機動戦士ガンダムAGE 第23話「疑惑のコロニー」

     ▼あらすじ


 回収されたヴェイガンMSの部品から、コロニー・ソロンシティの企業テクノソロンがヴェイガンに協力している可能性が浮上、フリットは自らディーヴァに乗り込み、その疑惑を追及に乗り出す。
 ウルフたちの潜入によりヴェイガンのMSの存在が確認され、フリットはMSの出撃を指示。アセムはコロニー住民への被害をも辞さないフリットの指揮に反発しディーヴァを抜け出してしまう。ウルフ、アセムのいないアリーサたちが苦戦する中、ロマリーの説得を経てアセムは再びガンダムに乗る決意をし、ヴェイガンを撃退するのだった。




      ▼見どころ


    ※最初に前置きを


 解説を始める前に、筆者の事を少しだけ書いておく必要性を感じました。なので、少しだけ。


 この記事を書いている筆者は、思春期を90年代前半くらいに過ごした人間です。小学校時代にベルリンの壁崩壊のニュースをリアルタイムで見て、バブル崩壊のてんやわんやを横目に学生時代を過ごしてきた人間です。
 したがって、アスノ三世代の中では、アセム編に仮託された時代背景に最も影響を受けた世代です。心情的にもアセムに一番親近感を持っています。


 つまり。
 記事を書いていて、一番客観的になりづらいパートであるという事です。
 可能な限り、広い読者層の方にフラットに伝えるべく書いてはいますが、どうしても冗長な、論理の飛躍などが起こりやすい記事になりがちであるという自覚があります。


 読者の方々は、どうかあらかじめその点ご了解の上、適宜割り引きながらお読みいただければ幸いです。


 あと、以前も書きましたが、筆者の90年代、2000年代のエンタメ作品傾向に関する認識は、基本的に下記書籍を全面的に下敷きにしています。


ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)


 私の記事の、そうした部分の記述がピンと来なかった方は、副読本としてご参照ください。


 その上で、よろしければ引き続きお付き合いください。



    ▽テクノソロン


 ここまで、ゼハートとの関係を軸に、主にアセムにスポットが当たり続けてきたアセム編ですが、今回はヴェイガンに内通している企業を探るという、一見したところ少し脇道にそれるようなエピソードが展開されます。フリット編で言えばちょうどファーデーンでの諸エピソードに近い位置づけでしょうか。
 そして、ファーデーンでのエピソードがそうであったように、このソロンシティでのエピソードもまた、一件本筋から外れたように見えて、重要な伏線やテーマが矢継ぎ早に提示される回のように見受けられます。


 今回登場するのが、ソロンシティというコロニーにある企業、テクノソロン社です。AGE全話の中でこの回にしか登場しない、一回きりの企業名で、それだけに重要度は低いように見えますが……そう単純ではありません。
 ソロンシティに入港するディーヴァを見て、テクノソロン社の責任者らしい男と、もう一人武骨な男が対処の相談をしているシーンが描かれます。



 何やら不穏な雰囲気で話し合う二人。
 ここで「企業」がクローズアップされるのも、歴代ガンダムにおいて『Z』以降に「アナハイム・エレクトロニクス」という、存在感のある企業体が描かれた事が下敷きにされていると見ることが出来るでしょう。
 特にテクノソロン社を巡る同行は、雰囲気としては。



 0083のオサリバン常務を思い出させる、企業の裏の顔といった趣きです。



 ただし、ここでアナハイム・エレクトロニクス社を引き合いに出す場合、またしても少々込み入ったテーマについて踏み込まざるを得ません。そう、企業の動向にどう向き合っていくかというのも、宇宙世紀ガンダムにおける重要な問題の一つだったからです。



Zガンダム』において、アナハイム・エレクトロニクスは単なる企業という以上に、エゥーゴのスポンサーであり、その作戦内容にまで口出しする権限を持っていました。



 グリプスを叩くべきという提案を退け、ジャブロー攻撃を主張するウォン・リーさん。
 この後、クワトロは「出資者は無理難題をおっしゃる」と愚痴る始末です。
 またZ後半においては、ハマーン・カーンに親書を送ってサイド3をアクシズが掌握する事を認めてみたりと、その多大な権限が目立ちます。


 また、アナハイムエゥーゴにMSを支給すると同時にティターンズにもマラサイなどを納入しており、第一次ネオ・ジオンに対してシュツルム・ディアス、第二次ネオ・ジオンに対して一連のMSを納入するなど、反連邦勢力に対しても商売をするような一面がありました。
 こうした側面を指して、「死の商人」と揶揄される事もあったのでした。


 そして、企業というもののこうした性格をどうとらえるかが、問題になってきます。以下の二つのセリフを見比べてみてください。
 まずは『逆襲のシャア』より、チェーンとオクトバー、アムロのやり取り。



アナハイムネオ・ジオンモビルスーツも建造してるんですよ」
「本当か?」
「勘弁してください。我々技術部門は違いますよ」
「それが企業ってもんだものな」


 そして今度は、小説版『ガンダムUC』から、オードリー・バーンことミネバさんの発言。



「その中になにが入っているのか、誰も知らない。でもそれは確かに存在する。政府から引き出される便宜、目に見えない圧力としてね。もっとも代表的なのがアナハイム・エレクトロニクス。軍需と公共事業を一手に独占している上に、裏でネオ・ジオンと取引をしていてもお咎めなし。ビスト財団という後ろ楯がなければ、考えられないことだわ」


 いかがでしょうか。
 裏でネオ・ジオン(反政府勢力)と取引をしている事について、アムロ・レイは「それが企業ってもんだ」と、良くは思っていないながらも、仕方ない事として流しています。
 一方、UCにおけるミネバ・ザビは、そのように裏でネオ・ジオンと取引している事が由々しい事態であり、ビスト財団や「ラプラスの箱」という圧力がなければ、「お咎め」があるはずの違反行為として捉えている事が伺えます。
 さてしかし、ではもし「圧力」がなかったとしたら、どんな「お咎め」があるというのでしょうか?
 AGEを見た皆さんは、もうそれを目にしていますよね。



 こういう事です。


 以上のような、アナハイム・エレクトロニクスのやり方をどう捉えるかという問題は、これも一般化していくと結構深いテーマである事がわかります。
 戦後、交通や通信の発達により、企業のグローバル化は進展し続けています。特に、「グローバリゼーション」などという言葉がもてはやされるようになったのは、1990年代以降の事でした(この辺の話はあまり明るくないのでウィキペディアさんを眺めながらの解説になりますが、どうも東西冷戦が終結したのがきっかけの一つだったようです)。
 企業と言うのは、当然のことながら営利を求める団体です。そのような企業が世界的な広がりを持った時に、企業の利害と、その企業の母国にとっての利害が衝突する事は当然考えられます。
 たとえば、価格競争に勝つために労働力の安い途上国に生産拠点を移した結果、日本国内の雇用が減ってしまい失業者が増える、といったような事です。


 この、「企業と国の利害の相違」の極端な例が、敵国に兵器を売買する企業をどういう目で見るか、というケースなのです。いわば、ネオ・ジオンと商取引しているアナハイムをどうするべきかという問題は、上記のようなグローバル時代の企業をどうするかという問題を考えるための、一種の思考実験、例題になり得るというわけです。


 面白い事に、1988年公開の『逆襲のシャア』作中において、アナハイムのこうした性格が仕方ないものとして比較的容認されているのに対し、2007年に刊行された小説版ガンダムUCにおいては極めて容認し難い行為であると認識されている事になります。
 もちろん、富野由悠季福井晴敏という、かなり作風や性格の違う作り手の作品である事も考慮に入れなければいけませんが、そこに時代の気分を読み込む余地もあるのかもしれません。



 ……と、以上の話を踏まえて、ガンダムAGE第23話の展開はどう読めるでしょうか。
 テクノソロン社の立場で考えてみた時に、ヴェイガンが彼らの技術力を欲して取引を持ち出してきた時、それ自体は「新たな顧客の出現」に過ぎません。ヴェイガンの出自や、その行動に対する道義的な問題はあるにせよ、基本的に企業にとって新しい顧客が得られる事は、歓迎できる事です。アナハイムにとってネオ・ジオンがそうであったように。
 しかし問題は、社会が、あるいはその時点の為政者がこれを許容するかどうかです。
 この点、フリット・アスノの発言は明快過ぎるくらい明快でした。



「ヴェイガンとの協力関係が確認されたのなら、ヤツらは敵だ」


 さらっと言っていますが、かなりの極論です。
 ヴェイガン相手に商売をする事と、ヴェイガンの一員として全面支援する事は、本来別の事です。そして、テクノソロンが後者ではなく前者である事は、この回の最後の展開を見れば明らかです。テクノソロンの現場責任者は工場を爆破して証拠隠滅したあと、電話でこのように話しています。



「ヴェイガンの男の死亡も確認しています……はい、物的証拠も全て消えました。予定通りです」


「ヴェイガンの男」という単語を使っている事から、おそらく通話先はヴェイガンではないでしょう。テクノソロンの重役か、そういったところでしょうか。だとすればテクノソロンはヴェイガンとの取引の証拠を隠滅して、いわば関係を切る選択をしたわけであり、彼らがヴェイガンと一枚岩の協力関係にあったわけではない中間的な存在だった事が察せられます。
 つまり、テクノソロンはヴェイガンの下部組織の偽装だったり、ダミー企業だったりするわけではなく、単なる取引先だったと見られます。ただ、おそらくフリットの方針などにより、地球連邦がヴェイガンとの接触を厳しく制限していたため、結果的にその取引が共犯関係的な色彩を帯びたに過ぎないのです。


 逆に、ヴェイガンと取引をした企業を、単に取引をしただけで「敵」と見なして排除しようとするフリット・アスノは、相当なタカ派です。
 仮に現代の日本で、テロ組織相手に取引をする企業があった場合、相応のペナルティはあるでしょうが、いきなりその企業自体が「テロ組織と同断」に排除されたりはしないのではないかと。
(もっとも、この辺りの法律関係にも筆者は疎いため、もしかしたら私が思っているよりもう少し厳しいのかも知れませんが。ただ、今月の2日に国連総会で「武器の国家間の取り引きを規制する国際条約」がはじめて可決されたそうで、(ソース) この辺りの問題への対策もまだまだ途上なのかな、という気はしています)



 ただし、ガンダムAGEという作品はこうした場合に、常に相対化の視点を持っています。このケースも、「AGEの世界観は企業の適性勢力との取引を許容しない世界観だ」とだけ断定するのは難しいように思います。そこが「三世代の物語」、長い時間軸のスパンを持っている強みでもあります。
 たとえば、フリット編で、マッドーナ工房は(知らなかったとはいえ)UEの機体を引き受けていたわけですが、これについて「お咎め」はありませんでした。また作中でおそらく明言はされていないはずですが、マッドーナ工房はキオ編において、とある反政府勢力に技術的に協力しているフシが見られます。しかしこれも、表立って「お咎め」は受けていないようです。
 つまり、この第23話での連邦軍タカ派な対応はフリット・アスノという作中人物の個性に帰せられていて、これをもって「AGEと言う作品全体のメッセージや、作品傾向」にはなっていないのです。
 だからこそ、三世代の物語を、それぞれの世代の事情に沿って描くことが出来てもいるのでした。


 そんなわけで、次はフリットとアセムの対立を軸に話を追ってみます。



      ▽アセムの事情:戦う理由の喪失と模索


 前回、アセムはゼハートとの戦闘中に、戦う理由について問われ、激しい応酬をかわしていました。「お前は個人的な理由で、自分のために戦っているだけだろう」と問い詰められ、



「俺はヴェイガンからみんなを! 地球を守るために戦っているんだっ!」


 ……と答えたのでした。
 ところが直後の第23話で、早くもアセムの戦う理由は揺らいでしまいます。
 フリット・アスノがテクノソロン社のヴェイガンとの繋がりを突き止めると同時にMSの出撃を命令。市民への犠牲が出るかもしれない作戦にアセムは反対しますが、聞き入れられません。思わず、アセムは出撃を拒否してディーヴァを下りてしまいます。



「市民を犠牲にしても構わないなんて! 俺は従えない!!」


 この親子の対立は、アセムにとっては見た目以上に切羽詰まった状況です。
 前回ゼハートに詰問され、どうにか「みんなを守るために戦っている」と答えたアセムです。ところが、ソロンシティで戦う事は、守るべき「みんな」を傷つける事になりかねない。セムのなけなしの「戦う理由」が、いきなり内実を失ってしまいかねない瀬戸際に立たされたのでした。


 実際、連邦軍とヴェイガンの戦闘により街は半壊。映されてはいませんが、恐らく少なくない犠牲者が出た可能性もあり得るでしょう。
 そんな中、アセムはロマリーから説得を受けることになります。



「アセム、あなたの言っていることは正しいと思う……でも、今は戦争なのよ!?」
「みんな悲しいのに耐えている。司令だってそう、わたしだってそうなの……きっと、あなたと戦うことになったゼハートだって」


 この言葉にアセムは反発、「ゼハートは違う」「あいつはヴェイガンなんだ!」と叫び返し、ショックを受けたロマリーは思わず目に涙を浮かべてしまいます。



 この涙を見たアセムはロマリーに詫びると、ガンダムに乗る決意を固めるのでした。ガンダムに乗り込む間際、アセムは呟くように言います。



「今は、君を守るよ」


 そして、AGE−2に乗り込むや、鬼神の如き活躍でヴェイガンを撃破していくのですが……。


 戦闘が始まったこの段階にあっては、アセムが戦おうと戦うまいと、市民の犠牲は避けられない情勢です。そんな中にあって、せめて目の前の女の子を守るというのを、当面の目的にしてアセムガンダムに乗り込んだのでした。
 ……この、「戦う理由」を巡る迷走は、まさに90年代のエンタメ作品の多くが共通して抱えていた、難題だったといえます。



 それまで、バトル物作品の主人公というのは、戦う理由についてそこまで逡巡する必要はなかったのです。倒すべき敵も、果たすべき目的も明確でした。
 フリット編でちらっと書いたように、たとえば『マジンガーZ』などのロボットアニメにおいて、主人公が敵を倒す事に躊躇する、というのは稀でした。そうした時代の「敵」というのは、倒せば無条件で皆がハッピーになれる敵だった、と言えます。


 ところが。冷戦の終結と、日本ではバブルの崩壊によって、こうした「単純さ」に陰りが見え始めてくるわけです。
 大昔のハリウッド映画やスパイ映画を見てれば分かるように、西側諸国やナチス残党あたりを敵にしていれば、「やっつければ皆ハッピー」な話が作れていたのですが、冷戦終結によってそうした仮想敵が失われます。同時に、中東あたりでヨーロッパやアメリカがやっていた気まずい事が湾岸戦争を契機にいろいろ振り返られたりもしまして、話はそう単純ではなくなってきたわけでした。
 同時に、国内では「失われた十年」(まぁ、今は失われた二十年と言われてますが)が始まり、日本の社会や経済もそれまでの自信を喪失し始めました。そういう社会情勢は、子供向けアニメや、少年誌の漫画にも色濃い影を落とすものです。
 要するに、躊躇なく「正義」を振りかざす事に対して、疑念が生じ始めた時代だったのでした。
ゼロ年代に入ってしまいますが、ウルトラマンが怪獣を毎回倒す事が正義であるという前提に自身が持てなくなり、「怪獣を保護し共存を目指すウルトラマン」である『ウルトラマンコスモス』が放映されたのが2001年です)



 宇野常寛は『ゼロ年代の想像力』において、90年代の想像力を「セカイ系的」と形容しました。『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジに代表される、「大人の世界が分からないから引きこもる」想像力であると。
 有名大学に入り有名企業に入れば人生安泰と教わって勉学に励んだのに、就職氷河期に当たって仕事につけなかったり。あるいは、有名大学でも秀才だったエリートがオウム真理教にのめり込んでサリン事件を起こしたり。社会が示す正道を目指して頑張っても、思ったような結果が出なくなりました。また、頑張ってもそれに見合った結果が出なくなったことで、その「頑張り」に対する不満も急に表面化するようになりました(バブル崩壊よりは前ですが、単身赴任を言いつけられたサラリーマンの不満を歌ったユニコーン『大迷惑』のシングル発売が1989年です)。
 また、90年代初頭、PKO法案を巡って国内の世論も賛否両論となりました。自衛隊を国外派遣する事で、まかり間違えば日本が「加害者」の側に回る可能性が出てきたわけです。
(余談ですが、自分が被害者になる恐怖ではなく、「加害者になる恐怖」がじわじわと社会を覆っていたのが、ゼロ年代との境目、2000年近辺でした。この年に発売され口コミで異例のヒットをとばした同人作品『月姫』は、「殺されるかもしれない」ではなく、「自分は殺人鬼かも知れない」という恐怖によってプレイヤーを怖がらせる、少し異色のホラーでした。洋泉社新書で『なぜ人を殺してはいけないのか』が出版され話題になったのもこの頃です)


エヴァンゲリオン』の碇シンジもまた、父親の言いつけによって巨大ロボに乗り戦うのですが、その結果クラスメイトに逆恨みされて殴られたり、またクラスメイトの乗ったマシンを破壊する羽目になったりします。襲ってくる敵の正体が何なのかもはっきりせず、それと戦う事が本当に「みんなのため」になるのか、主人公には知らされないという話でした。



 つまり。
 社会の示す「正しさ」が、それを実践した個人を救えなくなってしまった、そんな時代だったのです。
(哲学・思想の業界ではポストモダンなんて言い回しも流行ったそうです。社会が、○○主義とか、みんなに共通の目標を提示していくという「大きな物語」が失効してしまい、国や社会が個人に生きる意味を与えられなくなった時代が来た、というような事がさかんに論じられたのでした)
 そして、物語の主人公もまた、そのようにして社会(=みんな)を見失ってしまうと、もう「社会(=みんな)のために戦う」事は出来なくなってしまうのですね。
 そんな時代の「戦う理由」はどんな風になるかと言うと、これはもう「とりあえず目の前の親しい人を守ろう」くらいまで、目的のスケールを小さくするしかなくなってしまうのです。
 折しも。かつて「新しい時代を作る」ために人斬りとして戊辰戦争を戦った主人公が、その事の反省から人を殺さずに「目に映る人」だけを救おうと頑張る話、『るろうに剣心』の連載開始が1994年です。



 ガンダム史に照らしてみますと、1994年の『機動武闘伝Gガンダム』では、直接の戦争から距離がおかれ、武術大会を舞台にした作品になりました。また、各ガンダムファイターは国の代表という立ち場で、「国のため」という正義を背負っているのですが、しかしドモンたちシャッフル同盟はそうした国家間の利害よりも、互いの友情や身近な人との絆を重んじるという展開になっています。(Gガンダムはあれでなかなか、当時の気分を的確に反映した、意外にも時代に敏感な作品だったのだと私は思っています)
 続くW、Xも、連邦軍のような国家軍に属さないキャラクターを主人公に置いており、国や社会全体が提示する「大きな物語」から離れた価値観の登場人物たちがガンダムに乗っていました。特に『ガンダムX』は、「難しいことは分からないが目の前の女の子を全力で守る」、まるで『未来少年コナン』や『天空の城ラピュタ』に先祖がえりしたかのうようなボーイ・ミーツ・ガールストーリーを骨格に持つ作品です。これも今思えば、「目の前の女の子を守る以外に正義が見いだせない」時代だったからこその、先祖がえりだったのかもしれません。


 そう。いみじくもヒイロ・ユイはこう言っています。「全てが狂っているのなら、俺は自分を信じて戦う!」



 冗長になってしまいましたが。
 このようにざっと眺めてきた時に、1990年代エンタメ主人公の「戦う理由」に対する苦悩を、22話からのアセム・アスノがダイジェストでなぞって来ている事が、お分かりいただけるかと思います。アセムがロマリーに対して「今は君を守るよ」と言った一言には、これだけの背景が透かし見えるのです。
 さらに、「目の前の親しい人を守ろう」を極端な形で敷衍すると、いわゆる「セカイ系」にもなります。目の前の相手が世界の命運を握った特別な存在だ、と設定する事で、「目の前の親しい人を守る」という枠組みを維持したまま「世界を守る」という大きな意味に接続しようとするわけですね。
 もちろん、ガンダムの世界観と、「社会・組織などの中間領域を挟むことなく世界の危機を扱う」セカイ系の間には親和性は基本的にはないのですが……ただ、そういった傾向とまったく接近がなかったわけでもありません。『ガンダムF91』や『クロスボーンガンダム』で、敵国のお姫様がヒロインとして登場するというのが、若干近い設定だったように思います。



 ただし。こうした「セカイ系」な想像力には、当然いびつな部分もあります。エヴァのシンジは、劇場版の最後で、アスカに「気持ち悪い」とか言われてしまうわけで。
 そこまで直截な言葉ではありませんが、アセムの「今は君を守るよ」もまた、直後の第24話にて、見事玉砕の憂き目を見る事になります。それはまた次回としますが。


 それにしても本当に、この短い尺の中に、90年代エンタメ作品における少年主人公の変遷がとんでもない圧縮率で詰め込まれているわけで、AGEの脚本の恐ろしさが垣間見られます。


 ともあれ、ここにきて疑念の対象になってしまったフリットの「正義」なのですが。では、フリットの目ではこの展開がどのように見えるのでしょうか。
 これも誤解されやすい部分なので、解説しておこうと思います。



      ▽フリットの事情:計算と誤算



 この第23話は、後に口癖のようになる「殲滅」という言葉をフリットが最初に口にした回でもあったと思います(記憶違いでなければ



「敵を殲滅できなければ、被害はさらに拡大する」


 既に書いたような、ヴェイガンと取引をした企業に対する措置とも合わせて、フリットの強硬派っぷりがついに本格的に見えるようになってくる、そんな回です。
 また、アセム「市民を犠牲にしても構わないなんて!」というセリフに返答をしていない事も手伝って、ここでのフリットは本当に、コロニー市民の安全よりもヴェイガンの駆逐を優先したように見えます。
 しかし、フリットの目で考えてみると、また違った側面が見えてきたりします。



 とりあえず、小説版でも記述されているように、いくら息子だとはいえ、一介のパイロットが命令内容について(作戦中に)司令官に文句を言いに来るというのは、軍の秩序から考えて言語道断な事ではあります(笑)。二人だけの場ならともかく、ディーヴァのクルーの前ですから、これは一蹴するしかありません。
 とはいえ、ロマリーにアセムを追わせようとする、オペレーターさんの助言について事実上黙認しているのは、フリットなりの無言の厚意と受け取らなきゃいけません。本来なら、勝手にロマリーが持ち場を離れる、なんて事も認められないはずなので。


 で。
 フリットがコロニー住民の危険に配慮していないかといえば、そんな事もないのです。その事がどこで察せられるかというと、他でもない、



 タイタス装備でアデルを出撃させたこと、です。



 第8話の解説記事で書いたように、このタイタス装備こそ、AGEシステムが導き出したコロニー内戦闘をする上での最適解でした。
 フリット自身、かつてファーデーンで、コロニー内戦闘が住民に及ぼす危険性は見知っています。



 第6話の、この体験ですね。


 そして、こうしたコロニー内戦闘において住民や市街への被害を最小限に留める、「コロニー内市街戦に適応した専用ウェア」こそがタイタスでした。



 敵のビーム攻撃も回避ではなく、受け止める事で周辺被害を抑え、



 格闘戦において敵を無力化する事でタイタスの破壊力が周辺に及ぶ事も防ぐ。
 このようにして、フリットは実際にファーデーン内での戦闘を成功させているのです。


 つまりフリットは、タイタスの性能によって、コロニー内住民への被害をあまり出さないままヴェイガンを撃破する事が可能であると判断していたのだろうと思います。
 そもそもフリットは、ヴェイガンに対してこそ徹底的な強硬派ですが、だからといって連邦市民を軽んじているわけではないはずです。Zのティターンズや00のアロウズのように、敵の排除のためなら連邦市民が犠牲になっても構わないというほど無軌道な方針はとっていないように思えます。彼自身、少年時代はファーデーンを守るために体を張って戦ったような人物なのですし。


 しかし。実際には、この戦闘でソロンシティの市街は大きな損害を受けています。
 これは恐らく、フリットに誤算があったのだと思います。どんな?
 えてしてフリットのような人は、自分が出来る事は、他人も同じようにできるだろうと思ってしまったりするものです。そして自分の成功体験の記憶が強すぎるために、必要な説明が抜けてしまったりもするわけで。
 少し、このタイタス装備アデルの戦闘を詳しく見てみましょう。


 まずオブライト機がヴェイガンMSに囲まれピンチに陥ります。



 そこにアリーサ、マックス両機がショルダーチャージで割って入ります。
 ここまでは良いのですが、ここでタイタス装備のアデル2機はヴェイガンMSと距離をとり、これに続いて、



 オブライト機とヴェイガン機の間で射撃戦に発展してしまいます。
 この時のヴェイガンMSのビームが、市街に甚大な被害を及ぼしたのです。


 ファーデーンでのフリットの模範を見た後なら、アリーサたちのミスは明らかでしょう。タイタスはその装甲の厚さをいかして、相手に射撃戦の暇を与えずクロスコンバットに持ち込まなければならないのです。そうでなければ、「コロニー内市街戦で被害を最小限に抑える」タイタスの真価が発揮できないわけなのでした。
 その上、のちにアセムが駆けつけた段階で、



 タイタス装備なのに、格闘戦で劣勢に陥っています。



 つまるところ、アリーサたちはタイタスの意図と目的を、理解できていないのです。そしておそらくは、その性能を引き出せてもいないのでした。


 もし、この場にウルフ隊長がいれば、結果は違ったものになったはずです。恐らくですが、最低でもソロンシティの市街地への被害をあまり出さずに、事態を収束させる事はできたのではないかと思います。彼はAGE1タイタスの活躍も見ていますからね。
しかし不幸な事に、そのウルフはテクノソロン潜入のため不在だったわけであり。



 また、ここでアリーサたちを責めるのも、酷だと思います。彼女たちが新米パイロットである事は以前ウルフも口にしていましたし。ましてコロニー内戦闘、ましてタイタスでの戦闘の訓練がどれほど出来ていたかは疑問です。
 出来たてほやほやのタイタスウェアを装着していきなり実戦で使いこなして見せた、フリット少年のごとき天才ぶりはやはり特別ということで。



 とはいえ、フリットにはフリットの思惑があった事を、きちんと押さえておくことは重要です。それぞれのキャラクターが、それぞれなりの立場からちゃんと考えて行動しているというのは、ガンダムという作品において非常に大切な事だからです。


 この回は、なにげにミレースにも少しスポットが当たったりしていて、そこも面白かったりするのですが、今回も記事のボリュームが大きくなりすぎましたので、皆様におかれましては是非本編を見て確認していただきたく。



 ウルフと二人きりのシーンで、ちょっとだけ若々しく描かれるミレース艦長



 また、アセム得意の二刀流殺法も非常にカッコよく、力を入れて描写されています。


 そして次回、アセムとゼハート、そしてロマリーをめぐるドラマに進展があったりしまして、またまた大変な事になるわけですが、おいおい追って行く事にします。
 今回はこれにて。




※この記事は、MAZ@BLOGさんの「機動戦士ガンダムAGE台詞集」を使用しています。


『機動戦士ガンダムAGE』各話解説目次