかるはずです!」
 ……と言ったのは、ある意味で正しいとも言えます。ジラード・スプリガンの戦う理由は、ヴェイガンの大多数の兵とかなり共振し得るものだったのでした。
 しかし、そうであるからこそ、彼女はキオとも、連邦とも分かり合えないという事になります。いみじくも彼女自身が言った通り、



「連邦に話すことなんてない! あなたになんか、分かるわけないわ!
 という事なのでした。


 ……というわけで、駆け足にですが、ルナベース編でAGEが描こうとしている問題のアウトラインを、大急ぎでなぞってきました。前回と今回述べてきたテーマが、次回とりあえず一段落する事になります。
 この第42話は、他にもゼハートを説得するアセムのセリフなどに見どころがあったりもするのですが、またの機会に回しましょう。とりあえず次回、このとっ散らかった脚本意図のまとめにトライしてみたいと思います。引き続き、お付き合いいただければ幸いです。



※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次