吸血鬼ドラキュラ


吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)

吸血鬼ドラキュラ (創元推理文庫)


 以前、『ドラキュラの遺言』という本を読んで、気になって買ったままになっていたのを今さら読んでみました。
 そして、想像していた以上に面白かったのでした。



 もちろん、純粋に物語として読んでも、展開の変転があちこち工夫されていて面白いのですが。しかしそれ以上に、この時代だからこそ臨場感を持って書けたらしい、いわゆる「近代と前近代の戦い」みたいな事が非常にビビッドに浮彫りになっていて、その辺りをうがって読むのが非常に楽しいです。


 この話、もし最初から最後までトランシルバニアから出ないまま進んでいたら、どんなに巧みに書かれていても凡作だったと思うのです。
 序盤こそ、ジョナサン・ハーカーがトランシルバニアに出向いて、ドラキュラ伯爵のホームグラウンドで怪異に遭うわけなのですが……俄然面白くなってくるのは、伯爵が近代国家イギリスへ殴り込みをかけて来てからです。
 最初はドラキュラが好き放題にしているのですが、ヴァン・ヘルシング教授が登場した辺りから、怪異と科学の異種格闘技戦のようになっていきます。ドラキュラ側がコウモリに変じたり、血を吸った相手を眷属にできたり、狼なんかを使役したりするのに対して、ヘルシング教授を中心にした主人公たちは、情報によって立ち向かっていく。
 そう、ここでとられている人間側の方策というのは、明らかに情報戦なのです。それぞれが体験した事を記した手記は、ミナ・ハーカーの手によってタイプライターで活字化され、ドラキュラに立ち向かう対策チーム全員に回覧されます。そのように互いの体験・見聞を共有し、さらに新聞などの公共メディアの情報を総合する事で、「ドラキュラ包囲網」が出来上がっていく。この展開は非常に、いろいろと示唆的で面白かったです。
 最近のライトノベルみたいに、直接対決がメインになるわけじゃないのですね。むしろドラキュラ伯爵の寝床になっている棺がイギリスのあちこちにばら撒かれているのを、突き止めて押さえていく展開になっている。何故かと言えば、おそらく「吸血鬼」というのが感染症のアナロジーになっているからなのでしょう。通常、ただの怪異というのは単に追い払えば良いだけで、完全に駆逐する必要はない。しかし、「感染症」と「反体制」のアナロジーになっている怪異だけは別です。感染症は、徹底的に撲滅しなければ解決しない。結果として、この『吸血鬼ドラキュラ』という話も、どこかアウトブレイク対策の包囲網のような展開になっていきます。


 また、一見したところ、そのように先進的なヘルシング教授が、直接ドラキュラを葬り去るのには、心臓に杭を打ったりニンニクの花を使ったりといった、古俗にのっとった方法をとっています。しかしこれも、「そのような開明的な人をもってしても、旧弊的な方法を取らなければドラキュラに立ち向かえなかった」と読むべきではないように思います。
 ヘルシング教授がそのようなドラキュラ対策の方法を知り得る手段は、現地の人に直接聞いたり、現地のアイテムを入手して使用したりというわけではありません。文献などに掲載された情報の再構成なので、いってみれば文化人類学的な手法によっています。恐らくはカトリックプロテスタントの違いもあるはずですので、その辺りも含めたアレンジが加えられている事は想像に難くありません。
 だとすれば、このような対ドラキュラ処置法もまた、ヘルシング教授の先進的な姿勢のものと考えた方が良いような気がします。



 先に名を挙げた『ドラキュラの遺言』という書籍の前半は、正にメディア論の観点から、なぜドラキュラ伯爵が敗退したのかに言及しているのですが、今読み返すと多分かなりその論点が明確に分かりそうな気がします。ドラキュラ伯爵とヘルシング教授とでは、「情報」というものの扱いに決定的な違いがあったようです。



 そのほかにも、たとえば海路で逃げ出したドラキュラを追うのに、鉄道を使用する事で先回りして待ち伏せをする事が出来たり、前近代の怪物vs近代技術の異種格闘技戦は見所がたくさんで、読み応えがありました。いやいや、この時代の怪奇小説は、こういう楽しみ方の視点があると実はかなり面白いのかも知れない。俄然、興味が湧いてきたところです。
 時間を見つけて、『フランケンシュタイン』とかも読んじゃおうかなー。