これでは軍閥政治ではないか!

 今回で、『ガンダムAGE』各話解説はアセム編までが終了しました。
 そして次回からのキオ編以降ですが、記事を更新するまでに少し長めにお時間をいただくことになると思います。
 これまで述べてきたとおり、私の見立てではフリット編がファーストガンダムまで、アセム編がZからガンダムXまで、そしてキオ編が∀以降の各ガンダムをシナリオに取り入れて作られています。
 そのため、キオ編以降をきちんと解説するためには、ガンダムSEEDシリーズなどをちゃんと頭に入れておく必要があるのですが……実は現在、筆者は『SEED』、『SEED DESTINY』、『00ガンダム』といった作品の終盤をきちんと見ていません。
 より充実した解説記事のため、これらの作品を見終えてから先に進めたいと思いますので、そのための時間をいただきたく。
 お待ちいただいている方には申し訳ありませんが、なにとぞよろしくお願いします。

 機動戦士ガンダムAGE 第28話「地球圏の動乱」

     ▼あらすじ


 コロニー・ノートラムを巡る攻防が決着してから一年。「天使の落日」が起こった日に催された慰霊祭「勇気の日」にて、地球連邦首相フロイ・オルフェノアの演説の最中、フリット・アスノは演壇に乗り込み、オルフェノアがヴェイガンに通じていた事実を明かして彼を拘束してしまう。
 一方、用済みのオルフェノアを始末しようと襲い来るヴェイガンのメデル・ザントを、特務隊仕様の白いAGE-2 に乗ったアセムは迎え撃ち、撃破していた。
 やがて、フリットは連邦内部でヴェイガンに通じていた内通者たちを一掃し、政権をまるごと入れ替える。その一方でアセムはロマリーと結婚式をあげるのだった。




      ▼見どころ


 アセム編から、次の世代へと移り変わる過渡期を描く第28話。
 同時に、フリット、アセムそれぞれが大きな決断をし、第16話以来の動向が一つの終着点を迎える事になります。
 AGEのストーリー上でも小さくないターニングポイントとなっている話です。手間を惜しまず、アセムフリットとアスノ家の二人の主人公を巡る動きを追って行きたいと思います。


 まずはフリットについて、ですが……彼を巡る動向を語るには、この話が下敷きにしているストーリー展開のひな形について、考える所から始めなければなりません。『逆襲のシャア』によって事実上ピリオドが打たれたはずの「連邦とジオンの物語」が、それこそ亡霊のように何度でも復活していく、その端緒になったもう一つの80〜90年代ガンダム総括としての、『0083』です。



      ▽もう一つの80〜90年代総括:0083


 この第28話において、いくつかのセリフにおいて意識されていると見られるのが、『0083 スターダストメモリー』です。
 冒頭で、地球連邦首相のフロイ・オルフェノアが演説を行っています。



「誇りを持って戦い、幾度となく理不尽な侵略を退けた。勇気あってこそ、ヴェイガンに勝利することができたのだ!」


 ガンダムにおいて、こうした「演説」は名物の一つです。ギレン・ザビの演説やクワトロの演説など、ガンダムファンの語り草となった演説は多くあります。
 しかしここで、オルフェノア首相の演説が連想させるのは、ギレンの演説でもクワトロの演説でも、シャアの演説でもありません。
 地球連邦側が、戦後にその勝利をアピールする演説。しかも中途で邪魔が入り、演説者自体が退場を余儀なくされる演説。



「宇宙歴0079……つまり先の大戦は、人類にとって最悪の年であった。この困難を乗り越え、今また三年振りに、宇宙(そら)の一大ページェント・観艦式を挙行出来る事は、地球圏の安定と平和を具現化したものとして慶びに堪えない」


 そう、『0083』のグリーン・ワイアット演説です。
 ワイアット演説を聞いたデラーズ・フリートのガトーが



「情けない! あのような禍々しい物言いを連邦に許すとは!」
 と呟いたように、オルフェノア演説を聞いたメデル・ザントもまた



「せいぜい吠えるがいい、貴様など、もはや用済みなのだ」
 と演説に対してリアクションを見せています。



 そして、この演説の後に起こる事件。メデル・ザントはオルフェノア口封じのためにこれを襲撃し、そこでアセムの駆る白いAGE-2 と交戦します。
 これまでのアセム編において、連邦軍フリットの元に歴代ガンダム史上前代未聞の統制を見せていたわけですが、オルフェノアのヴェイガンへの内通がフリットに暴かれて後、ここで「腐敗した連邦」というモチーフが急浮上します。
 ここで、メデル・ザントが



「腐りきった連邦軍の実態は、今まさにさらけ出されたではないか!
「信念なき軍に、我らヴェイガンは負けはせん!」


 第22話以来久しぶりに、アセムに対して「戦う理由」が問われるわけです。それに対するアセムの答えについては後に触れますが……このメデルのセリフもまた、0083を強く意識したもののように思えます。



「腐った連邦に属さねば、貴様も苦しむことはなかったろうに!」


 というように、どうもこの辺りの展開からは、『0083』をなぞるような展開が目立ちます。
 ついでに言えば、メデル・ザントがこの回で駆る異形のMS、ゼイダルスと、その援護についている2機のドラドですが。




 このフォーメーションに、見覚えはありませんでしょうか。
 ゼイダルスはそれまでのヴェイガンではあまり見られないデザインを持った特徴的な機体ですが、格闘戦に特化した機体であるように見えます。そして、2機の汎用MSの援護を受けて、格闘戦用MSが突撃し敵を突き崩すというこのフォーメーションは、



 グフとザク以来の、ジオン軍が得意とした戦型だったりします。
 ノートラム戦の敗北後に、ゲリラかテロの如く少数で現れて演説を襲撃するこの回のヴェイガンからは、どうにも「ジオン残党」イメージが強くかぶせられています。
 そしてそうであればこそ、この話の末尾で語られる、フリット・アスノの事実上の政権奪取、そして「私の目的はヴェイガンの殲滅」という発言からは、当然、



0083』のラストに語られた、ティターンズ結成という流れが暗示されていると見えます。


 そう、恐るべきことに、かつてフリット編において主人公であったガンダムパイロット、フリット・アスノは、ここではまるでジャミトフ・ハイマンバスク・オムのような強硬派のイメージをオーバーラップさせられているのです。


 なぜ、このような事になったのでしょう?
 アセムが80〜90年代のガンダムファンを表すとするなら、フリットファーストガンダム世代を表している事になります。その彼が、このような強硬派に描かれている事は、当然この世代の『ガンダムAGE』への評価を厳しくしたはずです。
 そのようにしてまで、『AGE』はフリットを通して何を描こうとしたのでしょうか。
 ヒントはやはり、この回に強く暗示されている『0083』なのだろうと思います。


 『Z』から『逆襲のシャア』に至る、富野由悠季監督の手になる一連のガンダム作品は、確かにガンダムの世界観を広げ、ストーリーとしても充実した作品群でした。が、『ガンダム』にミリタリー的な楽しみを見るファン層にとって、サイキックウォーズさながらな『Z』の戦闘描写や、『ZZ』前半のふざけた空気など、決して好評だったとは言い難い事も確かでした。
 ガンダムに無数のハッチやアンテナを描きこむ、近藤和久氏の描く「近藤ディティール」。世界観設定や宇宙世紀の戦史を補完する同人誌『ガンダムセンチュリー』。多数の局地戦用MSを生み出したMSV。兵器としてのリアリティを強調したガンプラの作例。ファーストガンダムにミリタリー的なリアリティを求めたファンたちにとって、理想のガンダム作品というのは、また別の方向にあったのです。



 だからこそ、もはやジオンが登場しない新世代ガンダムガンダムF91』と同年、連邦とジオン残党の戦いをミリタリー的なリアリティ重視で描いた『0083』が発表されました。
 皮肉な話ですが。ファーストガンダムにミリタリー的なリアリティを求めていたファーストガンダムファンにとって、「連邦と戦い続けるジオン」と、「ジオンと戦い続ける連邦」は、必要なものだったのでした。この手のジオン残党を描く作品に登場するジオン軍人たちが、頑なに「連邦政府とジオン共和国との終戦協定」を認めたがらないのも、故ない事ではありません。
 結果的に、そうしたファンたちは、フィクションとはいえ「戦いが終わらない事」を望んでしまっているとも言えるのです。


 この『0083』路線は、『逆襲のシャア』とは別の意味で、80〜90年代ガンダムを象徴するもう一つの基底路線となっていきます。それは、現在まで確実に続いています。
 そして、こうした「連邦vsジオン」の構図の再生産は、ガンダムと言う作品の歴史にも当然強い影響を残していきます。


Zガンダム』において既に、エゥーゴティターンズアクシズの三つ巴の戦いになっていた事からも分かるように、今の時代において、単純な「敵と味方」の二分法はかなり成り立ちにくい情勢にあります。現代史においても、冷戦終結以降、世界地図を単純に二色に塗り分ける事は不可能です。
 『F91』以降の宇宙世紀富野ガンダム、そして非宇宙世紀ガンダムのテレビシリーズではそうした世界情勢をかなり意識的に取り入れてきましたが。それにも関わらず、ガンダムシリーズ展開の上でどうしても一つの柱となるミリタリー重視のガンダムシリーズOVAやゲーム作品においては、この「敵と味方」の二分法というシンプルな構図が温存されてしまうのです。


 ……フリット・アスノの強硬姿勢は、こうした状況を暗に映していると見えます。
(そして、世界はもはや敵味方の二色に単純に分ける事はできない、と肌身で感じているアセムの世代は、のちに第三勢力を立ち上げ状況をかき回す事で、このフリットの世界観に抵抗していく事になるのですが……それはまた、後の話)



 いずれにせよ、ここでフリットとアセムの道が分かたれる、決定打が密かに打たれたとはいう事ができるでしょう。
 この回のフリットといえば、オルフェノアを追放した行為はどう見ても、軍事クーデターです。
 そしてナレーションにて淡々と、オルフェノア首相が極刑に処されたこと、そして



 ヴェイガンと通じていた連邦内の人物が次々逮捕・処分されていった事が語られます。
 前回書いたように、フリットは咄嗟にヴェイガン兵を撃たずにいたり、ヴェイガンの撃墜が実は少なかったりするシーンがあり、これをもって「フリットは口で言うほど過激派ではない」といった立論をされる方もいます。確かにフリットにはそういう側面もあるのですが、しかしこの回でナレーションされる、ヴェイガンに通じていた連邦構成員を次々放逐した(恐らくは少なくない人物が極刑に処されたと見える)事も、忘れてはなりません。
 オルフェノア首相は言います。



「わたしが、ただヴェイガンに通じるだけでなく、地球のための折衝を、イゼルカントと続けたからこそ」地球は壊滅的な被害をまぬかれた、と主張するのです。
 この発言は当然、真に受ける訳にはいかない内容です。そもそも相手に弱みを握られている状態ですからね。交渉も蜂の頭もあったものではなく。
 これに関するフリットの認識は極めて明確で、



「あなたは連邦を、いや、地球を売ったのだ!」
 要は売国奴、というわけで。この辺りの言葉選びも、ある意味非常に今日的ではあります。まぁ、弱みを握られた上、流した情報の対価までもらってれば、こう呼ばれるのは無理もありませんが。
 しかし一方で、フリットは「ヴェイガンとの和平の日は来なくなるぞ」と脅すオルフェノアに、平然と答えます。



「元よりそのつもりだ。私が目指すのは、ヴェイガンの殲滅なのだから!」


 ついに、フリットが「ヴェイガンの殲滅」を自分の目的として公言した瞬間です。



 さて。
 この「殲滅」という言葉は、これ以降のフリットを象徴する言葉として、視聴者からの揶揄の対象になったりしました。確かに過激な発言ではあります。
 しかしここではあえて、「殲滅」という言葉を単なる無思慮な蛮行と結論する前に、もう少し深く検討する必要について、書きます。
 それは確かに無残で悲惨な事ではあるのですが、しかし「殲滅」が合理的な結論としてあらわれる局面というのは、あるからです。


 そこで、大変唐突ではありますが――織田信長の話をしましょう(ぇ


 織田信長は加賀の一向一揆と対決する際、女子供も例外なく徹底的に殲滅しました。死者は数万人から数十万人。日本史上、武士が農民を恥も外聞もなく虐殺した空前絶後の出来事だったと司馬遼太郎は書いています。
 こうした事を、単に信長の残虐さとして捉える言説が世間一般によく見られますが……恐らくそうではありません。そこに理由を考える事は可能であると思います。
 なぜ、一向一揆に対して信長は徹底的な殲滅をしなければならなかったのか。
 それは現代史において、ベトナム戦争で米軍が多くの現地民間人の死者を出さざるを得なかった事、そしてイラク戦争イラクに侵攻した米軍がいつまで経っても撤退できずに苦しんだ事とも、つながってくる理由です。


 私見では、主な理由は二つ。
 一つは「戦闘員と非戦闘員の見分けがつかないこと」です。戦国武将によって組織された武士なら甲冑の有無で、軍隊ならば軍服で、戦闘員であるかどうかが判別できます。しかし一揆の農民や、あるいは民間人の格好をしたゲリラやテロリストは、一見しては危害を加えてくる相手かどうかが分かりません。たとえ女子供でも、銃を持っていたり、爆弾で自爆されたりすれば十分な脅威になり得ます。結果として、民間人をすら敵とみなして攻撃せねばならない状況もあり得ます。ベトナム戦争で、多くの米兵たちが強烈なストレスから、重い戦争後遺症になった理由の一つがこれです。
 このような勢力が潜在する地域を完全に制圧したいなら、「殲滅」は最も効率的な手段として選択肢に入ってきてしまいます。


 そして二つ目。「全体を統括する交渉相手が存在しない事」です。
 それがトップダウン式の組織であれば、組織のトップと交渉して和平を結べば、末端まで「戦いをやめろ」という命令を行きわたらせる事ができます。
 しかし、一向一揆の場合は、思想的なトップはいても、全体にくまなく命令を出してコントロールできるトップはいませんでした。戦力を構成しているのは、時にそれぞれ個別に自治を行っている村人たちだったりします。つまり和平交渉が成立したとしても、「そんな事知らない」とばかりに独自判断で末端の兵たちが戦いを継続してしまうかも知れないわけです――ジオン残党のように。
 これでは、停戦がしたくても、停戦のしようがありません。出来る事は、戦闘意志のあるすべての敵の殲滅しかない――という事になります。
(そういう意味で、ティターンズの設立は世間で思われているよりも、理のある出来事だったと言えると思います。和平に乗るつもりの連中はジオン共和国との終戦協定でもう戦いを止めているはずなので、デラーズ・フリートのようなジオン残党はおよそ交渉によって和平する対象にはなりにくく。また事実、現時点で宇宙世紀0096年まで(火星に残ってた連中を勘定に入れれば宇宙世紀0111年までだw)ジオン残党による襲撃は続いた事になるのですから、それらに対処する組織は当然生まれえる道理です。もっとも、そういうティターンズが、デモ封殺のために毒ガス事件を起こしてしまうというのがまた、ガンダムらしい皮肉なのですが)


 ちなみに、21世紀に本格的に始まった「テロとの戦争」は、大体こういう戦いです。たとえビン・ラディンを殺害したとしても、戦いは終わらないのです。


ガンダムAGE』において、ヴェイガンは基本的にはイゼルカントの統制下にありますので、和平の余地はあるように見えます。しかし、前回ヴェイガンが地球に降下、潜伏した事で、彼らはより「テロリストやゲリラ」に近い描かれ方をしていく事になります。
 何より、それがキオの世代――『ガンダムSEED』以降の世代においては当たり前になりつつあった、ゼロ年代の戦争観なのでした。
(これも余談ですが。ガンダムとは常に時代を先取りしてきた作品群です。90年代には既に、テロリストを主人公にした『ガンダムW』という作品が作られていた事は、今思うと驚愕に値します。富野監督が手掛けていないアナザーガンダムにおいても、「ガンダム」は次代を先取りし描いてきた事がお分かりになるかと思います)



 奇しくも。この第28話において、オルフェノア首相は『ガンダムSEED』を連想させるセリフを口にしています。



「わたしという交渉人を失ったら、ヴェイガンと連邦が歩み寄る日は、永久にこなくなるぞ! 地球をめぐり、この戦争は、どちらかが完全に滅びるまで続くことになる!」


 これは、私見では下記のセリフを念頭に書かれた脚本です。



「ならどうやって勝ち負けを決める? どこで終わりにすればいい? 敵である者をすべて滅ぼして……かね?」
「やっぱり、どちらかが滅びなくてはならんのかねぇ?」


 砂漠の虎、アンドリュー・バルトフェルドのセリフです。
 放映当時、このセリフは視聴者から散々なツッコミを受けました。戦いはどこで終わりにするかって? そんなの、終戦協定を結んだ時に決まってるじゃないか。この脚本を書いた奴はそんな事も分からずに戦争ものを書いているのか、と。
 しかし。
「テロとの戦争」の時代に入り。アメリカが、終戦協定を結ぶ相手すら見つけられないまま、イラクに派遣した兵を引き上げるのに8年以上もかかった現在の状況を見て。我々は同じようにこのセリフを笑えるでしょうか?
 あるいは。バルトフェルドのこのセリフを笑った人たちは、パレスチナでの紛争が未だに終わっていない事を、どう思っているのでしょうか?


 実は、バルトフェルドのこのセリフは、21世紀の戦争を考えた時、極めてアクチュアルだったという事になります。
 そして。オルフェノアの口からバルトフェルドのセリフが連想させられるという形で、いよいよこの『ガンダムAGE』はキオの世代へ、ゼロ年代ガンダムの時代へと移行していく事になるのでした。そう――帝国主義植民地戦争の世紀から、憎悪とテロリズムによる戦争の世紀へ。


 フリット・アスノは、ついにその扉を自ら開けた事になるのです。



 ちなみに余談ですが。
 メデルの駆るゼイダルスが、フリットやオルフェノアの目の前まで迫ったシーン。首相は怯えを顔に出しますが、フリットはいささかも動揺しません。



「安心しろ、あなたを殺させはしない」


 直後、アセムのAGE-2 が現れ、メデルのオルフェノア暗殺を阻止します。
 この場面、フリットがアセムに寄せている信頼は絶大です。
 フリットの目線から見れば、アセムフリットの導きで軍に志願し、Xラウンダーにはならなかったもののフリットの期待にかなう軍人に育ち、フリットの活動を支える腹心の部下になってくれた、という事になります。盟友・ウルフの愛弟子でもありますし。
 もしかしたら、「自慢の息子だ」くらいは思っていたかも知れません。
 しかしでは、当のアセムはどう思っていたかと言うと。少なくとも、フリットが思っているような「理想の息子」像とは、微妙にずれている事は確かです。
 というわけで、次はアセム・アスノを追ってみましょう。



      ▽白いAGE-2 のアセム



 確かに、この回のアセムは、かつてに比べて見違えるほど成長しています。
 メデル・ザントを抑え込む戦闘能力は、スーパーパイロットとしてノートラム戦以来持っていた力かも知れません。が、彼の成長は別の所にあります。



「コンラットは、西側ナショナルモールの入口、ナディアは、正門広場の南側進入路」
「北側は、警備隊がすでに配置済みだ。俺は東の丘陵地帯で警戒にあたる、以上」


 そう、彼は特務隊の隊長として、部下を持つ立場になっています。
 しかもこれは、決して親の七光り的な、見かけだけの事ではなさそうです。メデルの襲撃が知らされた時、アセムは瞬時に以下の判断をしています。
「北側? 一番警備の厚いところだぞ……!? ナディア! コンラッド! 敵は北に現れた、現場には俺が向かう。だが、陽動の可能性もないとはいえない。お前たちは動かず、持ち場周辺の警戒を厳にしろ!」
 こういう時、ただの説明だけでなく、実際のセリフや行動で有能さを描けるのは良い作品です。
 アセムのこの判断は、冷静で的確なものだと評価できるでしょう。
 一番警備の厚い場所に敵が現れた。この不自然な状況に対して、即座に陽動の可能性を想定したのは順当でしょう。
 しかし同時に、「敵が出たのは一番警備の厚い場所なので、アセム自身も陽動を警戒して現場に留まる」という判断も採らなかった。この事も考慮しなければなりません。
 つまり、敵がもしシャルドールのような一般量産機では歯が立たない特機だった場合、ガンダムでなければ対応が出来ません。警備の厚い場所に敵が現れたという状況から、アセムはその可能性を想定したわけで、事実この予測が当たった事になります。もしここでアセムが判断ミスをしていたら、オルフェノアもフリットも死んでいたでしょう。


 かつてアセムは、フリットに指摘されていました。



「これからはもっと戦況をよく見るんだ」 (第22話)


 あれから一年。アセムは確かに「戦況を見る」ことができるようになっています。
 確かに素晴らしい優秀さで、フリットが信頼するのもうなずけます。


 しかしアセムは、作戦上ではフリットと完璧な連携をとれていましたが、フリットの意志に共鳴する人物ではありません。
 メデル・ザントに戦う理由を問われたアセムは、次のように応えているからです。



「俺は自分や、組織のために戦ってるんじゃない! 俺には、かけがいのない人たちがいる! だから戦うんだ! 守り続けるために!」


 ここで、何枚かフラッシュバックされる「かけがえのない人たち」の中に、ロマリーやユノアに混じって、ゼハートも映るわけなのですが。
 しかしともあれ、ここで直前にフリットが言い放った「ヴェイガンの殲滅」とは対極的な「戦う理由」が示された事になります。火星圏に本拠を持つヴェイガンを殲滅するためには、こちらから打って出なければなりませんが。アセムはあくまで「守るために戦う」と言っているのです。
『Vガンダム』前期OPの歌詞に「終わりのないディフェンスでもいいよ」というフレーズがありますが、80〜90年代を戦ったアセム世代の「戦う理由」は、やはりそこに落ち着くのでした。
 メデル・ザントが襲撃してきたからこそ、「防衛」するためにアセムは戦えています。しかしでは、アセムの「戦う理由」はこれでもう、揺らぐことなく盤石でいられるでしょうか?




 これに先立ち、回想の中でアセムとロマリーの会話が描かれています。



「……私は、子どもだったのよ。軍に入っても結局、学生気分のまんま……アセムや、ゼハートに憧れて、いつも二人の影を追いかけてるだけだった」
「勝手に憧れて、自分の理想像をアセムたちに押し付けてた」


 これに対して、アセム



「謝る必要なんてない。今も昔のままのロマリーでいてくれるんなら、それでいいんだよ」
 と応じています。


 ソロンシティで、「ゼハートはヴェイガンなんだ」「もう戻れないんだ」というアセムの発言を拒み、敵味方に分かれてもなお学生時代の仲を守ろうとしたロマリーでした。アセムはダウネス内部で再びゼハートと協力するという体験を経て、ようやくロマリーの発言や行動の真意が分かったのかも知れません。
 そして、



「俺は、大切な誰かのために戦いたい。その気持ちはいつだって変わらない。俺は守り続けるよ、君を……!」


 第23話で決意した「今は、君を守るよ」が、再びアセムの戦う理由になり得たのでした。
 結局これが、90年代少年向けエンタテインメントにおける「戦う理由」の行きつく先であった事は、以前記しました。アセム編はこれを掲げる事で、一時幕引きとなります。


 ……しかし。
 戦争というのは国の目的を達成するために行うもので、末端兵士の目的を達成するために行うのではありません。両者が重なっているうちは良いのですが、これが食い違った時、個人的な目的を達成させろというワガママは、軍という場所では通らないでしょう。
 折しもフリット主導のもと「ヴェイガンの殲滅」を目指す組織の中で、アセムがいくら「組織のために戦ってるんじゃない」と言っても、いずれそうした軋轢は避けられないはずです。
 事実、アセムはこの後、一時物語の舞台から姿を消すことになります。


 それは同時に、アセムフリットと袂を分かつ事でもありました。その事を象徴するように、



 セムとロマリーの結婚式に、フリットの姿はありません。
 結婚式シーンの幸せそうな様子とは裏腹に、物語の不穏さはますます増してくる事になります。
 そしてそのような中で、ついに第三の世代、キオ・アスノが登場する事になるのでした。



 次回、いよいよキオ編に突入です。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次

 Xへの手紙・私小説論


Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)

Xへの手紙・私小説論 (新潮文庫)


 なぜか唐突に小林秀雄。時々、全然関係ない分野の本を手に取りたくなるのです。特にここしばらく、いわゆる「古典」やそれに準ずる有名書を読みたい気分が高まっていたのでした。


 で、この本なのですが。
 予備知識なしに手に取ったので、評論集だと思っていたのですが、前半に収録されているのは小説でした。この人、小説も書いてたのかーとか、今さらな事に驚いてみたりするわけで。
 パッと読んだ感じ、志賀直哉っぽいテイストなのかなと適当に思ったりしたのですが、ただ個人的には、いまいちピンと来なくて。何というかこの人は、いかにも文学っぽい思索や情景描写を書こうとしてる時よりも、ふとした瞬間にぽろっと、日常の何気ない滑稽な一場面みたいなのを書いた時に一番味が出る気がするんです。冒頭の短編で、船の中で煙草を吸ってて、煙を吐いたらちょうと船のエンジンの振動で、思いがけなく輪の形になってポッポッポと勢いよく噴き出た、とか書いてるのが可愛い(笑)。


 そして後半ですが、これはもう、参ったとしか言いようのない読後感でした。私は小林秀雄がどのように受容されてきたのか、例によって知らないので本当に単なる感想ですけれども、とにかく言葉の使い方の巧みさが半端ではなく、ただ圧倒されました。ゲームのスーパープレイをギャラリーとして口開けたまま眺めてる、みたいな心境w


 「私小説論」も良かったのですが、何より「新人Xへ」がね、言葉選びや話の運びが巧みなだけでなく、後発世代を祝福応援しようという気持ちと、同時に奮起を促すべく挑発するところと、それがすんなり入ってきて、読んだ後しばらく嬉しくてニヤニヤが止まりませんでした。これは今、こんな時代にあえて小説を書いているすべての人は読んだ方が良い。絶対元気になれると思う。
 また、「表現について」もすごすぎて唸るしかない、という内容でした。以前『詩とはなにか』なんて本を読んだりした事もあったりして、詩って結局何なのか、詩を書くってどういう行為なのか、詩を鑑賞するってどんな風にすればよいのか、ずっと分からないままだったのですが。なんと、この小林秀雄の一文を読んで、その疑問が氷解したのですよ。素晴らしく明晰な説明で、完全に納得できました。こんな事ってあるんだ。これが批評家と言うものの実力だと言うなら、確かに偉いもんだなと。
 例によって、文意を損なわずに要約する自信が無いので、ここにはその内容は書きません。気になった方は買うべきですw
 他にも感心した文章は多々あったのですが、特に感銘を受けたのは上の二つの記事でした。


 そう、この人の文章は確かに、断定口調と気の利いた言い回しが適度に配されていて、いわば読み物として気持ちよく読め過ぎてしまうんで、かえって危ないのかなという疑念は読んでいて浮かばないでもなかったですが。そういう意味では、坂口安吾の「教祖の文学」の指摘も少しは分からなくもない。
 しかし、この人がただの修辞学の人だとも、実際文章に触れてみると、全然思えないのも確かでした。少なくとも小林秀雄は、小説の作者が執筆という孤独な作業を戦い抜いて作品を仕上げるのだという、その奮闘は必ず尊重しているように思える。それは彼が実作者でもあったからなのかな、などともこの本のお蔭で思う事ができました。
 いや、やっぱ、大したもんだ。もっと早く読んでおけばよかったと後悔した次第です(笑)。

ラノベの中の現代日本



 書店店頭で見て衝動買い。
 アニメ批評はなんだかんだで結構見ますけど、ラノベ批評の本ってあんまり見ないんで、気まぐれで。


 内容はというと、ラノベについてがっつり論じるというよりは、村上春樹村上龍村上隆とかの発言や作品を元に、時代ごとの変遷をたどりつつラノベにつながるという、流れの解説に重点が置かれていました。
 こういう時、必ず出てくるのが村上春樹の話で、そちらが未読の私は必ず置いてきぼり状態になるのですけれども(笑)、まぁ論旨はとれるから良しとする。いずれ村上読もう(ともう何年も言い続けている)。
 なんだかんだで、両村上を引き合いに出して語られる「バブル前後の時代」についてはよく書けていると思えました。
 しかし肝心の、ゼロ年代以降のラノベに関する記述はどうか。どうなのか。


 いくつか、非常に冴えた指摘もあるのですけれども(たとえは『ハルヒ』ラストでキョンのモノローグの中にさりげなく挿入された「銃社会」という言葉を拾ったりするところ)、全体としては物足りないという感慨の方が勝りました。
 この物足りなさの原因は二つあって、一つは「引き合いに出されるラノベ作品が少ない」ように思える事。特にこの本がライトノベルを知らない人を想定して書かれたとするなら、この本で言及されるラノベはちょっと少ないし、また偏ってもいると思う。『僕は友達が少ない』『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』、そして『ハルヒ』など。ここで取り上げられるのはラブコメに近い作風のものばかりなので、ライトノベルというのがアクションからSFからファンタジーから時代物から、何でもアリのフィールドであるという前提を読者にまず提示する段階が飛ばされている気がします。
 二つ目は、ライトノベルの射程を示すのに、提示される問題意識の軸がちょっと遠いような、そんな隔靴掻痒感を感じたことでした。ライトノベルというジャンルを横断的に解析する事で、示すことができる「現代日本」へのアプローチ法はいくらでもあるわけで。その中で、最終的に「ノスタルジア」と「ノストフォビア」という軸は、本当にライトノベルと呼ばれる作品群の本質を射抜くのに最適の軸だったのか、と。なんだか、少し遠い気がするのです。



 ライトノベルを書いている作家たちの世代にとっての日本が、「ファミレスやコンビニやラブホテルのような」情景を前提とせざるを得ないと語りますが。この言葉自体は東浩紀の本から引っ張ってきた語でしかない。それよりはむしろ、まずライトノベル実作中に描写された日本の実例を、もっと豊富に引用するなりなんなりして示す手間はとっても良かったのではないかと。
 実は、私がこの本のタイトルから期待したのはそうした分析でした。ライトノベル実作に、日本という国の情景がどのように描かれているのか。歴史的な位置づけの前に、まずはライトノベル自身に語らせる手順が必要だったように思います。


 この本がこのような章立て、構成で書かれたのは、やはりライトノベルを読まない層に対してライトノベルをアピールするためだったのだろうと思います。
 それはそれで大事な仕事だと私も頭では理解しているのだけれど、実のところ本音としては、ラノベなんて理解したがらない連中に理解させる必要ねーじゃん、などと乱暴に思っていたりもするのです。
 笠井潔が『涼宮ハルヒ』を論じて、「長門有希の沈黙は、ナチスに迫害されたユダヤ人たちの沈黙につながるのだ」みたいな事を書いた事が以前あったのですが。いやいやいや、そんな論評して何になるんだよ、というのが率直な感想だったわけでして(笑)。


 この本に引用されているラノベの文章を読んでみても分かりますが、ラノベ作家たちは実は、いわゆる「教養」と呼ばれるものも実はそれなりに持っている。作中でも実は、けっこう思弁的な問題提起をしていたりもする。
 ただ、通俗読み物であるという理由もありますが、かつての「教養」が読者に求めたような、そうした知識を「読者が知っていると前提する」「知っていて当然であるという態度を読者に対してとる」というような方法に対して、諦念があるように思います。「教養がないと読めない」ような作品を、彼らは決して書かない。ラノベ作者が作中に「教養」を忍ばせる時、それは必ず「読み飛ばしても支障が無いところ」に据えられます。今日において、「共通了解としての教養」なんて最早成り立ちようがないからです。
 ギャグやスラップスティックを展開し、あるいは非現実的な設定や道具立てをそろえる事で、「教養小説」的に読まれる事を徹底して峻拒する、それがライトノベルの「ライト」の所以なのではないかと思うわけです。長門有希を第二次大戦の歴史事象と結びつける言説が滑稽にしか見えないのも、そのためなんであって。


 だから、この本が一生懸命やっているようなアプローチでは、ラノベ以前とラノベとをつなげるのには少し足りないのじゃないかな、と思ったりするのでした。村上春樹作品と同じようにライトノベルを読んでも、ダメなんじゃないかと。
 それだったら、そうした歴史的な関連付けを一度あきらめて、思い切りライトノベルの中に耽溺する。そして、その作中で描かれている「ラノベの中の現代日本」を大量サンプリングし、その最大公約数を割り出す。そのような手順を踏んだうえで、これまでの日本と比較検討するという作業がようやく出来るんじゃないかと思うわけです。
 私がこのタイトルで本を書くなら、そうする。



 ……などと色々書きましたが。
 こうしたコンセプトの本が書かれること自体は、素直に喜ばしく思います。もっとライトノベル批評みたいな試みもたくさんあって良いと思いますし、その価値もあるんだと個人的には思っているので。
 ライトノベルに限らず、現代において広く人気を勝ち得ている作品に対しては、もっと批評の側からいろんな視点の提示はされるべきだと思う。『ワンピース』ひとつとったって、あれが世代を超えて読まれてるって異様な事だと思うしね。あんなあっけらかんとオープンに反体制で、既存ルールを確信犯的にぶっちぎる話が国民的人気になってるって、どういう事なのかって話はもっとされるべきなんじゃないかなーとか、ぼんやり思っているわけです。
 いや本当、お前ら村上春樹の話ばっかりしてる場合じゃないと思うぞ、っていう(笑)。取っ掛かりにするのは構わないんですけどねー。


 そんな感じで。

 機動戦士ガンダムSEED ASTRAY RE:MASTER EDITION1〜2



 アストレイ関係は前から読みたかったのです。メディアやゲームへの露出が多いわりに、なかなか手に取れなかったので。
 今回リマスターエディションとして出ていたので、せっかくだから押さえてみた。



 のっけから、まさかのミゲル・アイマンさん大プッシュで、ニヤニヤしながら読みました。CV:西川で脳内再生余裕でした(笑)。
 まぁ、基本的には気楽に読める話という事で、そんなに肩ひじ張る事もなく。ガーベラストレートの設定とかも思ってたよりさらにバカっぽくて(注・褒め言葉)大変面白い出来でした。
 武器会社みたいなのにアストレイ引き渡しを要求されて閉じ込められちゃった話が好きでした。あの危機脱出方法、なんか昔懐かしい『特攻野郎Aチーム』をちょっと思い出したの(笑)。
 単なる戦闘力だけですべてが決まるわけじゃない、っていう柔軟さはやはり好きなので、この作品も好きになれそうです。
 現在ガンダムに回せる資金が微妙に微妙なので、いろいろ工面しながら続きもゲットしたいと思います(笑)。

  生活雑記3

 記事タイトルを「生活雑記3」としましたが、「2」は一年以上前ですw
 そんなわけで、細々としたあれこれ。



 バージョンアップで本にエンチャントが出来るようになったので、何度か試してみたところ、わずか2回目で「シルクタッチ」がつく僥倖。
 人によっては、レベル30エンチャで出る確率0.6%だったとかいうシルクタッチのエンチャントブックですが。こういう時妙に引きの良さを発揮したりします。
 これは、いずれハサミにエンチャントして蜘蛛の巣をゲットする時に使いましょう。



 そして、ルーインヒルにエンチャントをする場所がまだ無かったので、手抜きでささっと作ったりもしてました。
 場所は、



 丸石製簡易倉庫の地下、こちらの階段の先に、



 つつましく、こんな感じ。


 この辺も、手を抜かず作るならエンチャント専用の建物作っても良いのですがね。しかしとりあえず今回はこんな感じ。



 他日。
 以前、柵の中の羊が逃げ出すため、穴を掘ってそちらに移したわけですが。羊がいなくなった後の柵が空いていたので、



 豚さんを引き連れて来て、



 新たに牧場に加えました。
 実のところ、この時点ではまだニンジンの生産体制が整ってなかったので、増やす事は出来なかったのですが。まぁ、そちらもいずれ進めることと思います。



 で、この辺りで1.5.1 にマイクラをアップデートしたのですが。
 このバージョンはご存知の通り、スケルトンの大幅パワーアップで話題になったわけでして。
 同時に、メイドさんに刺さった矢がプレイヤーと同じようにしばらく刺さったまま表示されるようになったので、



 戦闘後はこんな痛ましい状態を見る事が少なくない。
 実際、地下探索に出かけて、持ち物がいっぱいになるより先にメイドさんのお砂糖が切れて仕方なく帰還する、といった事態をこの時期初めて体験したのでした。以前は1スタックも持たせておけば、当分心配なかったのですがね。
 まぁ、装備が剣であるせいもあり、さすがにそろそろスケスポをトラップにする必要を感じ始めていたのですが……。



 そんな折。ルーインヒルからLSL拠点まで徒歩で移動しつつ、収集目標の砂漠の枯れ木などを集めに出かけたのですが。



 途中、意気揚々と黒曜石を集めたりして



 1.5スタックくらい集めたりもしていたのに、



 たまたま入った洞窟でご覧のような状態になりまして、



 じーざす。
 まさか鉄防具フル装備のチキンプレイで、メイドさんの戦闘補助つきでこのような失態を演じる事になるとは……。
 いや本当、このバージョンになってから難易度が体感でかなり上がりました。
(まあ、現在リリースされているバージョン1.6 ではさらに上がるんですけど)。


 そしてこの時は結局アイテム全ロストでして。
 まずい事に、シルクタッチのついたピッケルが一本もなくなってしまいました。
 以前書いたアイテム収集目標達成のためには、ダイヤを数千個にわたって集めねばならず。そのためには、シルクタッチでダイヤ鉱石を持ち帰ってフォーチュン付きピッケルで取り出すという行程は不可欠なのですが……。
 現在もレベルが溜まるたびにダイヤピッケルにエンチャントをやってはいますが、未だシルクタッチつきピッケルは出ないままです。非常に弱っております。


 まぁ、最後の手段として、この記事の冒頭で触れたエンチャントブックを使ってしまうという手もあるのですがね……うーん、もったいないよなぁ……。



 そんな感じで。


 とりあえずアイテム収集で、建材関係を早めに埋めてしまうべきだなというのが最近の目標です。そして、その後で建築用にさらに建材を集めておく。有意義な建築のためには、やはりあらかじめ資材をどれくらい用意しておけるか、が重要ですからね。
 まぁ、そのための秘策も用意してありますので、それもいずれ公開することと思います。


 とりあえず今回はここまで。