機動戦士ガンダムAGE 第44話「別れゆく道」
▼あらすじ
ついに地球圏に到達したセカンドムーン。ゼハートはイゼルカントに、プロジェクトエデンの真意を厳しく問いただす。しかしイゼルカントの余命が長くない事を知らされ、「狂気と承知で、私に付き合ってくれ」と言われたゼハートは、その意向に従いヴェイガンの全権を担う事を承諾する。
一方、ヴェイガンの捕虜の処遇から口論になるフリットとアセム、そしてキオ。フリットは家族を殺された過去から、ヴェイガンの打倒こそが救世主への道だという信念を曲げない。一方ヴェイガンと分かり合える道を探るキオは、フリットの信念が理解できず苦悩する。
連邦とヴェイガン双方の戦力がラ・グラミスへ向かう中、ゼハートはガンダムレギルスの試運転を行い、そこでEXA-DBを守護する異形のMS、シドと遭遇するのだった。
▼見どころ
連邦とヴェイガン、双方で組織体制が変わり、そして互いの意思疎通の齟齬を巡って重要な会話が次々行われる第44話。ゼハート、イゼルカント、フリット、アセム、キオとそれぞれの信念が錯綜し、しかも会話量も多いため非常に複雑で読み解きにくい回になっていると思えます。
難しい回ですが、少しずつ筆者なりに解きほぐしてみたいと思います。まずは、ヴェイガン側から。
▽イゼルカントからゼハートへ
セカンドムーンに合流したゼハートは、イゼルカントにプロジェクト・エデンの真意を問いただします。
実はこれに先立って、ゼハートが自室にて
キオとイゼルカントのやり取りを音声レコーダーのようなものから聞いているシーンがあり。
この音声データをゼハートがいつ入手したのかについては作中に言及がありませんが、場合によったらルナベース攻略戦以前から持っていた可能性もあり。だとすれば、ルナベースでアセムに「お前の戯言を聞くつもりはない」と返していたゼハートは、その時点で既にイゼルカントの真意を知っていた可能性もあります。
ゼハートはロストロウラン攻略戦でも、仕掛けた爆弾の爆破のタイミングについて疑問を感じた部下に対してはその場をごまかしつつ、後にイゼルカント本人には同じ疑問をぶつけています。
無論、ゼハートの立場で無暗に不信をあおるような事は言えません。部下は安心させつつ上司にはこっそり真意を確認するゼハートは、非常に中間管理職的です(笑)。それも、極めて日本的な。
どうもこの辺り、ヴェイガンという組織には「日本的な」と形容したくなる要素があちこちに散見されます。たとえばこの回に登場する宇宙要塞ラ・グラミスの司令オクラムドは
こんな外見で。
このセンセーショナルなヘアスタイルですが、おそらくは歌舞伎の連獅子がモデルでしょう。
そういう目で見てみると、ザナルド・ベイハートの外見なども、日本の鎧武者のイメージが重ねられている事に気づくはずです。
第37話の解説で、ヴェイガン内の貧困の描写が中東や中央アジアのイメージである事を書きましたが、一方で軍組織としてのヴェイガンのそこかしこには奇妙に日本っぽい道具立てが使用されてもいるのでした。そういう目で見てくると、
アセム編冒頭の謎の温泉シーンも、その一貫だったのかも知れません(笑)。
ここでことさら「日本っぽさ」を強調しているのは、ヴェイガンの組織の長所と短所もまた、極めて日本的であると見えるからでした。第41話の解説で指摘した、個人の人間力に強く依存した組織運営というのは、特に日本の企業などによく見られる傾向だからです。
そして、そんな日本的中間管理職ゼハートを、イゼルカントはヴェイガンのトップに任命してしまうのですが……。
この回、イゼルカントが述べている事は、基本的には第39話「新世界の扉」でキオに語った事と同じです。
とはいえ、ゼハートからはこうしたイゼルカントの思惑についてかなり強い語調による反論がなされ、合わせてイゼルカントの言い分は奇妙に曖昧になっていきます。
「あなたは神にでもなったおつもりかっ!?」
「理解できぬかゼハート?」
「人類の選別など、理解できるはずがない……!」
「人を高い次元に導き、より良き世界を造るために誰かが選択をせねばならん……! その選択をわたしは行ってきたのだ」
「あなたの言うより良き世界とは、あなたという支配者に都合よくつくられた独裁国家にすぎない。地球の歴史に新しい支配者が誕生するだけだ!」
「違う!わたしが作りたいのは独裁国家などではない! 人の未来だ……!」
端的に言って、この後に展開されるイゼルカントの論法はメチャクチャです。たとえば、
「人は、母なる大地から離れ、歴史を重ねていくうちに、何かを奪い合い、殺し合うことを平気で行える怪物に変貌してしまった」
「長い歴史の中で、人類は人であることを忘れかけている。わたしは、新たなる人類をつくらねば、真の理想郷は実現しないと悟ったのだ!」
素朴に読むならば、本来の人間は「奪い合い殺しあうこと」が平気で行える存在ではなかった、けれど人が宇宙に出てから変わってしまった、という認識をイゼルカントがしている事になります。にも関わらず、イゼルカントは「人であることを忘れかけている」人類を元に戻すのではなく、「新たなる人類」に進化させなければ未来はない、という言い方をしています。一体イゼルカントは人類を過去の状態に戻したいのか、それとも過去の人類とは違うもっと高度な存在にしたいのか、曖昧です。
もちろん、イゼルカントのやり方によって、争いをしない進化した人類が生まれる、理想郷が作れるという論証も保証もどこにもありません。
とはいえ、イゼルカントがゼハートの言う「支配者」になるつもりが無い事もまた確かです。それは直後にイゼルカントが吐血する事によって示されます。
「驚くことはない……皆と同じマーズレイによる病だよ。コールドスリープを繰り返し、時間を稼いできたが、そろそろ限界のようだ」
余命少ないイゼルカントには、たとえ新世界を作り出すことが出来たとしても、そこに支配者として君臨する事は難しい様子です。
その上で、イゼルカントはゼハートにヴェイガンの全権を委譲する、と言います。
「ゼハートよ、プロジェクトエデンの全権をお前に託す。お前がヴェイガンの全てを率いるのだ」
「えっ……!?」
「ゼハート、もしわたしが狂気だと言うならそれでもいい。その全てをわかったうえで付き合ってはくれぬか? わたしの狂気に」
「イゼルカント様……わたしに新たなる人類を創造する神になれと?」
「神ではない! お前は……人の未来を照らす光になるのだ……」
「光に……?」
この直後。なんとゼハートは、イゼルカントの後任を引き受けてしまいます。
「イゼルカント様の御意志、このゼハート・ガレットが引き継ぎます!」
さて。イゼルカントは一体ゼハートに何を託し、ゼハートは一体何を了解したのでしょうか。
……と問うてはみたものの、はっきり言ってイゼルカントの言葉には、もはやほとんど何の具体性も示されていません。戦争によって極限状態を作り出し、それで人間は進化するからと言われて、それでヴェイガンを丸ごと託されても、ゼハートは一体何をすれば良いのか。戦争に勝てば良いのか、それとも互いが絶滅する勢いで徹底抗戦でもすればよいのか、進化した人類とやらをどう見つけ見分けて仕分けるのか。さっぱり分かりません。
イゼルカントがゼハートに示したのは、「人の未来を照らす光になれ」という抽象的なメッセージだけです。
しかし、この「具体性を持たない、けれどすごく意味のありそうなメッセージ」もまた、間違いなく現代日本の、そして近年のガンダム作品の特徴でもあります。たとえば
「勝利だけが望みか!」
「他に何がある!」
「決まっている……! 未来へとつながる、明日だ!」
こういうやりとりが、近年のガンダム作品には頻発します。
もちろんこのやり取りも、ただ自身の因縁と、闘争への自負、戦いの勝敗にだけ拘泥しているミスター・ブシドーに対して、もっと広い視野で、未来に資する行動をすべきだという刹那の説得の言葉になってはいます。
しかし、「未来」「明日」といった、たいていの人にとってポジティブな意味の言葉を使う一方、セリフの内容からは具体性が抜け落ちていきます。具体的にどのような「明日」なのか、それは勝利を追い求めるだけなのと何が違うのか?
そして、こうした「具体性のないフレーズ」を(恐らくは)極めて戦略的に使っているキャラクターが、『ガンダムSEED』のラクス・クラインです。
ためしに、彼女の最終局面での呼びかけを、『Zガンダム』クワトロ・バジーナのダカール演説と比較してみましょう。
一部を引用します。
人が宇宙(そら)に出たのは、地球が人間の重みで沈むのを避ける為だ。
そして、宇宙に出た人類は、その生活圏を拡大したことによって、
人類そのものの力を身に付けたと誤解をして、ザビ家のような勢力をのさばらせてしまった歴史を持つ。
それは不幸だ。もうその歴史を繰り返してはならない。宇宙に出ることによって、人間はその能力を広げることが出来ると、何故信じられないのか?
我々は地球を人の手で汚すなと言っている。
ティターンズは地球に魂を引かれた人々の集まりで、地球を食いつぶそうとしているのだ。
人は長い間、この地球と言う揺り籠の中で戯れてきた。
しかし! 時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ。
その後に至って何故人類同士が戦い、地球を汚染しなければならないのだ。
地球を自然の揺り籠の中に戻し、人間は宇宙で自立しなければ、地球は水の惑星では無くなるのだ。
このダカールさえ砂漠に飲み込まれようとしている。それほどに地球は疲れきっている。
今、誰もがこの美しい地球を残したいと考えている。
ならば自分の欲求を果たす為だけに、地球に寄生虫のようにへばりついていて、良い訳がない!
続いて、ラクス・クライン。
わたくしたち人はおそらくは戦わなくても良かったはずの存在……
なのに戦ってしまった者達。
何の為に?
守る為に?
何を?
自らの未来を?
誰かを撃たねば守れぬ未来、自分、それは何?
それは何故?そして撃たれたモノにはない未来……では撃った者たちは?
その手につかんだその果ての未来は……幸福?
本当に?……ザフトはただちにジェネシスを停止しなさい!
核を撃たれ、その痛みと悲しみを知る私たちが、 それでも同じ事をしようとするのですか?
撃てば癒されるのですか!?同じように罪無き人々や子供を。これが正義と!?
互いに放つ砲火が何を生んでいくのか、まだ解らないのですか!
まだ犠牲が欲しいのですか!
比較してみると分かりやすいと思うのですが、クワトロの演説では「自分たちは何を主張している団体で」「ティターンズは何が問題で」「将来的にどのようにしていくべきなのか」というそれぞれについて、極めて具体的に語っています。
一方のラクス・クラインの演説は、(戦闘中の呼びかけゆえ、厳密な比較はできませんが)特に序盤の立て続けの疑問形な文章を見ると分かるように、前後関係や目的、背景、問題点、未来のビジョンなどを具体的に示す内容ではありません。聞く者の罪悪感や良心に訴えかける体のものです。その結果としてクワトロ演説よりもより情緒的に、言葉も「未来」「幸福」「正義」などの抽象的な単語が集中しています。
近年の社会学者や批評家は、社会一般へ向けて語られる言葉から具体性が削がれ、「なんとなくポジティブな言葉」が語られる状況を「ポエム化」と呼んでいるようです。NHKの「クローズアップ現代」でも特集されました。
広告のコピー、企業や自治体のスローガンだけではありません。政治の現場でも同様のことが起こっています。これについては、保守もリベラルも変わりありません。「国民の生活が第一」も「美しい国日本」および「日本を取り戻す」も、ついでにいえば「Yes, we can」も同じようなもので、小さな政府を目指すのか大きな政府を目指すのかといった大雑把な方向性すら含まない、抽象的でなんとなくポジティブなフレーズに終始しています。
ゼロ年代ガンダムにおいて、主人公たちが何のために戦うのかと問われた時に、こうした「ポエム化」した目的を語る/語らざるを得ないというのは、現代のこうした空気を的確にすくいあげた結果です。そしてイゼルカントがゼハートに託した言葉もまた、見事に「ポエム化」しているのでした。
このように書くと単なる政治家批判のようでもあり、またラクス・クラインなど近年のガンダムキャラ批判に聞こえるやも知れませんが、事はそんなに簡単ではありません。昨今の政治家の掲げるスローガンが「ポエム化」しているのは、むしろ日本国民の関心の向き方に合理的に適応しているからと見た方が正確だからです。
小泉純一郎が総理大臣だったころ、その支持率は85%という驚異的な数字を叩き出していましたが、「聖域なき構造改革」「改革なくして成長なし」といったキャッチフレーズが繰り返し報道される一方、具体的に押し進められた郵政民営化について、「郵政事業を民営化するってどういうことか」「民営化すると何が起こるのか」について自分の言葉で説明できるほどに理解していた国民は、支持していた中でも恐らく半分も居なかった事でしょう。報道も閣僚間の会話のやり取りや、野党の動き・戦略などについてさかんに報道する一方、個別の法案や、問題になっている事案の解説などははるかに少ないものでした。
(大体、鳩山首相の時のように、同じ政権の支持率が70%から20%までいきなり乱降下するような国は、世界でも極めて珍しい)
国民が個別の政策・法案に感心を持たず、ただ政治家のイメージや好感度ばかりに目を向けているならば、当然そうした国民に向ける言葉もそこをコントロールするものになっていきます。そうなら、政策・法案について煩雑な事を話すより、ただ聞く者の好感度をあげる「ポエム化」した言葉を発信していた方が、はるかにローリスク・ハイリターンです。
要するに。現代日本でもしクワトロ・バジーナとラクス・クラインが選挙で戦ったとしたら、恐らくラクスの方が勝ってしまう。国民が政策の話に関心を示さず、好感度だけで政治家を選ぶというのは、つまりそういう事です。
コズミック・イラ世界の一般民衆は、『SEED Destiny』でミーア・キャンベルの歌ひとつで世論誘導されるくらいにイメージ・好感度偏重な様子が描かれており(笑)、そのような世界で演説するなら、ラクス・クラインの言葉は極めて効果的に選択されている、ように見えます。
いずれにせよ問題なのは、「ポエム化」された言葉には具体的なビジョンが伴わない、という事です。
イゼルカントは、プロジェクトエデンを今後どのようにすれば成功させられるかという青写真、ロードマップをまったくゼハートに示せていません。これまで連邦・ヴェイガン双方の人々に危機的状況を体験させて人の選別をしようとしてきた、とは語っていますが、では今後どのように双方の陣営で選別された人たちを一つに導くのか、などといったビジョンはついぞセリフの中に現れません。
結果として、その辺りはすべてゼハートに丸投げされた形になります。
どう考えても不合理なのですが、しかし大恩あるイゼルカントが、「最後の望み」とまで言うこの事業を、ゼハートは断る事ができません。相手と二人きりでの説得、目の前で吐血した恩人の最後の願い、という断りにくい空気の中で、理不尽な頼みごとを引き受けてしまうあたりが、これもまた大変日本人っぽいような気がします(笑)。
実際、ゼハートはイゼルカントの思想を、かなり曲解して引き継いだらしい事がこの回の最後に見えます。EXA-DBの守護者、シドに遭遇したゼハートは、
「EXA-DBによって生み出されたのなら、ヤツは人類の過ちの象徴。神が与えたわたしへの試練だ!」
「わたしはヤツを倒し、イゼルカント様の意志を継ぐ!」
……と言っています。
しかしEXA-DBが「人類の過ちの象徴」だとして、EXA-DBの技術を利用しているヴェイガンMS(ゼハートが正にこの瞬間乗っているガンダムレギルスも含む)もまた、その言葉に従うなら「人類の過ち」の系譜に属しています。
イゼルカントは、極限状況を作り出すため、EXA-DBの技術で意図的に戦争を始めたわけで、そういう意味でEXA-DBそのものを問題視しているわけではありません。
たとえで言えば、イゼルカントのやり方は「毒をもって毒を制す」ような発想なのですが、ゼハートはここで毒そのものを否定する方向でシドと戦おうとしているわけです。
イゼルカントの言葉自体が、具体性のない曖昧なものだったのですから、ゼハートがその真意を(自分が理解できる形に)曲解したのは無理もない事です。
しかしその結果、「プロジェクトエデン」は内実を伴わないまま、けれど事態を否応なく進めていくという形でどんどん暴走していく事になります。どこを目指しているのかも分からないまま、ただいたずらにゼハートの焦燥感だけを煽っていく、そんな呪いのような言葉として劇中で存在感を放ち続けるのです。
というわけで、ヴェイガン側ではスムーズな、しかし危うい世代交代が描かれていました。
そしてもう一方の連邦側では、逆の現象が起こったりもしています。今度はフリット・アスノについて、見ていきます。
連邦側にも、大きな組織体制の変更がありました。
「今回の全艦隊の指揮は、フリット・アスノ元総司令に執ってもらう」
「司令は予備役から既に現役復帰されている。手続き上は問題ない」
手続き上で問題がなければ良いというものでもないような気がしますが(笑)。そんなわけで、ラ・グラミス攻略戦の艦隊指揮はフリット・アスノに移譲されたのでした。
さすがにどうなのよ、と思っているのは視聴者だけではないらしく、このように伝達された連邦軍の将校さんたちも、
ここにきて、ヴェイガンと連邦の組織構造がますます対照的になってきている事に注意しましょう。ヴェイガンではイゼルカントからゼハートへと指揮権が移った事で、いわば世代交代が促された形になっています。ところが連邦側では、逆に年長者のフリットに指揮権が再度戻っていくのでした。一見、世代交代を行っているヴェイガンの方が組織運営として健全なように見えますが……これも、後々の展開に関わってきます。
さて。そんなフリットですが、この後自身の息子、および孫から詰問される事になります。
きっかけになったのは、この発言でした。
「移送だと……!? ヴェイガンの捕虜など全員処刑すればよいのだ!」
これはもちろん、ヴェイガンを「人間」であると認められないフリットの内面がストレートに出たセリフ、ではあるのですが。
一応注釈しておきますと。現代の戦時国際法上では、捕虜としての待遇を得られる資格は「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員」という事であり、たとえばテロリストなどは交戦者とは認められないため、捕虜としての扱いを受ける資格がないものと見なされます。
AGEの世界の国際法や条約がどのようになっているか分かりませんが、仮に現代の国際法で考えたとして、連邦政府がヴェイガンを「国家」と認めていない場合、ヴェイガンの兵士たちは捕虜としての待遇を得る資格を持たない事になるわけです。
……まぁ、アセム編で連邦側からヴェイガンへ和平交渉が行われた旨の発言もありますので、何とも言えませんが(和平交渉は相手が国家でなくても使う言葉かしら? その辺は筆者はあまり詳しくないので、誰か別な方の考察に譲ります)。
むしろ、このフリットの発言に
「司令……お気持ちはわかりますがそういうわけにはいきません。正規の手続きに従って尋問後、移送いたします」
とアルグレアスが答えているところを見ると、現状連邦政府は、やはりヴェイガンの兵を「捕虜の扱いを受ける資格がある」と見なしているのかも知れません。
ただいずれにせよ、アンバット戦の時点でのヴェイガン(UE)が国家として認められていたはずはなく、フリットはまだその頃の事を引きずっている面はあるのでしょう。
この発言を契機に、フリットとアセム、そしてキオが加わって、三世代が意見を述べ合う事になります。
「もうやめようよじいちゃん、ここで戦争を終わらせるんだよ。じいちゃんだって父さんだって、ずっと戦ってきた。何のために戦ってきたの? 戦わなくてもいい方法を見つけるんだよ! 道はあるはずだよ……! 絶対にあるはずなんだ!」
「ヤツらは家族を殺した。わたしから大切なものを奪った……! ヤツらにどんな事情があろうとわたしにとっては悪だ! 戦わねば、同じように悲しむ人々を生む!」
「じいちゃんは憎しみに駆られているだけじゃないか! そんなの救世主じゃない!」
「何だと!?」
「父さん、キオの言ったこと、よく考えてくれ。俺だって、戦いから逃れようのない状態だということは理解している。しかしキオは、キオの言葉は、誰もが願いながら口にすることができなかった言葉だ」
「……」
「あなたの決断には地球の、人類の運命がかかっている」
この会話の少し前、アセムに対しては「海賊のお前に正義を説く資格などない!」と強気に言い放っていたフリットが、キオに詰め寄られた途端、弱気に本音を吐露し始める辺りは相変わらずで、つくづくこの老人は孫には勝てないようです(笑)。
ともあれ、このように息子や孫から色々と言われたフリットは、改めて思い悩むような顔を見せます。
そして三世代編全体でもことさらに印象的な、このシーンにつながります。
「わたしは誓ったのだ。敵を打ち倒し、皆を救う救世主になると……どんな手段を使っても……!」
少年の頃のフリットが映し出されるこのシーンは、フリットの内面が未だに少年の頃の思いや心のまま、その頃の純粋さを保ち続けている事と――そうであるが故の限界とを、同時に示しています。
それはそのまま、初代ガンダム世代が迷い込んだ袋小路の縮図でもあります。
ヴェイガンがまだ「UE」だった頃、それは「MSなんかじゃない」「モンスターなんだ!」(第一話)というフリットの言葉通り、顔の見えないエイリアンでした。そうであればこそ、UEを撃破したところで、誰もそれを非難したり、倫理的な疑問を持ったりする者はいませんでした。そうした時代に戦いを経験したフリットにとって、ヴェイガンと「分かり合える」と主張するキオの発言は、理解できません。ヴェイガンを殲滅するという行為に倫理的な問題が提示されるという事も、ピンと来ていません。
それは現実でも同じです。第二次大戦から東西冷戦にかけて、「こいつを倒せば無条件にハッピーエンド」といった敵はいくらでもいました。『007』は東側諸国のスパイたちを容赦なく殺していましたし、インディ・ジョーンズもネオ・ナチの連中を爽快に殺害して、特に問題はありませんでした。そのような時代の常識を身に着けた世代にとって、敵国であろうと神経質なまでに攻撃対象を絞らねばならず、爆弾一発誤爆しただけで諸外国やメディアや一般市民から猛烈な非難が浴びせられる現代の戦争は、やはりどこかピンと来ない、というケースも多いのではないかと思います。
初代ガンダムの、作品全体としてのカラーは「君は生き延びる事ができるか」、とにかく巻き込まれてしまった戦争の中でサバイバルする事であるように見えますが、物語の最終盤に至って、アムロ・レイは「自分自身が生き延びる」以上の目的を口にしています。
「シャアだってわかっているはずだ。本当の倒すべき相手がザビ家だということを。それを邪魔するなど」
「今の僕になら本当の敵を倒せるかもしれないはずだ」
アムロはアムロなりに、目の前の戦争を終わらせるためにはどうすべきかを考え、実行しようとしていたのでした。
そう、かつて少年時代のフリット・アスノが、
ザラムとエウバの戦いを必死に仲裁しようとしていたように。
AGE全体を通して、フリット・アスノという人物は聡明です。ザラムとエウバの戦いを見て、即座にその本質を見抜き、説得できるだけの目と行動力を持っていました。何より、UEという共通の脅威を前に、目の前の戦いを終わらせる必要があるのだと考える事が出来ていました。
アムロ・レイも、目の前で展開されている連邦とジオンの戦争に対して、ただ場当たり的に生き延びるだけでなく、この戦争をどうするべきか、という問題まで考えていたのです。
しかし、初代ガンダムの世界観、すなわち一年戦争という世界(時間軸)からスピンオフした作品群は、「戦争全体に働きかけて」「戦いを終わらせる」という問題意識から、離れるばかりでした。
巨大ロボットをヒーローメカから工業製品にする事で、より本格的なミリタリー的リアリズムを作品内に感じさせる事に成功した『機動戦士ガンダム』では、結局主人公であるアムロ・レイも一介の兵士であって、戦争全体の元凶(本当の敵)であるデギン・ザビやギレン・ザビと価値観を戦わせる事もできず、一年戦争の和平の動きにも直接関わるわけでもなく、かろうじて敵兵であるシャア・アズナブルと決着をつけ、同じホワイトベースのクルーを脱出させる事しか出来ませんでした。
もちろん、アムロが敵の総大将と言葉を交わしたり、独力で戦争を終わらせたりしなかったからこそ、保たれたリアリズムがありました。それこそがアニメ史に残るエポック・メイキングとしての『機動戦士ガンダム』の特徴でもありました。
しかし問題は――初代ガンダムの長所をそのようなリアリズムに置くと、『Zガンダム』以降のガンダムシリーズが描こうとした問題意識から、取り残されてしまう、という事でした。他でもない
『Zガンダム』以降、主人公のガンダムパイロットたちは敵の総大将と直に言葉を交わすシーンが必ず入るのです。
富野監督はとあるインタビュー記事で、次のように言っています。
体制が例えば戦争やるって言った時に、戦争の是非は、それは言えない。そうすると、つまり『個』というのは、実はどこかで体制に係わってる。それが現実です。一番気の毒なのは、死んでいった奴がいるわけね。実はハナから勝つなんて思ってないのに、『お前ら聖戦だから行け』って言われてさ、死んじゃったのよね。で、死んじゃった奴(人達)に対して、行けって言った奴は、いったい何をやったのかという問題。その意志ルートってのをつなげていく作業は、結局、近代人現代人も含めてなんだけれども、実は、ほとんど出来る回路は持ってない。そういう認識があるんです。(切通理作『ある朝セカイは死んでいた』 太字は筆者による)
戦争という問題を総体として考えた時に、その戦争の実行を決断し、一介の兵士たちに戦地へ「行けって言った奴」を問うこと。富野監督の関心がそうした部分に向いた結果、リアルな戦場描写としては荒唐無稽であるはずの「少年兵と敵の総大将が会話を交わす」シーンが、『Z』以降のガンダム作品で繰り返し描かれたのです。
第41話の解説でちらりと書いたように、『Zガンダム』以降、敵組織の親玉が普通にMSに乗って戦場に出てくる、という「リアリズムから言ってあり得ない」状況が頻発するのですが。なぜそのような事が起こったかというのも同じ理由で、戦争を指揮している者と主人公との会話を描き、「行けって言った奴」を問う、という問題意識が80年代以降のガンダム作品に一貫して流れていたからなのでした。
一方、初代ガンダムの最大の特徴をミリタリー的な「リアリズム」に置き、その部分をこそ最大の価値として認めてしまうと、上記のように戦場のど真ん中に敵軍の指揮官がMSで出てきてしまうような「リアルじゃない」情景は否定されるしかありません。
そして、リアルな戦場である限り、一介の兵士に過ぎない主人公は、戦争という大状況に独力で影響を与える事はできません。戦争を終わらせる事も、「本当の敵」を問う事すら、出来なくなってしまいます。
つまり。「リアルな戦争」を描こうとすればするほど、その作品世界の主人公、そしてその主人公に感情移入する視聴者も、「戦争とは何か」「戦争という現実をどう考えるべきなのか」という設問すら、できなくなってしまうのです。
現に、戦場の指揮官としては考え方が甘い事から、「アマちゃん」と部隊員に呼ばれていた『08MS小隊』の主人公シロー・アマダも、「目の前の犠牲者をいかに減らすか」という思考はできますが、「この戦争全体をやめさせる」といった問題意識には至りようもありません。「リアルな戦争」における一介の兵士にとって、戦争というのは「覆しようがない大前提」でしかないからです。描くことのできるドラマは、「大前提となった戦争状況の中でどう生きるのか」という枠内に限られてしまいます。
もちろん、我々ももし実際に戦地で一介の兵士となる事があったなら、その時には悠長に戦争論などを語っている場合ではなくなります。しかし幸いにも、我々は平和な国で、悠長にモノを考える事の出来る幸福に浴しています。想像力を「リアルな戦争の一介の兵士」に限ってしまう事は、そうした「総体としての戦争」を考えるというチャンスを、閉ざす行為でもあるのです。
初代ガンダム、そして一年戦争という時代設定を愛好したガンダムファンたちは、ミリタリー的なリアリズムを楽しむことと引き換えに、ガンダムシリーズが進んでいった問題意識の進展から、取り残されてしまったのでした。それが、ファーストガンダム世代の、そしてフリット・アスノの失敗です。
実は、この時点で既に、AGEという作品の終着点を示すヒントが示されています。
アセムが「あなたの決断には地球の、人類の運命がかかっている」と言っているように、実は連邦軍全体を動かす事の出来るフリットの立場は、一介の兵士ではなく、戦争全体をどのように動かすかについて影響を及ぼせる位置です。老フリットが占めている立ち位置は、初代ガンダムのアムロや、少年期のフリットのように、戦争という大状況にコミットできなかった頃とは全く違っています。
そう、初代ガンダム世代が今や40〜50代で、社会を実際に動かす事ができる世代となっている事と、パラレルです。
そうであるにも関わらず、この時点のフリットは、連邦とヴェイガン(UE)との戦争状況を所与のもの、大前提として、少年の頃と変わらない「UEを倒す」という目的に邁進するという意志しか示していません。
未だにフリットの内面は、「一介の兵士」のままなのです。
実のところ、初代ガンダムが成功した要因である「戦場のリアリズム」を緩めてまで、こうした「一介の兵士」という想像力から離れて「戦争全体」にアプローチしようとしたのが、続く80〜90年代ガンダム、アセム・アスノの世代でした。
ところが、そのアセムの世代もまた、こちらはこちらで失敗した部分も少なくありません。次回、「破壊者シド」のストーリーを追いながら、今度は80〜90年代ガンダム世代の希望と限界を追ってみたいと思います。
というわけで、今回はここまで。
※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。