Gレコ読解キーワード4:レコンギスタ

            (1)宇宙に住む人々


 『Gのレコンギスタ』と、タイトルにもなっている言葉「レコンギスタ」。
 これは無論、世界史用語「レコンキスタ」、すなわち国土回復運動から直接インスパイアされた言葉でしょう。直接この言葉を使わなかったのは、上記の言葉が強く宗教色を帯びているために、意図的に避けたものかと思われます。


 富野監督の、こうした造語感覚には独特なものがあって、たとえば『OVERMANキングゲイナー』では、「行き過ぎた管理社会からは逃げるというのも手だ」という主題を描きつつ、しかし「逃げる」という言葉にネガティブなイメージがあることから、これを「エクソダス」というフレーズで作中言い換えていました。単純ですが、効果的です。
 こうした造語に関する感覚が多くの言葉を生んできましたし、中には『∀ガンダム』の「黒歴史」などのように、作品を超えて人口に膾炙したほどの言葉もあったわけです。


 とはいえ、Gレコ劇中での「レコンギスタ」という言葉の印象は、タイトルに入っているほどには強くありません。それに、「G」の「レコンギスタ」というわりに、作中でレコンギスタを画策するのはG=ガンダムに搭乗するベルリたちではなく、トワサンガビーナス・グロゥブの人たちです。
 一体、なぜこのようになっているのか。そしてGをガンダムの意味にとるならば、「ガンダムレコンギスタ」とは何だったのか、というのが、本稿第4回のテーマです。



 さて。まずは劇中で、レコンギスタを行おうとしている人々、つまり宇宙に住んでいる人々について振り返ってみます。


 Gレコは、歴代ガンダム作品の中でも、地球圏の外が直接舞台になった珍しい作品です。木星などから帰ってきた人物が登場したり、またエピローグでZZのジュドー・アーシタ木星に向かったり、ということはありましたが、富野ガンダムで地球圏の外が直接描写されたことはありませんでした。非富野作品では『ガンダムAGE』で一時舞台が火星になるほか、外伝コミックには火星を舞台にした『ガンダムF90』や前半木星が舞台の『クロスボーンガンダム』などがあります。
(あと、厳密にいえばELSの故郷へ一時行ってしまった劇場版『00』の刹那さんも加えるべきかも知れませんが)


 いずれにせよ、ガンダムシリーズにおいて比較的目新しい試みであったと思われますが、問題はその描かれ方だったように思えます。
 筆者はSFというものについては完全に門外漢ですが、仮にSFというのを「未知なものと遭遇して、それにどう対処するかを描く物語」であるとした場合、興味深いのは『Gのレコンギスタ』において、金星に住む人々の描写が「SF的な面白さ」と正反対の方向性に徹していることです。否、金星だけでなくトワサンガの描写なども、ですけれども。
 未知なるものと遭遇するSF的な面白さを描こうとするならば、金星圏という、地球から遠く隔たった場所に巨大な人工の大地を作って住んでいる人々を登場させる際に、やはり「地球に住んでいる人たちとどれくらい違うのか」が主題になってくるはずだと思うのです。
 現に、『機動戦士クロスボーンガンダム』で木星に住む人々が描かれた時、木星圏のコロニーの住人達は重力の無い場所で暮らすことに適応していて、まるでエッシャーの絵画のように天井にも壁にも椅子や机を置いて、上下の感覚がまったくない環境で暮らしているように描かれています。
 のちに『鋼鉄の七人』にて、ヘリコプター式の巨大MAが登場した際、木星の人たちは無重力で暮らすのに慣れていたため上下の感覚が無く、したがってこのMAは変形の際に上下=天地が逆さまになる仕様だったため、いざ地球で使ってみたら大いに難儀をした、といったような愉快な設定がされていたりしました。これなどは、SF的「宇宙に住む人々の異質な感性」を「未知」のものとして描いた、いかにもSFらしい設定であるように思えます。
 あるいは、それこそ劇場版『ガンダム00』におけるELSの描写は、まるきりそういう「未知」に対する異質感を描いたものでしょう。同映画の前半のホラーな展開は、およそガンダムと言われて想像されるドラマとは全然かけ離れた怪奇SFっぽい空気でした。



 さて、それに比べて、Gレコの描写はどうでしょうか。
 この作品中に登場する、宇宙に作られたコロニーや居住空間を並べてみると、興味深い事に気づきます。まずはキャピタルタワーのナットの内部ですが。



 ナット内部の重力区画には普通の市街地があります(第6話「強敵、デレンセン!」)。またキャピタルタワー最上部で聖地であるザンクト・ポルトには



 広い平原、それに畑らしいものも見えます(第13話「月から来た者」)。
 一方、トワサンガ、月に存在するコロニーにも



 やはり地球と変わらない街並みがあり(第15話「飛べ! トワサンガへ」)



 オリーブの木や畑がありました。(第16話「ベルリの戦争」)
 さらに金星圏、ビーナス・グロゥブにも



「ひゃあ、何ぃ!? ショッピングモールに住宅街!」



「なんだぁ〜!?」 (第21話「海の重さ」)


 そう、金星圏に住む人たちも、自分たちの居住空間にまるで地球と変わらない住宅地、そして畑をつくり、農業をやっていたのでした。その他、劇中で印象付けられたように、ここには地球そっくりの海まで再現され、そこでわざわざ船に乗っている人たちまでいるのです。


 上記のように、『クロスボーンガンダム』で描かれた木星圏の人たちの暮らしぶりと比較したとき、この金星に住む人たちの描写は逆に異様ではないでしょうか。
 このような描写から看取できる、Gレコの基本コンセプトはかなり明確だと思えます。つまり、たとえ宇宙の果てに住むことになったとしても、人間の暮らしぶりは変わらない、ということです。


 そして、そうであるからこそ、トワサンガの人々もビーナス・グロゥブのジット団も、「レコンギスタ」をより切実に画策していたのでした。宇宙に住むことで住環境や文化、価値観などが大きく違ってしまっていたのであれば、あえて地球暮らしに憧れるという事は相対的に少ないかもしれません(『クロスボーンガンダム』の木星帝国においては、むしろ人類が宇宙で暮らせるのだから地球は不要、といった思想まで現れている様子が描かれています)。しかし、暮らしぶりや価値観が地球で暮らしていたころと変わらないのであれば、どれほどの技術で再現できていてもトワサンガビーナス・グロゥブの「地球っぽい暮らし」はフェイクでしかありません。本家本元である地球に焦がれる気持ちは、従って大きくなるというわけです。


 宇宙に住む人々が地球への帰還を試みて武力衝突になる、という構図自体は『∀ガンダム』にもあった展開ですが、Gレコの「地球帰還」には、こうして見るとより切実さが感じられる設定になっていたと言えるのではないでしょうか。


 ……と、大体以上が、トワサンガ、そしてビーナス・グロゥブの住民たちによる「レコンギスタ」の背景という事になります。
 そして、このような「たとえ宇宙に暮らしても人間の生活というのは変わらない」という人間観が、翻って「G」の「レコンギスタ」、すなわち「ガンダムシリーズレコンギスタ」をも導くという構想になっているのではないか、と筆者は思っています。
 そのことについて、もう少し書いてみることにします。



            (2)ガンダムシリーズの地球帰還作戦


 歴代ガンダムシリーズを「地球と宇宙」という対立軸で見た時、その移り変わりに面白い変遷を見て取ることができます。



 初代ガンダムにおける「ニュータイプ」は、人が宇宙という環境に適応する事で、認識力が拡大した人々でした。少なくとも劇中ではそのように解されていました。
 これはやはり重要で、ニュータイプが人の革新であり、そのような存在には宇宙に暮らして適応する事でなれるという事になりますから、自然と「地球よりも宇宙で暮らす事が是」だという事になります。
 であればこそ、



「人は長い間、この地球と言う揺り籠の中で戯れてきた。しかし! 時はすでに人類を地球から巣立たせる時が来たのだ」 (第37話「ダカールの日」)
 『Zガンダム』においては、地球環境の汚染という問題もあいまって、主人公側の勢力が積極的に「人類全体の宇宙への移住」を主張するようになっていきます。


 また、『逆襲のシャア』までの富野ガンダムシリーズのセオリーとしても、物語は宇宙で始まり、一時地球に降りつつ、最終決戦は宇宙で行われていました。


 この流れに少し変節が起こるのが『Vガンダム』で、物語は地球上で始まり、宇宙での戦いを経て最終決戦は大気圏内で行われます。
 そして何より、この作品の主人公ウッソ・エヴィンは「地球育ちのニュータイプ」でした。本来、宇宙に適応した人であるはずのニュータイプが、地球で育ったというのは、一見して奇妙な設定です。


 なお『機動戦士クロスボーンガンダム』においても、最終決戦のさなかにトビアとドゥガチは地球に降下しており、決着は地球の海上にてつくことになります。
 そして、『ガンダムF91』のクロスボーンバンガードや『Vガンダム』のザンスカール帝国にとって地球がほぼ単なる制圧対象だったのに対し、『クロスボーンガンダム』の木星帝国は作品初期には地球への帰還を求める組織、そして後半ではむしろ地球を環境ごと破壊する事を望む組織という形で、住環境としての地球がクローズアップされます。さらにトビアによって、地球環境にもともと適応していたオールドタイプと、宇宙という環境に適応する形で生じたニュータイプとの間に優劣はないという見解が示されるに及んで、ガンダム作品における「地球」の意味や価値は劇的に変わっていきます。


 ほぼこれを受けた形で、『∀ガンダム』においてはムーンレィスの地球帰還作戦が描かれました。
 この時期になると、先述の『Zガンダム』とは全く逆になりつつあります。地球はむしろ帰るべき場所として積極的に肯定され始めていると言って良いでしょう。


 大体、以上のような変遷をたどった末の、「レコンギスタ」なのです。


 実際『∀』や『Gレコ』には、『Zガンダム』の頃にさかんに語られていた希望とは正反対の、「宇宙で暮らすことの限界」が描かれています。
 クワトロ・バジーナダカール演説にて、「宇宙に出ることによって、人間はその能力を広げることが出来ると、何故信じられないのか?」と言っていますが、後の時代になればなるほど、強調されるのは宇宙で暮らすことの可能性よりも、宇宙という住環境の過酷さだったと言えます。
 『クロスボーンガンダム』では、木星において水や空気まで自前で作らねばならない事が大きな負担となっていると、バーンズ・ガーンズバックの口から語られます。

「おれたちは空気ですら造らなけりゃならないほど貧しいんだっ!
それが宇宙で生きるということだっ!
他にどうしようもねえからやるんだ!
水の分量を定めて
呼吸さえきりつめて……
もうギリギリだ!」


 『∀ガンダム』のムーンレィスもまた、地球に住む人々に比べてはるかに進んだ技術を保持しているにも関わらず、その暮らしぶりが明るく肯定的には語られません。彼らは冷凍催眠によって、地球環境の回復を待つことばかりの生活を送ってきたのでした。


 そして『Gのレコンギスタ』、特にビーナス・グロゥブの人々の描写もまた、「宇宙に出た人々の可能性」とは真逆のものだったと言えます。
 先に、Gレコの金星圏の生活描写について「地球と変わらない」という風に書きましたが、しかし金星圏に住む人々が、地球で暮らしている人々と明確に違っている部分も描かれていました。前回も少し言及しましたが、



 そう、ムタチオンと呼ばれる身体変化です
 ラ・グー総裁の口からも「人の劣化」という言葉が出てきていますが、要するに金星圏で暮らすうちに、身体機能が極度に低下するようになったというような事かと見えます。


 ここまで、歴代ガンダムの描写を追ってきた目で見れば、「ムタチオン」がどれほどショッキングな意味を持っていたか、劇中の描写以上に実感できるのではないでしょうか。
 つまり、当初は「宇宙に出ることで(ニュータイプとして)人の能力が飛躍的に向上する」という希望が語られていたのに、巡り巡ってガンダムシリーズの最新作においては、「宇宙に暮らすことでむしろ人の身体能力は低下してしまった」と描かれているのです。
 実のところ、この「ムタチオン」というのは、人の革新としての「ニュータイプ」に対する決別、と言えないこともない。



 なお、このムタチオンを体の運動能力の低下として見た場合、その発想の源流はやはり『クロスボーンガンダム』であるように見えます。前述した、オールドタイプは元々地球という環境に適応していただけで、宇宙に適応したニュータイプとポテンシャルは同じだとするトビア・アロナクスの指摘が、より拡張されているようにも見えるのでした。当ブログで何度となく引用している、トビアからシェリンドンへの手紙、その冒頭にある

あなたは1日に12kmの山道を歩くことができますか?
それはぼくたち宇宙育ちからみればとんでもない能力なんです
でもそれは“進化”したわけではなく人間がもともともっている力――
“環境”にあわせて身につく人間自身の力――
だからカンが鋭かったり先読みがきいたりするNT(ニュータイプ)の力も
単に宇宙という環境に適応しただけで
ぼくらはまだ昔と同じ”人間”なのでしょう


 ここでも示されているように、コロニーで生まれ育ったトビアは、地球に住み、一日に12kmの距離を歩く事のできる地球住まいの人の身体能力に驚いているのでした。逆を言えば、宇宙で暮らすトビアやシェリンドンは、12kmの距離を歩くのが困難な程度には身体能力が低下しているという事です。
 実際、無重力で長期間過ごすと、特に足腰の筋力は低下する事が知られており、宇宙飛行士たちが最も気にすることの一つでもあるとか。当然、クレッセントシップに乗船したベルリたちが



 運動するように指導されたのも、こうした筋力低下を防ぐためです。
(最終話で示されているように、フラミニアの体もムタチオン化している事を念頭におくと、ここで彼女がベルリたちに運動を厳しく奨励している事の重さも改めて感じられます)


 ムタチオンという「人の劣化」に危機感を覚えたピアニ・カルータ……すなわちクンパ・ルシータトワサンガ、そして地球へ移った事が、Gレコで起こった戦乱の遠因の一つなのですから、


 このように見たときに、Gレコが最終的に示した方向性は明確ではないかと思います。宇宙から、地球へ。歴代ガンダムの推移を踏まえ、視点を、そして主題を地球へとはっきり向けた事になります。
 そして、これこそが「ガンダムレコンギスタ」でした。



 Gレコのエピローグ部分にて、クレッセントシップは地球一周の旅に出かけ、さらにベルリは「日本で」降りて、単身で世界を見に出かけています。



「さっき降りたよ」
「日本で、止まったろ?」


 未知の世界を探る、あるいは見に行くという場合、自分たちの住んでいる場所から遠くへ遠くへ向かうのが自然ですし、実際にGレコの物語を通して、ベルリたちは金星まで出向いてつぶさに見てきました。
 しかしそこで分かったのは、結局金星まで進出した人類もただひたすらに地球に焦がれて、地球と同じ暮らしを極力再現しようとしていたという事です。
 であるならば、本当に見るべき価値があるモノは、実は最初からベルリたちが住んでいた場所、地球上にあるという事です。だから、ベルリたちは地球を見てまわるという行動に出たのでした。


 びっくりするのは、その「地球」の描かれ方です。ベルリは「日本で」降りたとセリフにあるのですが、



 藁葺の日本家屋の他、なんと新幹線らしきものまで背景に走っています



 さらに富士山頂付近の鳥居。
 この場面だけ取り出して、ガンダム作品の一場面だと言っても、知らない人には信じてもらえないのではないでしょうか。


 この連載第一回の記事でちらりと触れたようにファーストガンダム以来の宇宙世紀の世界観は、既存の国や民族や宗教の要素を極力描かず、それらが「地球連邦」という形に融け合って一つになったような世界を舞台にしていました。劇中、「ニューヤーク」「オデッサ」などの地名は示されますが、旧世紀の国家を明示した場面はほとんど無かったはずです。『逆襲のシャア』では地球連邦軍の本部が南米ジャブローからチベットのラサ、地球連邦議会ダカールから、小説『閃光のハサウェイ』ではオーストラリアのアデレードにおかれるなど、現代の先進国・大国の有無に関係なく、地球上のあちこちに地球連邦の重要機関が置かれていると設定されている事からも、こうした意図がよくうかがわれます。
 そして一方で、この連載で再三触れたように、ファーストガンダムから『逆襲のシャア』までの富野ガンダム作品では、宇宙に適応した人類ニュータイプが「人の革新」とされ、そのため『Zガンダム』を中心に地球に住む人々も宇宙へ進出する事が是とされましたし、有望なニュータイプの青年ジュドー・アーシタ木星という更なる外宇宙へ旅立つという結末を選びました。
 このような形で描かれた希望はしかし、危うさをも内包していました。本ブログでたびたび引用している切通理作『ある朝、セカイは死んでいた』所収の富野監督インタビューに、そうした危うさの核心部分が述べられています。以下引用します。

ニュータイプを可能性としてしか描かなかったのは、ガンダムが当時『宇宙戦艦ヤマト』ブームの後に来る作品だったので、ヤマトみたいにしたくないというのがあったんです」
 そこで私はピンと来た。以前、山梨県上九一色村で、オウム真理教の教祖麻原彰晃の運転手をしていたという信者の男性に取材した時、彼は教祖と『ヤマト』の主題歌を一緒に歌ったことがあったと言った。「選ばれた者たちが最後の船に乗る。自分たちとヤマトは同じだね」と教祖が呟いたというのだ。
「そう! そういうところには絶対落としちゃいけないと思った。ガンダムというのは現実認知の物語でしかなくて、ニュータイプになるためのハウツーものではないんです。それから物語の構造をニュータイプ対オールドタイプの対決にしなかったというのも、それをやってしまったら今の人類の全否定になってしまう。オウム的な短絡思考になってしまうと思ったから」

 このインタビューは、大体『∀ガンダム』劇場版を製作している時期になされたものですが、ニュータイプを巡るガンダムの歴史を考える意味で、きわめて重要な発言である事は間違いないと思います。
 無論、前々回、前回記事で筆者が「ニュータイプ対オールドタイプ」の構造が持つ危険性を再三強調したのも、この記述が淵源にあったからでもあります。


 『ガンダムF91』以降、ガンダム劇中でニュータイプという概念が全面化する事はなくなっていきました。また富野監督のインタビューなどでも、「平安貴族はニュータイプ」というような、ニュータイプという言葉の本来の意味を攪乱するような発言が再三見られました。


 上記のような問題意識から見たときに、本連載の第二回で述べたように、対立する両者を一つにまとめるのではなく、むしろ多数の考えの違う存在が複雑に関係しあう事で解決できるという、ニュータイプ的な「分かり合う」解決とは真逆の希望が描かれた事は大きな意味を持っていたように思います。
 ニュータイプのような「現在の我々とは違う存在」になる事に希望を見出していたところから、「現在の我々のままで」事態を解決する方向に、希望を求めるようになりました。
 そして多様性を認めたままで希望を見出す事ができたからこそ、人種の融け合った無国籍・無宗教な「地球連邦」ではなく、新幹線も富士山も存在する「今の日本」を、ガンダム作中に登場させることができたのでした。


 聞いた話では、このラストシーンは全世界に公開された際、視聴した国によって違う場所をベルリが訪れる場面に変わっているとのこと。中国の視聴者はベルリが中国を訪れるシーンを、アメリカの視聴者はアメリカを訪れる主人公を目にした、のだそうです。
 これを単なるファンサービスと軽く見るべきではないと筆者は思っています。この記事をここまで読まれた方なら、私がそう思う理由は書くまでもなく明らかでしょう。


 おそらくは、これが「Gのレコンギスタ」、つまり「ガンダムレコンギスタ」です。
 近未来を舞台に、現在の人類への絶望と、それに対置される形での架空の「進化した人類」ニュータイプ、そして外宇宙への希望とで始まったガンダムそのガンダムが、Gレコによって、現在の人類をそのまま肯定して、我々が今ここに立つ地球や日本に希望を見出すという形で「現代の地球に帰還」したのです。



 ……以上で、筆者の論点は尽きました。
 このような「ガンダム」を、どう受け取るかは、視聴者一人一人に委ねられています。あるいは「こんなのはガンダムではない」と言う事も、我々には可能です。
 しかしそのような判断を下す前に、この35年の間にガンダムがたどってきた壮大な旅と、その帰着点としての『Gレコ』に今一度思いをはせてみても良いのではないかなと、そう思ってこの記事を筆者は書くことにしました。


 少なくとも私は、ガンダムが希望とともに地球へレコンギスタしてくれた事を、心から嬉しく思っているのです。
                              〈終わり〉