機動戦士クロスボーンガンダム 鋼鉄の七人 3巻
機動戦士クロスボーン・ガンダム 鋼鉄の7人 (3) (角川コミックス・エース 2-16)
- 作者: 長谷川裕一,矢立肇,富野由悠季
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 2007/12/01
- メディア: コミック
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ばっさりと、終わらせましたね。あー終わっちゃうんだー、というのが正直な感想。
ストーリーラインも、キャラクターも、嫌いじゃない。
でもね、なんか……食い足りないという気持ちは微妙に拭えないんだなぁ。
それは多分、私がこの作品に何かしら、もっと別なものを期待してたからなんだと思う。
思うに、「影のカリスト」「光のカリスト」っていう、敵の大ボスのキャラ造形の問題なのかな。
巨大な手の形になるディキトゥスのデザインとかも悪くない(その異様さが、地球圏の人とは違う感性を持った木星圏の人たちのメカである事を感じさせる、このシリーズの基本的なメカデザインコンセプトの面で)と思うのですが。でもね、なんかねぇ。
『クロスボーンガンダム』の続編だというなら、少なくとも一つだけ、必ず継承しなければならない問題意識があったと思うんです。
それが、「人がニュータイプにならずに争いを止める方法」であり、「人は人として宇宙とつきあっていけるか」という、無印クロスボーンガンダムの最終巻でトビアが言ったセリフでした。
富野監督が原作者として存在しない中、MSや演出やキャラがどれだけ長谷川氏の作風に寄っていっても別に構わない。けど、クロスボーンガンダムが宇宙世紀作品に対して示したこの問題意識だけは、しっかり引き継いで欲しかったという気持ちがどうしてもある。
宇宙という過酷な環境があって、その過酷さから過激思想に走ってしまった木星帝国という国家があって、ニュータイプという一種の差別思想を構築することで問題意識からドロップアウトしたシェリンドン・ロナたちコロニー側の勢力があった。
けど、そのどれにも属さないで、ただの「人間」として頑張ってみる道があると、トビアは示した。
これは一つの骨太なテーマであったはずなのに、結局その後、クロスボーンガンダムの続編では十分に描かれなかったという思いがあります。
『鋼鉄の7人』における影のカリスト、光のカリストという大ボスも、そうしたテーマを深く掘り下げるようなキャラではなかった。
私が惜しいと思ったのはその点です。
長谷川氏は頑張ったと思う。本来、普通の活劇系エンタメ作家に、いきなりそんな「環境への視座」を深く持てっていうのもシビアな話ではありますし。そもそもこれがガンダムでなければ、面白ければそれで良し、というだけで十分であった筈なので。
彼の作風が、ちょっとB級寄りのフィールドでのびのびと(それこそ逆襲のギガンティスみたいに/笑)やるのが一番合ってるんだろうというのも分かるし、それで言えばこのクロスボーンガンダムは、ちょっと有名になりすぎた。うるさ型のガンダムフリークの注目も浴びすぎたと思います。重圧はあったろうしね。
けど、結局一読者として見て、重要で豊穣なテーマが掘り出されないまま、シリーズそのものが終わってしまった気がして、ちょっと悔しくもある。
宇宙世紀ガンダムの枠の中で、MS開発系譜のではなく、テーマ性の面で新たな発展が望めるチャンスって、これを逃したらもう当分来ないんじゃないかという気がするのでね。MSイグルーやAOZのような、メカの事しか頭にない作り手しか宇宙世紀ガンダムに残らなくなっちゃうんじゃないかという気がする。
そうなったら、もう後は先細りしていくだけだもんね。
そんなわけで、やはり個人的には、もう少し頑張って「ガンダム」してもらいたかった、という思いが拭えないのでした。
そうしたジャンルを離れた視点で見て、ただ長谷川作品として見るなら、この作品は面白かったです。
けれど、私の好きだったトビア・アロナクスは、この作品の中にはいなかったんですよ。